【二・逃げる二人】
【二・逃げる二人】
ベルダネウスたちが隠し階段を駆け下りる。居間の入り口は閉じた上、中か
ら心張り棒をかまして開かなくしておいた。
「どうする。このまま連中が帰るのを待つ?」
「あれだけの人数を用意したんだ。研究室の存在ぐらいは気がついているだろ
う。それに、ずっとここを見張っていたのなら私たちの事も知っている可能性
が高い。そう簡単には退散してはくれないだろうな」
「じゃあどうするのよ。力玉の事を知られたら、ただじゃすまないわよ」
先にも記したが、力玉は禁制品である。当然、それを持っていることが知ら
れたら、魔導師連盟はベルダネウス達を拷問にかけてでも入手ルートを探り出
そうとするだろう。もちろん力玉は没収である。
「だからボーンの死体を見つけた時、すぐに逃げ出せば良かったのよ」
「屋敷を出たところで、衛視隊に囲まれて捕まっていたな」
二人は研究室に入ると、さらに扉が開かないよう、机や棚を扉の前に移動さ
せはじめた。山育ちで小さな頃から野山を走り回っていたルーラはなかなか力
が強い。棚を本が入ったまま扉の前まで押していく。
「これで、多少は時間稼ぎは出来るだろうけど」
彼女のつぶやきに返事もせず、ベルダネウスは壁を調べはじめた。
「何しているの?」
「隠し通路を探している。連盟に隠れて研究をしていたなら、逃げ道の一つや
二つ作ってあるはずだ。中からしか開けられない扉をな」
「そう都合良く見つかる?」
「黙っていろ」
「……」
壁の紋様のひとつを指でなぞっていたベルダネウスが目を細めた。
模様のいくつかを指で押すと、壁の一角がすっと開き、細い通路が現れる。
「すごい! ザン、ここ初めてでしょ。知ってたの?」
喜ぶルーラとは対照的に、ベルダネウスは開いた扉を前にしても緊張の目を
解かない。
「いや。使った跡があった。つい最近、おそらくは昨日今日のうちに使われた
んだ。たぶん、ボーンを殺したやつがな」
開かれた通路から水の腐ったような匂いが流れ込んできた。
「何これ?!」
ルーラがたまらず顔をしかめ、目の前の空気を払う。
「下水道に続いているのか? そうでなくとも、あまり清潔な場所には出なさ
そうだ」
そのとき、階段を駆け下りる音が聞こえてきた。
扉を開けようとする音が聞こえ、叩き壊そうという音に変わる。二人に選択
の余地はなさそうだった。
ベルダネウスは油瓶を手にすると、中身を部屋中にまき散らした。
火打ち石を取り出すと、机の上の書類に火をつけ、床に放り投げた。あっと
言う間に床が火に覆われる。
「逃げるぞ、光を呼べ」
二人は隠し通路に飛び込んだ。
ゆっくりと扉が机ごと押し開かれていく。やっと出来た隙間から、剣や魔玉
の杖を構えた衛視達が次々と室内に飛び込んでくる。
だが、すでに隠し扉は閉じており、彼らを出迎えたのは燃えさかる炎だっ
た。
隠し通路の先は、ベルダネウスの推測通り下水道に続いていた。流れている
水こそ汚いものの、そこそこ手入れがされているらしく動物の死骸などはな
い。掃除人等のために、水路の脇には人が通るには十分な幅の通路がある。
そこをうっすらとした光が走っていた。中央には何もない。光それ自体が人
の走るような速さで進んでいる。そのすぐ後ろに、黒い布で顔を隠したベルダ
ネウスとルーラがいた。二人が右に曲がろうとすれば光も右に、左に曲がろう
とすれば左に移動し行き先の空間を照らす。光自身に意思があり、二人を先導
しているように見える。
「あの隠し通路は気づかれてないみたいね」
「だと良いが」
その言葉が言い終わらないうちに、二人とは別の走る音が聞こえてきた。
「さすがに抜かりはないか」
ベルダネウスが、懐から鞭を取り出した。拷問用を改造したもので、剣はも
ちろん、槍の間合いの外からも攻撃できるだけの長さがある。
「いたぞ!」
衛視の声が後ろから聞こえ、龕灯の光が二人を照らす。二人が
聞いた音とは別の衛視がいつの間にか来ていたのだ。二人組で、一人は魔導師
