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愛しき夢は忘れ雪

作者: 土能
掲載日:2015/07/02

「もうそろそろ春が来ても良さそうなのに、外の寒さは嫌になりますよ」

 目の前のソファに腰掛ける、白衣をまとった初老の男性が柔和な笑みを浮かべる。

「そうですね。ついこの間まで雪が続いていましたから。この分じゃ、まだまだ冬は続きそうですかね」

 もう三月だというのに、未だに続く寒さに苦笑しながら私は応えた。

 とある病院の一室。小さなローテーブルを挟んで、いつものように担当医の先生と他愛もない会話をしていた。

 こうして病院に通うようになって、すでに半年は経っただろうか。今では二週間に一度、病院にやって来ては先生と適当な話をする。どこか具合が悪いというわけではない。もう何の不自由もなく生活できている。

「それでどうです。頭痛の方は?」

「相変わらず、良くも悪くもなっていません。もう気にしてませんよ。慣れちゃいました」

 そう――ここを退院してから時折感じるようになった頭痛さえも、既に日常の一部となっていた。今更、不快に思うこともない。

 私がこの頭痛を受け入れてしまっていることを、医者として放ってはおけないのだろう。先生は手元のカルテらしき書類に目を通しながら、浮かない顔つきになる。

「それはいけませんねえ。その頭痛さえ治ってしまえば、もうここに来る必要はなくなるんですよ。嫌でしょ、病院に通い詰めっていうのも」

「そんなことないですよ。こうして話をしていると、不思議と落ち着くんです。妻や両親にも心配されますけど、生活にはなんの支障もありませんし、ちょっとした息抜きになってますよ」

「……そうですか」

 一瞬悲壮感を漂わせた先生は、笑顔をつくり直すと私の前に置かれた空の湯呑を手にして立ち上がった。

「新しいお茶を淹れてきますね。楽にしていてください」

 そう言うと、先生は隣の部屋に戻っていった。

 簡素な部屋に一人残され、たちまち静寂に包まれる。部屋の端に置かれた観葉植物を見てみると、葉の上に薄くホコリが積もっていた。それはあたかも粉雪のように、うっすらと白いグラデーションを施したようだ。

 窓の外に視線を移す。こちらも一面が薄く白い雲に覆われ、ここを出る頃にはまた雪が降っているかもしれない。

 そうして何の面白味もない空模様を伺っていると、湯気を立てる湯呑を持って先生が戻ってきた。

 目の前に湯呑が差し出される。たちまち広がるほうじ茶の香ばしい匂いが、私をほっとさせる。

「この様子じゃ、また雪が降るんですかね。早く暖かくなってほしいもんです。ここに来るご老人たちも常々ぼやいてましてね。毎度同じことを言われるんですよ」

 長話に付き合うのは骨が折れますと苦笑いする先生は、白髪交じりの頭を掻くと静かに語りだした。

「――もう半年になりますよ、あなたがここを出てから。あの頃の姿からは想像できないくらい、今のあなたは日常生活を送れるほどに回復しました。医者としてとても嬉しいことですが、まだ完治したとは言えません。だからこうしてカウンセリングをしに来てもらってるんです。しつこく聞くようですが、分かってますよね?」

 間違いなく頭痛の話をしているのだと分かる。それはこれまでに何度か同じことを聞かれたからだ。

 先生は言っていた。患者自身に克服しようとする意思がないと、治るはずの病気も良くならないと。それは十分わかっているつもりだ。

 しかし私は思うのだ――根拠はないが、この頭痛は一生良くならないと。

 何の前触れもなく突然やってくる痛みに、初めはたしかに苦しめられた。退院した直後は、それこそ三日毎に病院を訪れていたくらいに。

 それでも頭痛は収まらなかった。いくら検査をしても体に異常は見つからず、最終的には精神的なところに問題があると言われてしまった。だからこうしてカウンセリングを始めたのだが、今日まで通院は続いている。良くなる兆しも見られない。

