プロローグ
「――詰まるところ、人を殺してはいけないというのは単なる自己防衛なんだよ」
なんとはなしに呟いた一言に、自分のナイトを動かしながらエリスさんが言った。
「自己防衛、ですか」
返答を求めていなかった呟きに突然言葉が返ってきたことと、その返答の突拍子のなさに驚きながら僕も盤上の――黒のポーンをビショップの斜め前へと進ませる。
「そう。自己防衛だ」
言って近くのクイーンで僕のポーンをとるエリスさん。
「君も知っての通り、人々が何かにつけて人を殺すなというのは、それを社会の共通ルールとして浸透させ、集合無意識とし種全体に植え付けることで遠回しに自分の受ける損害を阻止しているんだよ」
「? まあ、現代じゃ人を殺したらすぐに警察が飛んできますから、たしかに自己防衛って言えばそうなんでしょうね」
「うーん。そういう意味じゃないんだが」
エリスさんの困ったような唸り声を聞きつつ、取られたら取り返すというスタンスの下、ルークを縦に動かして前方のポーンを取る。
「ふむ。じゃあ、もし人を殺してはならないというルールがなかった場合を考えてみるといい。人間という、ある種闘争本能が高い動物が、感情というものだけで人を殺すことを躊躇うと、君は思うか?」
「それは、躊躇うでしょう」
なぜか返す言葉に詰まってしまった。
「ああ、無論躊躇う者もいるだろう。しかしな、少年。君はそれができない者達がいることをよく知っているだろう?」
言ってエリスさんが部屋の隅にある、最近買い換えたと自慢していた五十インチの薄型液晶に視線を向けた。画面には毎日のように流れている傷害事件のニュースをやっていた。
「だが、ここで『人が人を殺してはいけない』という共通のルールを設けると、さらに殺しを躊躇う者が増え、同族殺しをする者は大幅に減る」
言い終えたあと、小休止とばかりにエリスさんが白のクイーンを黒のキングのいる列に置く。前には遮るものはなく、裸の王様を連想させた。
「もっとも現存する多くの人間が、自己の防衛のためそのルールを守っているなど、毛ほども考えていないだろうね。しかし、人類はそのルールを暗黙の了解としてそのほとんどが無意識に守っている」
エリスさんが言い終えるのを待って、黒のキングと白のクイーン間を遮るようにビショップを移動させる。
「なぜだかわかるかい?」
「ええと……」
なんと答えたものかと、言葉を探すがどうにも思い浮かばない。
「簡単だよ。人は本能でそのルールを守らねば、自分が危うくなると知っているんだよ」
その答えは、どこか冷たい氷を落としたみたいに僕の胸に響いた。
「もうちょっとその、心理的な部分でないんですか?」
「そんなものはあったとしてもごく一部だよ。多数のうちごく一部なら、それはないのと一緒だろう? ならそれはないと結論づけたほうがいい」
僕との会話が思いの外長いためだろうか。いつもと違い集中が欠けているエリスさんは白のキングのマスの斜めに前方にいる僕のビショップ存在に気付いていない。今僕が白のキングの前にルークを持ってきたらそれだけで詰み。その他にもどこに逃げようと、他の駒が白のキングを狙えるよう配置もできている。
どうやら今回こそは僕の初勝利を飾ることができそうだ。
「でもそれがないと断ずるほどに少数なのは当たり前だろう」
ふっ、とエリスさんが僕を見て薄く笑った。
「現代は昔よりさらに殺人行為について厳しくなっている。それはもはや原初の『自己の防衛』という概念をさらに昇華し、自己の防衛のために作ったルールが、罪科として時に自分を殺しにくるんだ。だからこそ現代の殺人行為に対する敷居が高くなり、そのルールがさらに強固なものとなるのは皮肉なものとは思わないかい?」
そこでエリスさんが言葉を区切ったの見計らって黒のルーク移動させ、自身をちょっぴり配合した声でその言葉を言う。
「チェックメイト」
「……良く考えられたものだろう? 私は無意識というところに人間の本質があると感じられるよ」
僕の勝利宣言に少しばかり目を向けて、まるで相手にしていないような感じでそう言ったエリスさんに再度宣言する。
「チェックメイトです」
「ん? ああ、チェックメイトか」
再度宣言しても態度は変わらず、エリスさんは気にした風もなく盤上に目を向ける。
「キャスリング」
「へ?」
「だからキャスリングだよ、キャスリング」
見るとたしかにエリスさんの白のキングと片方ルークは一マスも動いていなかった。
「悪いけど、負けてはやれないな」
場所が移り変わる白のキングとルーク。そしてそれらが必然的に生み出すのは、まさに今の僕とは真逆の有様だった。
「チェックメイト」
これが実物の戦場であったなら刃物を突きつけ、今にも殺されんばかりの状況。
慌てて周りの駒で防ごうとしても、時すでに遅し。どこに駒を持って行こうが移動させようが、僕のキングが討ち取られるのはもう回避できなかった。
「参りました」
僕の降参の言葉とともにエリスさんがため息を出し、ソファに背を預けた。
「やはり今回も私の勝ちだったね」
「そうですね」
返す自分の声にやや不平を交えて、背を背伸びをする。
「まあとにかくさっき言ったのが、人が人を殺していけないのかという問いの答えだよ」
「へ?」
「だからさっき君が疑問にしたことについてだよ」
「ああ、そのことですか」
どうやらエリスさんは先ほど僕が漏らした『人が人を殺してはいけない理由』についてのことを言っているらしかった。
思えばなぜそんなことを言ったのか思い返し、盤上の駒が取られていく様を見てそう呟いたのだと思い出す。
「なにか悲しいですね、その答えは」
その回答は人が持っている温かさを全否定しているようで、どこか機械めいたものだと感じた。人肌ではなく、ただ機械を構成する鉄のような冷たさはただただ寂しかった。
「――でもそれってもし誰かに襲われて正当防衛から誰かを殺すことも、逆に殺さないことも結局は自分を守るためということなんですね」
「ああ、その通りだ。どうだい? 中々に矛盾してるだろう」
「やっぱり悲しいです」
「君がそれを言うか」
エリスさんがソファから背を離し、立ち上がる。
「君の言葉を借りるなら、君は常に悲しみを繰り返していることになるんじゃないか」
エリスさんが何を言いたいのかわかり、その言葉を否定する。
「あくまでそれは比喩ですよ。というか本当にそんなことしてたら僕はここにはいませんよ」
「まあたしかにそうだね」
後ろ背にそう答えてエリスさんが電気ケトルの方へと歩いて行く様を目の端で捉える。
そう。それはあくまで比喩であって真実じゃない。これは比喩だ。
ああでも、もしかしたら一時だけとはいえ――
「コーヒーはブラックでいいかい?」
思考を遮るように響いたエリスさんの言葉に一瞬驚きつつも、お馴染みとなった言葉を返して、とりあえずはこのことは先送りなり忘れるなりすることにした。
「砂糖ありの甘いやつでお願いします」