だ。魔導師が手にした龕灯の光の中、もう一人の衛視が槍が構える。町中など
で戦うことを考えのことか、槍の柄は通常よりも短い。
魔導師が杖を前にかざし、小声で呪文らしきものを唱える。そのまま杖を
振った途端、人の頭ほどの火の玉が生まれベルダネウス達に向かって飛んでい
く。
マントを掲げてベルダネウスはそれをはじいた。彼のマントは不燃布、すな
わち燃えない布で出来ており、この程度の火の玉ならダメージを完全に防ぐこ
とができる。
その間に槍の衛視が間を詰めてくる。
ルーラは槍を構えたまま、その穂先に意識を集中している。
下水の汚水がいきなり盛り上がった。それは小さな津波となって衛視たちに
襲いかかり、龕灯の明かりごと二人を飲み込んだ。
汚水にまみれた体を起こした衛視がルーラの槍に目を止める。
「その槍は……精霊使いか!?」
そのとおり、ルーラは精霊使いである。
魔導師が自らの精神でもある魔力を使うのに対し、自然界の力を司る様々な
精霊と意思を交わし、力を借りるのが精霊使いである。応用力は魔導に劣る
が、自然の力だけあって単純な力は精霊の方が強い。
魔導師が魔玉という道具を使うように、精霊使いは精霊石と呼ばれる石を使
う。魔玉が杖に固定されるのに対し、精霊石は穂先に加工して槍にするのが普
通である。そうして作られた槍は精霊の槍と呼ばれており、魔玉の杖同様、精
霊使いの身分を表す道具になっている。
槍を構え直そうとする衛視の眉間をベルダネウスの鞭が叩いた。
眉間が裂け、激しい激痛に衛視がたまらず悲鳴を上げる。続いて通路にはい
上がろうとする魔導師にも鞭をふるう。下水道のような限定された空間では、
鞭のような間合いの長い武器は扱いが難しいのだが、ベルダネウスはそれを自
由に操り、変幻自在の動きを見せる。
魔導師の手から魔玉の杖を叩き落とし、さらに鞭で杖を下水に払い落とす。
激痛にのたうつ二人を残して、ベルダネウスとルーラは逃げ出した。
このワコブはスターカイン国の北東に位置する小さな町で、アクティブ、
ワークレイとの国境がある山に囲まれている。
数十年前、三国の間に緊張が走っていた時期は国境警備の町として重要拠点
となり、緊張が解け、国交が盛んに行われるようになってからは、三国を結ぶ
交通の要所として栄えた町だ。しかし、新たな街道が開かれるにつれ、訪れる
人は少なくなった。
とはいえ、穏やかな気候と豊かな自然に囲まれ、隠居を決め込んだ裕福な人
たちが腰を落ち着けるには格好の町だった。むしろ適度に人口が減ったおかげ
で緊張感が良い具合に和らいだという声もある。
また、精霊獣ヴァンクが住むと言われるヴァーレ山から山ひとつ越えて流れ
てくると言われる地下のお湯には癒やしの力が含まれており、それを目当てに
療養のために訪れる人も多い。
最盛期を過ぎたとはいえ、ワコブはまだまだ豊かな町なのだ。
下水道から出たベルダネウスとルーラを、心地よく冷えた清涼な空気が出迎
える。
すぐに物陰に隠れて顔を覆う布を外す。下水の匂いを追い出し、体の中の空
気を入れ換えるように大きく何度も深呼吸する。
ベルダネウスは自分の匂いを嗅ぐと、香水の瓶を取り出して軽く振りかけ
た。ルーラに香水を渡すと、彼女も同じように振りかける。
「あたしたちのこと、ばれているかな?」
「衛視達がどの程度情報をつかんでいるかだな」
二人は周囲に衛視の姿がないのを確かめると道に出て宿へと向かう。ベルダ
ネウスは衛視の姿に注意しながら小声で話す。
「屋敷に行くまではつけられているような気配はなかった。私たちの事を知っ
ていたとしても、具体的な顔や名前までは分からなかったのだろう」
「でも、あたしが精霊使いだって事はばれちゃったけど」
「ヴァーレ山が近いからな。ここを訪れる精霊使いも多いはずだ」
東を見ると、遠目に雪化粧をしたヴァーレ山が見える。無意識のうちにルー
ラは山に向かって頭を下げた。精霊使いにとって、ヴァンクの住むヴァーレ山
は聖地のようなものだ。