「先生には感謝してます。けど、こいつはもうどうしようもないと思うんです。さっきも言いましたが、もう気にしてません。大丈夫なんです」

「ですがねぇ――」

 以前にも何度か同じやりとりをしているためか、先生はそれ以上何も言ってはこなかった。

 先生のやりきれない顔を見るのは心苦しくなるが、こればかりはすでに諦めてしまったことだ。治そうなんて考えは遠に消え、私はこの頭痛と共に生きていくことを決めてしまっていた。

 私は湯呑に入ったほうじ茶を一口含みながら、入院していた頃を思い出していた。

「入院していた半年のこと、私はほとんど何も覚えていません。だからこそ、そんな何も無かった日々からやっと抜け出せたことに、今は十分満足してるんです。頭痛は後遺症みたいなものなんでしょう? それなら、時間をかけて治すよりも、取り戻した日常を満喫していたいんです」

 私は自分が入院していた理由さえも正確には知らなかった。

 気づいたらここにいて、何が何だか解らないまま退院していた。

 先生や看護師たちは、私が過労で倒れてからずっと目を覚まさなかったと言っていた。そんなことになるような覚えはないのだが、知らず知らずのうちに無理をしていたのかもしれない。このことに関しては妻も両親も、何かを語るようなことはしなかった。退院の日、妻とまだ幼い娘はいつもの笑顔で、両親は泣いて私を出迎えてくれた。

 結局今まで、入院していた経緯は分かっていない。

 しかし、こうして何気ない、幸せな日々をもう一度送れると思えば、それは些細なことだ。目を覚まさないことだってあったのかもしれない。それならば、この現状を喜んで受け入れることができるのだ。

「あなたみたいな人、けっこういるんですよ。先の人生を失いかけて、再び日常に戻っていった患者さんを、これまで幾人も診てきました。そして多くが、これまでの人生が如何に報われていたのかを悟るんです。これまでの、すべての時間を見つめ直すんです」

「それが、何か?」

「私はそこに頭痛の原因があると思うんですよ。当たり前のことですが、人生には辛いことや悲しいこと、思い出したくないことだってあります。そしてそれらを振り返るとき、当然心に負荷がかかる。あなたの場合、それが顕著に出てしまったのではないかとね」

 そう言って先生は、今まで一口もつけていなかった自分の湯呑を手にした。湯気も立たず、すっかり冷めているであろうほうじ茶にやはり苦笑いする。

「……すっかり冷めちゃいました。けどね、いいお茶っていうのは冷めても美味い。現実や夢なんかとは大違いですよ」

 妙な例えを出した先生は、笑いながらすっかり冷めてしまったほうじ茶を飲み干した。

 現実や夢は、さめてしまえば途端につまらなくなる――ということだろうか?

 先生の言葉が、少しばかり気になった。

 先生が壁掛け時計に目をやると、私もその視線を追ってしまう。カウンセリングを始めてからそろそろ一時間は経とうとしていた。

「おや、もうこんな時間ですか。話に夢中になっていると時間を忘れてしまいますね」

 先生は手元の資料を簡単にまとめて立ち上がった。私もそれに続いて立ち上がると、ソファにかけられたコートを着直した。今回の診療が終わったのだ。

 もう昼だというのに、外はさらに薄暗くなっている。

「今日も、ありがとうございました」

 先生に軽くお辞儀をすると、いつもの柔和な笑みで返してきた。

「いえいえ、何かあればすぐに連絡をください。それでは、また」

 診療室から廊下に出ると、忙しそうな看護師や患者であろう人たちとすれ違う。その内の何人かはもう顔見知りになっていた。私が何度もここを訪れているおかげ、というのは変だろうか。

「おぉ兄ちゃん、まだ良くならんのかい?」

 ロビーで受付から名前を呼ばれるのを待っていると、汚れた野球帽をかぶった老人に声をかけられた。長椅子に座る私から少し距離を空けて、その老人も腰掛ける。彼は手袋代わりの軍手を外し、シワだらけの手をこすり合わせた。