「だから、下水にいた精霊使いがお前だとすぐには特定出来ないはずだ」
とはいえ、バレるのは時間の問題である。
「だから、ボーンさんが死んでいるのが分かった時にさっさと逃げ出せば良
かったのよ」
「何度も同じことを言うな。宿に戻るぞ。すぐにワコブを出る」
ボーンの屋敷の方を見た。火の手が上がっていないところを見ると、脱出の
時につけた火は消し止められたらしい。
走って戻りたいところだが、まだ、自分たちの事が特定されていないと思わ
れる以上、目立つ行動は避けたい。二人はそのまま歩いて宿屋に戻った。
途中で何度も衛視達とすれ違った。その多くは通行人を観察しているように
見える。明らかに聞き込みをしている衛視もいた。
その様子にベルダネウスは眉をひそめた。
「おかしい、屋敷から出てほとんど時間が経っていないのに。あの剣士達が下
水から出て、報告し、捜索の手配をする……早すぎる」
「予め、準備をしていたんじゃないの」
「だったら、事前に私にも情報が入っていても良さそうなものだが」
先述したとおり、ベルダネウスにとってボーンは初めての取引相手である。
それだけに予め情報をいくらか仕入れている。魔導師連盟がボーンに対して、
調査しているらしいという事はつかんでいたが、ここまで大がかりな調査とは
聞いていない。
「ザンの耳に入っていなかっただけとか」
「その可能性は否定しない」
彼の口調が少し歪み始めたので、ルーラは周囲に目を向ける。精霊の槍をむ
き出しにしているのはまずいと思ったが、隠すような所はない。堂々としてい
る方が安全だとは分かっているが、どうしても気になってしまう。
逃げるように目を空に向けると、冷たい物が顔に当たった。
「雪?」
空から白いものが遠慮がちに降ってきた。ルーラはそこで初めて自分たちの
息が白くなっている事に気が付いた。
「まさか、雪には早すぎるぞ」
「でも、確かに雪……」
周囲の人たちも、珍しげに天を仰ぐ。
かざした手のひらに落ちた雪は、すぐに溶けて水になる。
季節外れなだけに、勢いのない雪だが、なかなか止まなかった。
「何だろう……」
ヴァーレ山を見ると、黒インクを吸った綿のような雲が目隠しのように空を
遮っている。
(精霊達、機嫌が悪いのかな?)
精霊石に意識を向けようとすると
「ルーラ、早く来い」
ベルダネウスにせかされたルーラはとりあえず精霊達の事はおいといて、脱
出することに意識を向けることにした。
宿屋に近づくと、ベルダネウスの眉間に皺が寄る。
明らかに衛視と見られる男が二人、宿屋に入っていくのが見えた。
「どうする? このまま逃げる?」
「宿代を踏み倒すわけにはいくまい。主人との話は私がする。ルーラは裏に
回って馬車の準備をしろ。精算が済み次第、宿を出るぞ」
「わかったわ」
彼と別れ、ルーラは宿の裏にある宿泊客の馬車置き場に向かった。屋根も無
い更地に三台の車が止めてある。ルーラが近づくと、隅で繋がれている馬の一
頭が頭を上げた。
「グラッシェ、ただいま」
馬の首を撫でてやる。ベルダネウスたちの馬車を引っ張る彼らにとっては
れっきとした仲間だ。ボックレと呼ばれる品種で、全身真っ黒い長毛に覆わ
れ、足も太い。そのせいで「毛ぶくれ」と呼ぶ人もいるぐらいだ。元々は農耕
馬として使われる種で、大型でスピードはないが力は馬一倍強く、荷物を満載
した馬車をぐいぐい引っ張っていく姿は実に頼もしい。
「ザンが戻り次第、出発するから。雪で走りにくいだろうけど、お願いね」
グラッシェを自分たちの四輪車に繋ぎ、荷物の点検をする。荷車自体は大き
いが、中の荷物は大した量ではないのですぐに終わる。
雪の量が増えていた。地面や庇が白くなり始めている。通りでは店が外に出
していた荷物を中に入れ始めた。
ベルダネウスはまだ来ない。
衛視の制服を着た男が一人、脇道から入ってきて、馬車をぐるりと見回す。
目が合って、ルーラは引きつった笑顔を見せた。
「失礼、仕事でね。ちょっと中を見せてもらうよ」
返事を待たずに馬車の中に入ろうとする男の前にルーラは立ちふさがった。
「すみません。衛視の証明書を」
言われて、男は衛視の身分証明カードを取り出し、見せる。
「どうぞ」
荷車から降りて衛視が中を見やすいようにする。と同時に、そっと精霊の槍
を構え直し、いつでも衛視を襲えるようにする。
「出発するのか?」
「ええ。何か天気も怪しくなってきたし」
「大丈夫さ。季節外れだから、すぐに止む」
最後に馬車の下をのぞき込む。が、ろくすっぽ調べもせずに顔を上げる。
「これからどこに行くんだ?」
「知りません。雇い主から聞いてないから。アクティブかワークレイか、ス
ターカインの別の町かも知れない。ま、どこだって同じですけど」
「精霊使いか」
槍を見た衛視がルーラの全身を見る。彼女の手のひらが汗で濡れた。
「精霊使いは珍しいですか?」
「自由商人の護衛としてはあまり見ないな」
精霊使いはその土地の精霊と交流する関係で、めったに住む土地を離れな
い。ルーラのように土地を渡り歩く自由商人についていく精霊使いは確かに珍
しいと言えた。
「ヴァンクにでも会いに来たのか?」
「雇い主の都合です」
答えながら、ルーラは衛視の動きに注意する。もしかしたら、自分を足止め
するために話しかけているのかも知れない。ベルダネウスが来ないのは、中で
捕まったのかも知れない。
「ところで何かあったの? 衛視達の動きが慌ただしいように見えるけど」
「人が殺されてね。まあ、殺されて当然って奴だったけど。一応仕事だから犯
人は捕まえないと」
そこへ、パンとワインと瓶詰めの入った紙袋を手にしたベルダネウスが出て
きた。後ろには衛視が一人、付いている。
「組合に挨拶したらすぐに出発するぞ。この雪で山道がぬかるまないうちに出
来るだけ進みたいからな」
衛視に聞こえるよう大きな声で言うと、ベルダネウスは御者台に乗った。
ルーラも荷台部分に飛び乗る。
「それでは失礼します」
「お気を付けて」
衛視に軽く手を振ると、二人を乗せた馬車は動き出す。
「大丈夫だった?!」
大通りに出ると、ルーラは聞いた。
「ああ、衛視の捜査は、ボーンとは別の事件だ」
「さっきの衛視は人が殺されたって言っていたけど」
「エグスという男だ。ワコブでも指折りの金貸しでもあり、嫌われ者だ。もっ
とも、好かれる金貸しなんていないがな。衛視や貴族とも、いろいろと知られ
たくない繋がりがあるらしい。それで慌てての犯人捜しだ。ボーンの件がない
がしろにされているって、魔導師連盟の衛視がぼやいていた」
「あたし達にとっては、ありがたいわね」
「油断は禁物だ。屋根に上がって槍を変えろ」
頷いてルーラは屋根に上がる。馬車の屋根は移動時の彼女の指定席であり、
わざわざ座れる場所や手すりを付けたぐらいだ。
屋根の棟板に手をかけると、中央部分が蓋のように外れた。その中には一本
の槍が隠されており、ルーラは素早く自分の精霊の槍をそれと取り替えた。
取り替えた槍はわざと無骨に作られたもので、もちろん精霊の槍ではない。
しかし、ちょっと見ただけでは彼女の精霊の槍と区別がつかない。これを手に
すると、ルーラは精霊使いではなく槍を使う女戦士となる。
理由は簡単、衛視たちは下水道での立ち会いから精霊使いを探すだろうか
ら、それを誤魔化すためである。
「町を出るまでそのままでいろ」
「わかったわ」
フード付きのマントを羽織る。幸いにも雪のおかげで、フードで顔を隠して
もそれほど不自然ではない。視界は遮られるが、昼間に町のど真ん中で奇襲を
受けることもないと思われた。
先ほどの衛視の言葉とは逆に、雪は一向に止む気配はない。空は黒ずみ、む
しろ勢いを増しているように感じられる。
手を伸ばして雪を受ける。
「これは……積もるわね」
町の出入り口では、簡単な検問をしていた。
ベルダネウスの他にも、足止めを受けている馬車がある。時間にしてはわず
かなものだが、雪が心配なのか、衛視と空を見比べている人たちが多い。
「中を改める」
ベルダネウスの馬車の番になると、衛視達が乗り込んでは中を見回す。力玉