「調子はいいんですがね。ここにはまだまだお世話になりそうですよ」

「まったく、まだ若いんだからもっとしゃんとしないと! オレがあんたぐらいの年の頃は、バリバリ仕事してたけどねぇ」

 周りを気にせず陽気に笑う老人は、私の背中をパシッと叩いた。

 私は苦笑いするしかないのだが、このやり取りも慣れたものだ。初めて彼と会話した時は、あまりの元気さに驚かされたものだが。

「長い間通院してるといっても、私も今の仕事は頑張ってるつもりですよ。それに頑張らなきゃいけないんです。妻子を養う身なんですから」

「奥さんと子供を食わせにゃいかんわけだ。それじゃ尚更、こんなとこの世話になるのは終いにせんとなぁ。家族を泣かせるんじゃないよ」

 やはり家族は私のことを心配しているのだろうか。

 家ではあまり頭痛のことを話してはいない上に、それも隠すようにしている。そんな中で妻が、私が通院を続けていることをどう思っているかなんて、そんなこと考えたこともなかった。病院に出かける私を笑顔で送り出してくれる妻は、やはり不安を抱えているのだろうか。

 そんな時、受付のコールが私の名前を読み上げた。

 私は老人に「お元気で」と小さく会釈すると、受付で支払いを済ませて寒空の下に出た。

 暖房が効いた屋内から出ると、すぐさま冷たい風が吹き付けてくる。何枚もの落ち葉が足元を転がる中、私はコートの襟を立てて歩き出した。

 外に出てわずかだが、あまりの冷たさに耳が痛んでくる。

 クシャリ、クシャリと、落ち葉を踏む音を聞きながら、真上に広がる灰色の空を見上げた。

 今にも雪が降ってきそうだ。



 病院から急ぎ足で職場に戻った私を、小太りの工場長は笑顔で出迎えてくれた。

「寒い中ご苦労様だったね。早速だけど、今日もしっかり頼むよ」

「はい、遅れた分を取り戻します」

 私の返事に満足げに頷く工場長は、一言「がんばれよ」と言い残して事務所の奥に引っ込んでいった。

 私は大学卒業後から、この食品加工会社の工場で働かせてもらっていた。そして私が入院している間もずっと籍を残していてくれたのが、ここの工場長。返しきれないほどの恩がある人物の一人だ。

 一ヶ月も仕事を休むようなことがあれば、普通はクビになるだろう。しかし工場長は、私を追い出しはしなかった。

 まだ三十歳とはいえ、再就職が難しいこのご時世だ。就職に活かせるような長所などたかが知れた程度の人間を、今更雇ってくれる企業もそうそうないだろう。しかもこれは私だけの問題ではなかった。私には養うべき人がいる。一家の大黒柱が、早々に折れるわけにはいかなかった。

 工場長が何を思って私のクビを切らなかったのかは知らないが、私はこの工場で働けている今という時間を、本当にありがたく思っている。

 私は身体洗浄を済ませて真っ白な工場白衣に着替えると、担当しているラインに足を向けた。そこでは私と同様真っ白な格好のスタッフたちが、コンベヤーの前で忙しそうに仕事をしている。

 私のヘルプで入ってくれていた同僚のパートさんに感謝の意を告げて、いつもの機械的な作業に移った。入院している間に鈍ってしまった仕事の腕も、今では入院前よりも作業効率が上がったほどだ。半年も経っていれば当然のことかもしれないが。

 そうして時間を忘れ、黙々と作業をしていると、終業の放送が工場内に流れた。

 今日の仕事が無事終わり、肩を並べて作業していたスタッフたちがホッとしたのが分かる。

 皆が作業場から抜けていく中、私はいつものように終業後の点検作業のため、その場に残っていた。私の他に数人が同じく点検作業や掃除をしているが、それぞれは持場によって班分けされたスタッフの一人であり、他の班員との会話はあまりない。そんな静かな空間で、やっと私は気を休めることができた。

 私が仕事に復帰してからだ。以前と職場で感じる空気が少しばかり変わったのは。

 最初は久しぶりの職場で仕方がないと思っていたのだが、どうも同僚たちの接し方がぎこちないのだ。半年も休んでいたために疎まれているわけではないだろう。事実、私が話しかければみんな優しく対応してくれる。ただ、向こうから話しかけてくる者は、極端に減っていた。