は魔力を感知されないよう特別の布でくるみ、馬車の隠し棚に入れてあるから
簡単には見つからない。それに衛視が探しているのは金貸し殺しの犯人らし
い。とはいえ、やはりルーラは不安だった。
「宿を出るときに、一度、調べられましたが」
「それとは別だ。上の奴、顔を見せろ」
ルーラはフードをおろすと、わざとらしく槍を肩に担いだ。
「槍を使う女……?」
衛視の表情に変化が見えた。
「女の護衛は珍しいですか?」
ベルダネウスに促され、ルーラは屋根から降りて衛視の前に立った。衛視の
中にボーンの屋敷から見た顔はない。
「その槍、精霊の槍か?」
「まさか」
よく見なさいと言うように槍を突き出してみせる。
衛視達の数名が槍の穂先とルーラの顔をじっと見ていたが、笑みを浮かべて
首を振る。
その態度がちょっと小馬鹿にされたようで、ルーラは機嫌を悪くした。もっ
とも、下手に突っかかって立ち回りなんて事になっては大変なので、じっと我
慢をする。
彼らから目をそらし、大通りを見るルーラ。その眉が中央による。
(ちょっと、まずいよ……)
通りをこちらに向かって歩いてくる一人の衛視。魔玉の杖を持つその男は間
違いない、下水道でルーラ達と一戦交えた魔導師だ。しきりに自分の臭いをか
いでいるのは、ルーラに下水をかぶせられたためだろう。服を着替えても気に
なるらしい。
御者台では、ベルダネウスが衛視達に道の状態を聞いている。
「ベルダネウスさん、ぬかるみがひどくならないうちに、出発した方がいいん
じゃない」
言いながら槍の柄で自分の右肩を三回叩く。これは、直接言葉に出来ない状
況を考えて二人が決めた連絡法の一つで「危険接近・至急この場より離れろ」
の意味である。
「そうだな」
ベルダネウスは衛視に一礼すると、馬車を進ませる。怪しまれない程度に急
いで。
ルーラが振り返ると、あの魔導師が衛視達に臭いのことでからかわれている
らしい姿が見えた。
「何かあったのか?」
山道を曲がり、衛視達の姿が見えなくなるとベルダネウスが馬車を急がせ聞
いた。ルーラが魔導師のことを話すと
「そうか、お前が精霊使いと知られていなければ、追いかけてくることはない
だろう。ボーンが殺されたのが昨夜だとわかれば、尚更だ」
「昨夜殺されたのに、昼にのこのこやってくる人が犯人のはずないものね。と
ころで、これからどこへ行くの?」
「ボジュー山を越えて、アクティブに行く」
この選択はちょっと意外だった。アクティブへの道は他の道よりも長い。
「距離はあるが山道は整備されているし、国境近くに警備詰所がひとつあるだ
けだ。しかもこの国とアクティブとは友好関係にある。通過時の検査も緩い
し、詰めている衛視も二人だけだそうだ」
「国境警備と言うより、行き来する人たちのための休憩所みたい」
ルーラは再び屋根に上る。
「実際、そうらしいぞ。アクティブに行くなら、そこで食事を取ることを宿の
主人に勧められた。料理のうまい衛視がいるらしい」
「それで警備が務まるの?」
「務まるんだろうな」
道が分かれている。ベルダネウスは馬車をアクティブへと続く方に向けた。
「ボーン殺しの嫌疑が私たちに向けられることはないと思うが、用心に越した
ことはない。追いかけるにしろ、まさか、私たちが一番距離のある道を選ぶと
は思わないだろう。あえて問題があるとすれば」
天を仰ぎ、眉をひそめる。
「この雪だな」
季節外れと皆は言うが、雪は一向に止む気配を見せない。少しずつ、確実に
木々や道を白く覆っていく。ベルダネウス達の馬車の跡がワコブからアクティ
ブへと行く道に続く。だが、それも少し経つと雪に隠された。
連絡か周囲の探索かわからないが、何人か衛視とすれ違う度にルーラは緊張
したが、特に何もないまま過ぎ、いつの間にか衛視たちの姿も見えなくなっ
た。
馬車の車輪が雪と泥とを携えて、少しずつ重くなっていく。が、荷台が軽い
のが幸いし、グラッシェの速度は変わらない。
屋根の上でルーラは周囲を監視する。だが、雪はうっすらと空気を色づけ、
彼女自慢の視力を少しずつ封じていく。
「ボーンが殺されたのは、やっぱり魔導の研究がらみなの?」
視線を動かさずに聞く。
「わからない。死体の様子から見て殺されたのは夜中だ。研究にからんで争い
でも起こしたか、昨夜たまたま入った泥棒の仕業か」
「どんな研究していたの?」
ベルダネウスは頭の雪を払い落とし
「魔導人というのを知っているか?」
「知らない」
あっさりとルーラは答える。
「簡単に言えば、魔導によって作られた人間だ」
「魔導機人みたいなもの? あれなら、門番として立っているのを見たことが
あるけど」
ルーラは連盟の正門横で、巨大な剣や槍を手に番兵よろしく立っている鎧兵
士の姿を思い出した。二階から三階ぶんはありそうな巨体は全身を奇妙な紋様
で彩られ、彼女の記憶に強烈な印象を残している。
「それとは根本的に違う。魔導機人はいわば命令通りに動く人形だが、魔導人
は生物だ。ものを食い、排泄し、成長する」
ルーラがたまらず、
「まさか。この世で生物を生み出せるのは、自然界の生物だけよ。それも、同
種の生き物のみ。鳥は鳥、犬は犬、そして人間は人間しか生み出せないわ。そ
んなの常識でしょ」
「魔導師連盟の案内には、魔導は常識を越えた現象を導き、起こすこととある
ぞ。宣伝もだいぶ入っているだろうがな」
「仮に出来たとしてもよ。人が扱うものである以上、してはいけないことがあ
るわ。もししたら、とんでもない揺り返しがあるわ」
ルーラは屋根を這い、御者台のベルダネウスをのぞき込む。
「精霊使いとして、そんな反自然的な行いを認めるわけには行きません!」
「それをするのは精霊使いじゃない。魔導師だ。それに、魔導師連盟でも魔導
人の研究は禁じている。魔導人だけじゃない、合成生物もだ。要するに生命体
を作るという行為自体を連盟は禁じているんだ」
「でも、ボーンはやっていたんでしょ。魔導人の研究を」
「魔導師連盟の衛視達が、どうして踏み込んできたと思う」
「あ……」
「魔導人の研究をしていたからだ。禁じられた研究をしていたことがばれて、
彼を捕まえるために踏み込んだ」
「でも、その時はすでにボーンは殺されていたってわけね。だとすると、やっ
ぱり犯人は彼の研究を狙って?」
「その可能性は高いが、衛視達は別の可能性を考えているらしい」
「別のって言うと?」
「ボーンの魔導人はかなりのところまでいっていたらしい。魔導人は人間と全
く変わらない外見を持つ。問題は心の部分だ。その完成度が高ければ、人間と
同じような感情を持つ。喜び、悲しみ、怒り、泣き……殺意だって持つ」
その意味に気がついて、ルーラは唾を飲み込んだ。
「……魔導人が、創造主であるボーンを殺したってこと?」
「おかしな事じゃない。特に魔導師が魔導人などを研究対象にしか見ていない
場合、ある程度データを取り終えた魔導人は処分されるのが普通らしい。魔導
人にとっては殺されるわけだ。心があれば死を恐れる。反撃ぐらいするさ。
もっとも、ボーンの場合がこれに該当するかはわからない。あくまでもいくつ
かの仮説のひとつに過ぎない。犯人がボーンを殺し、魔道人を奪って逃げた可
能性だってある」
「創造主を殺した奴の言うことを聞いたの?」
「だから魔導人の心がどの程度なのかが問題だ。それがわからない以上、私た
ちが何を言っても勝手な推測に過ぎない」
ベルダネウスは言葉を止めた。
雪は降り続いている。
「でも、よくそこまでわかったわね。一応、ボーンは隠れて研究していたんで
しょう」
「肝心の魔道人がどんなものかはわからなかったがな。もっとも、部外者であ
る私がそこまでわかるのならば、とっくの昔にボーンは捕まっているだろう」
「そっか……。魔導人だとしたら、屋敷の中はよく知っているから研究室の秘
密通路のことも知っていたっておかしくない。ボーンはまさか自分が作った魔
導人が襲ってくるなんて思っていなかっただろうから、不意もつけられた…
…」