 同僚の多くはパートで入っているようなオバちゃんである。とにかくおしゃべり好きが多くて、入社したばかりの頃はうるさいくらいに話しかけてきたものだ。

 しかし、退院してからは、私の周りはずいぶんと静かなものだった。同僚たちとの間にいつの間にかできていた壁は、微妙な距離感をつくり、それは今日まで続いている。

 そんな何とも言えない気まずさの中で仕事をしていれば、誰だって気詰まりしてしまう。

 だから、職場では一人になれる時間が必要だった。最後の清掃・点検作業だって、本来なら週ごとに班員が入れ替わらなければいけない。しかし、私は一人になりたいが為に、工場長と班長に掛け合ってまでこの作業を毎日続けていた。

 他の班のスタッフが「お疲れさま」と言って一人ずつ帰っていく。そうして自分が最後の一人になったところで、ようやく私も作業場を後にした。

 帰り支度をするためにスタッフルームに戻ると、もう全員が帰ったあとだった。

 誰もいないその部屋は、ひどく寒々しく、そして過去からの移ろいを如実に物語っていた。




「人は忘却の中で生きている」

 病院に通うようになって間もない頃、先生にそう聞かされたことがある。

 その日は一日中、私はその言葉について考えを巡らせていた。不思議と心に響いた言葉だった。

 記憶とは、手ですくった海砂のごとくいとも簡単にこぼれ落ち、雪のごとく儚くも心の中で溶け去ってしまうもの。人は物事を記憶し、そして忘却を繰り返しながら、人生を歩み続けている。

 しかし、そんな中にも消えてしまわないものがある。心の奥底に積もり続けるそれは、《思い出》という名の記憶だ。

 忘れることが当たり前の人間が、それでもなお覚えていようとする《思い出》とは何なのか?

 忘却から免れた記憶には、一体どんな意味があるのだろうか?

 きっとそこには――喜怒哀楽を伴う様々な記憶の一つひとつには、重要な意味がある。《思い出》という形で残された記憶には、人生という長い旅路を共に歩むだけの価値がある。

《思い出》があるから、人は生きられる。

 そのとき何を感じ、何を思ったのか。思い出には他人と共有できないものもあり、だからこそ、人の成長にとって大きな糧となるのだろう。豊かな人間性、独自性、感性を育むことが、その役割と言えるかもしれない。

 そして他人と共有できる《思い出》にはどんな役割があるのか?

 それは人との繋がりを確かなものにする《絆》だ。

 思い出は《絆》となり、希薄な人間関係を強固なものにする。それは良くも悪くも、人と人とを結びつけ、その結び目は緩むことはあっても、自分の意思では決して解くことはできない。

 忘却の中で生きている我々は、思い出によって誰かと繋がり、自分を存在させることができるのだろう。

 どんな動物も一匹だけでは生きていけない。それは人間も同様だ。

《思い出》によって、誰かと一緒だと感じることができるから、私たちは日々を生きていける。《思い出》は、そんなかけがえのないものだと、私は考えている。

 だからこそ、忘却の中で生きている人間は、思い出を――《絆》を守るために、必死になるのだ。

 まだ三十年しか生きていない若造だが、私はそんなことを考えてもいた――




 私が帰路に就く頃には、雪がしんしんと降っていた。

 終業後の作業にいつもよりも時間をかけたせいか、すっかり街は暗く、静けさに包まれている。さらに駅からの道中、近所のスーパーに寄ったこともあり、私が家に着いたのは二十二時を回ったときだった。

 妻と娘は先に寝てしまったのだろうか。玄関の小さな外灯だけが弱々しい光を灯しており、我が家はシンと静まり返っていた。

 二人を起こさないようにそっと家に入る。私は靴を脱ごうと座り込むと、靴箱の上に飾られた黄色い花を目にした。

 それは妻が庭で育てていたキンセンカだ。とてもキレイに、寒さに負けじとその花弁をいっぱいに広げている。

 私はその美しさに一息吐くと、悴んだ手を摩りながら着替えるために家の奥へ向かった。

 着替えを終えて、買ってきた半額弁当をひとり台所で食べる。しかし、それだけでは寂しいと冷蔵庫を漁ってみると、妻がつくり置きしていたのだろうか、肉じゃがの詰まったタッパーを見つけた。