「そういうことだ」
雪は止むどころか、勢いを増してきた。さすがに、グラッシェの足取りも重
くなる。
「ルーラ、精霊に頼んで吹雪の勢いを和らげてもらえないか?」
「あたしにそこまでの力はないわよ。一応、やってはみるけど……、あたしっ
て、雪の精霊とは相性が悪いから」
ぼやきながら槍を再び精霊の槍に取り替える。
精霊使いといえども、すべての精霊と十分な意思の疎通が出来るわけではな
い。やはり相性の善し悪しがある。ちなみに、ルーラは風や地の精霊との相性
が良く、雪や闇の精霊との相性が悪い。
精霊石に意思を込めて、吹雪の中で踊る精霊たちに呼びかける。
「……どうして……」
彼女の顔色が変わった。
「どうした? 雪は止まないのか」
「精霊たちがなんだか変」
「変?」
「こういう季節外れの場合、精霊達が妙に浮かれているか怒っているかなんだ
けど、今回のはちょっと違うみたい。わかってやっている。みたいな……」
「それは、雪の精霊自身、今が自分たちの時期ではないと分かっていながら、
雪を降らせているということか」
ルーラがうなずく。
「あたしもこんなの初めて。これじゃあ当分、止まないわよ。それどころか、
ますます強まるかもしれない。ううん、きっとそうなるわ」
「ならば、このままだと山越えは無理かもしれないな。詰所で一泊なんて事は
なってほしくないが」
雪は風を伴い、吹雪になり始めた。ルーラもたまらず馬車に入る。
ベルダネウスにとってもこれは計算違いだった。
「なんてこった」
マントを不燃布から防寒用の物に変える。
寒さはともかく、やっかいなのは視界の悪さだった。ベルダネウスもこの道
は初めてだ。一本道なので迷う心配はないと町で聞いてはいたが、その道を外
したらお終いだ。視界が白一色なので、道の幅がわかりにくい。周囲の景色で
判断しようにも近くの山すら見えない。天候さえよければ楽しめるであろう雄
大な景色も、これでは台無しである。
視界の悪い山道を注意しながら進む。雪の積もった道では思うように進めな
い。
ベルダネウスが馬車を止める。
「手伝え。車輪に雪車板を付ける」
「まさか、ここで使うとは思わなかったね」
軽く反った細長い板を四枚、馬車の底から取り出す。
ルーラが地の精霊に語りかけ、馬車を少し持ち上げてもらう。車輪が浮いた
のを利用して素早く板を車輪に固定する。これで荷車は大きな橇とな
る。
「これでよし、急ぐぞ」
雪は積もっているが、雪車板のおかげでグラッシェも引きやすい。
まだ日は暮れていないはずなのに辺りは暗く、視界はますます悪くなってい
く。手綱を握るベルダネウスの手が濡れ、口が渇いていく。
「光の精霊を前に!」
言われて、ルーラが槍を前方に向けて意識を集中する。
光の精霊達が馬車の前方に集まり、少しずつ広がっては辺りを照らしてい
く。ボーンの研究所や下水道を照らしたあの光だ。便利ではあるが、そこに精
霊使いがいる証拠でもある。
馬車足を速めるベルダネウス。吹雪の勢いは一向に緩む気配はない。
ベルダネウスが急に馬車を止めた。
「どうしたの?」
言ってすぐ、彼女もそれに気がついた。
雪の中、赤い円の中に人が倒れていた。辺りの雪が凸凹しているのを見る
と、かなりもがいたようだ。少し離れて馬も倒れていた。人も馬も動く気配は
ない。
ルーラが馬車を飛び降り、その人に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
赤く染まった雪を手にすると、それは血によるものだと分かる。払いのける
と、衛視の制服を着た男が現れた。
その顔を見たルーラが思わず声を上げた。
「どうした?」
「ザン、この人。下水道であたしたちと戦った衛視!」
額に絆創膏を貼った衛視の顔を向ける。
ベルダネウスも馬車から降りてやってくる。
「確かに。生きているのか?」
「かろうじて、でも……」
彼女が起こそうとした途端、衛視がうめいた。
「大丈夫?」
衛視の目が開いた。しかし、ほとんど見えないのか焦点が合っていない。