 肉じゃがを小皿に取り分け、電子レンジで温める。するといい匂いが漂ってきた。途中まで弁当を食べていたのに、思わず腹の虫が鳴いてしまう。

 温め終えたそれを、冷めた弁当の白飯と一緒にかき込むと、懐かしい味が口の中に広がった。

 それはまるでお袋の味。結婚前の料理下手だった妻が懐かしい。

 私が度々文句を言って、喧嘩をしたこともある。そのせいか、妻はお袋に料理を習うようになって、今ではこんなにも美味い飯をつくれるようになっていた。これは素直に驚きだ。

(久しぶりに肉じゃがなんて食べたが……まさか、ここまで上達していたなんてな……)

 味の染みたじゃがいもを頬張りながら、これも妻が私のために努力してくれた結果なのだと、その有難味を堪能するように噛み締めた。

 私が入院していた間、妻と娘には大きな心配をかけたことだろう。特に専業主婦の妻を思えば、その後の生活のことで大いに悩ませてしまったに違いない。一家の大黒柱が入院したとなれば、家族が生きていくためのお金が入らなくなってしまうのだから。

 心配をかけた分、私は二人を大事にしていかなければいけない。二人への愛情と感謝はあの入院以来、当然のように大きくなった。今の私の、唯一の生きがいと言っても過言ではない。

 私のために苦労をかけた妻に、そして寂しい思いをさせてしまった娘に、改めて今週末にでも何かしてやろう。

 食べ終えた後の食器をひとりで片付けながら、カレンダーに目をやって週末の予定を考えていた。

 大事な二人の笑顔が、頭の中に浮かんでいた。



 次の朝、珍しいことに頭痛もなく目覚めた私は、隣で寝ている妻を起こさないように、静かに布団から出ていた。

 窓の外はまだ暗く、家の中だと言うのに肌寒い。それでも私は、良い朝を迎えられたことに少々浮かれていた。時計の針は五時を指している。

 妻は低血圧のせいか、元々寝起きが悪い。そんなところも可愛いのだが、私が早起きした理由は別にある。

 最近、家事にハマっているのだ。

 仕事帰りは疲れていることもあり、昨晩のようにスーパーの弁当で済ませることが多い。しかし、余裕がある朝や休日は、私が料理をすることがとても多くなっていた。

 最初は、妻に代わって美味い料理をつくるべく、料理本と睨めっこしながら調理したものだ。それがやがて、慣れてくるにつれどんどん楽しくなり、今では趣味の一つになっていた。

 お袋に料理を習っていた妻には拗ねられるが、朝に弱い彼女の代わりに、今もこうして腕を振っているのだ。ただ、彼女も料理の腕が相当上達している――もしかしたら私よりも上手いかもしれない――ため、昨夜の肉じゃがを思い出すと、悔しい気持ちにもなるし、もっと彼女の手料理を食べたいとも思ってしまう。