ルーラは彼の傷を見た。肩や股などに傷があるが、腹の傷が相当ひどい。ど
うやら、何者かと剣を打ち合わせ、あちこちに傷を負った末に腹を刺されたら
しい。体が冷え切っている。顔に血の気が無く、表面が凍り付いている。やら
れたのはかなり前のようだ。
ベルダネウスは周囲を伺った。自分たちの他に人影らしき物はない。
馬に歩み寄り、雪を払ってやる。前足と首に深い傷があり、すでに事切れて
いた。馬のそばに柄の折られた槍が雪に半ば埋まっていた。下水道でも見た衛
視の槍だ。
首を横に振るベルダネウスにルーラは悲しげな表情を見せたが、すぐに
「早く手当をしないと死んじゃうわ。手伝って」
衛視の体を抱き上げようとする。
「ルーラ、私達がどういう立場かわかっているのか。顔を隠していたとはい
え、何かの拍子で私達のことを」
「わかっているけど、このまま見捨てろっていうの」
ベルダネウスを睨み付ける。彼女の気持ちに呼応したかのように、吹雪の勢
いが増した。
彼は大きく息をつくと、ルーラの代わりに衛視を担ぎ上げた。
「一刻を争う。町へ戻るよりも国境の詰所に急ぐぞ。そこで応急手当をする」
ルーラが笑顔になった。
「ここで睨み合い、時間を浪費するわけにはいかない。いいか、私たちのこと
に気がついても気のせいだで通せ。本当に下水道で出会ったのが私たちなら助
けるはずがないとな。それとよけいなことを言うな。特にボーンがらみのこと
をな。あの時の二人でなければ知っているはずがないことを口にしたら終わり
だぞ」
「わっかりました!」
元気よく返事をすると、ルーラは衛視を馬車に乗せるのを手伝う。馬車の床
に毛布を引くとそこに衛視を寝かせた。
「急ぐぞ」
ベルダネウスは手綱をならし、馬を走らせた。
ルーラは出来るだけのことはしようと薬箱を引き寄せ、少しでも楽にしよう
と衛視の服をはだけさせた。彼の内ポケットに血で染まった身分証がある。
「『キリオン・クレイソン』……スターカイン国/ワコブ衛視……」
「魔導師連盟の衛視じゃないのか?」
前を向いたままベルダネウスが聞く。
「そうみたい。家宅捜査で協力を求めたんじゃないの。下水道を見張っていた
んだし」
「時間から考えて、我々を取り逃がしてすぐに国境に連絡するために町を出た
のか」
吹雪が激しさを増してきた。ベルダネウスが舌打ちをする。
「ルーラ、何とか精霊達に雪を止めさせろ。このままじゃ、遭難しかねない」
「雪を止めるのは無理よ。そこまで精霊達に強制できないわ。精霊達が意図的
に降らせているのならばなおさらよ」
「だったら少し勢いを緩ませろ。道の周りだけでいい」
「やってみるわ」
ルーラは御者台に出ると、ベルダネウスの隣に立つ。
精霊石に意識を集中する。周囲を待っている精霊達に語りかける。何度も語
りかける。
その必死の意識に精霊達が気づいたのか、雪の降り具合が緩んできた。
「よし、次は道に積もった雪を何とかしろ」
ルーラが、意識を雪の精霊から風の精霊に向ける。
風の精霊達は彼女の願いをすぐに聞き入れてくれた。軽やかに舞い、道を
覆っていた雪を吹き飛ばしていく。完全には取り除けないが、雪車板のおかげ
で走りやすい。
「行くぞ」
ベルダネウスが馬の足をさらに速める。農耕馬として鍛えられたグラッシェ
の力は、雪による足場の悪さもものともせずに進んでいく。
そのまましばらく走り続けると、
「ザン、明かりが見える」
はるか前方、山の上に家の明かりらしきものが見えた。さらに近づくと、二
階建ての簡素な煉瓦造りの建物が見えはじめる。
ワコブとアクティブの国境近くにおかれた衛視隊詰所だ。
【次章予告】
荒れ狂う吹雪は道を隠し、11人の男女を閉じ込める。
衛視と自由商人、精霊使い、剣士と魔導師と死の神官戦士。
焦りと諦めの中、瀕死の衛視クレイソンが口走った言葉が彼らの心をかき乱し、
雪と風に捕らわれた舞台で11人の欲望が動き出す。
次章【三・足止めされた者たち】
欲望は、常に代償を求む。