 そんなこともあり、今朝は少しばかり張り切ってしまった。

 妻と娘が好きな半熟のスクランブルエッグは、普段よりも多めにバターを使ったため、いい香りが台所に充満している。焼き加減もばっちりで、仕上がりはトロふわ。

 私は鼻歌を歌いながら、自分の弁当箱にスクランブルエッグと、昨日の肉じゃがの残りを詰めていく。こうして並べてみると、どちらも甲乙つけがたい。

 他のおかずも二人が起きてきたらすぐに食べられるように、タッパーに入れて冷蔵庫の中、肉じゃがと交代させるように置いておいた。

 六時を過ぎれば二人も起きてくる。そうすれば、私のつくった朝食を嬉しそうに食べてくれることだろう。早朝出勤でその顔が見られないのが残念だ。

 身支度を整えた私は、音を立てないように玄関を開けると、奥で寝ている二人にそっと声をかけた。

「行ってきます」

 空には薄い雲。朝焼けの空気に白い吐息が溶けていく。

 今日も雪が降りそうだ。



 職場での昼休み、スタッフルームで弁当をつついている時だった。

「みんな、ちょっと聞いてくれ」

 工場長が奥の事務所から出てくると、私たち作業員に声をかけた。全員の視線が集まったことを確認し、咳払いを一つはさんで口を開く。

「午前中にトラブルを起こしたCレーンの機械だが、急遽メンテナンスすることになった。だから、今日の業務は全て休止だ。みんな昼食を済ませたら、業務日誌を提出して帰っていいぞ。ただし、Cレーンの班長だけは少し残ってくれ」

 思わぬ朗報だ。今日はもう帰れるらしい。

 昼休みで雑談に花を咲かせていたオバちゃんたちも、さらに嬉しそうに会話を再開させている。居残りを命じられた社員さんだけは、周りから茶化され苦笑いを浮かべていた。

 せっかくの機会だ。早く帰ってしまおう。そして家族との時間を堪能しよう。

 普段は帰りが遅いため、あまり娘の遊び相手にもなれず、妻にばかりその世話を任せっきりだった。これでは夫として失格だろう。週末の予定はまだ先だが、少し早めの名誉挽回といこうじゃないか。

 そうと決まれば、さっさと業務日誌を書いてしまおう。

 私はデスクから黒い冊子を取り出し、手早く今日の日付のページにペンを走らせると、書き終えたそれを「日誌入れ」と書かれた簡素なボックスの中に入れに行った。

「おや、もう帰ってしまうのかい? なんなら、私の書類整理を手伝ってくれてもいいんだよ?」

 ちょうど出会した工場長が、意地悪そうに笑って語りかけてくる。

「ハハ……勘弁してください。今日は早く帰って、娘を喜ばせてあげたいんですから」

「……そうか。そうしてやりなさい」

 工場長は一瞬、憂いを帯びた瞳で私を見つめた気がした。しかし、優しげな笑顔には何の変化もない。そう見える。

 私はつい先日も、同じような場面に立ち会った気がする。それはどこだったか、思い出せそうで思い出せない。

「そうだそうだ、君に渡すものがあるんだった――ちょっと待っててくれ」

 些細なことで頭を悩ませていると、工場長は奥の仕事部屋に引っ込んで、小さな紙袋を持ってきた。

 差し出されたそれを受け取り、中身を一瞥してみると、どうやら贈り物の菓子らしい。紺色の箱から何やら甘い香りが漏れてくる。

「……どうしてこれを、私に……?」

 私は素直に疑問を口にした。

 工場長から何かを貰う理由などない。逆に、私の方が何かを贈らなければいけない立場だろう。それだけのことを、今までしてもらっている。

 私の問いに、工場長は少しばかり目を伏せて答えた。

「君のために用意したんじゃない。奥さんと娘さんに、だ」

「はぁ」

 私が気の抜けた返事しか言えないでいると、工場長は「また明日」と短く言い残して他へ行ってしまった。最後までその顔に、いつもの陽気な笑みを戻さずに……。

 どうして工場長は、妻と娘にこんなものを用意したのだろうか?

 結局、肝心なことは解らなかったが、何時までも突っ立っているわけにもいかない。

 私は不思議に思いながらも、意外な手土産を持って帰宅することにした。

 


 電車に揺られていると、紙袋のことよりも早く家族に会いたい気持ちで頭が一杯になっていた。それだけ、夕方前に帰宅できるのが珍しかった。

 曇り空だが幸いにも雪は降っておらず、駅から自宅まで急ぐこともできる。

 見慣れた駅に電車が止まり、私は駆け足気味に降りた。そのまま改札も抜け、今日は寄り道もせずに帰路を行く。

 まだ明るいうちだからか、街は人や車の往来もそこそこあり、その活気にどうしてか頭が痛くなってしまう。いつもの頭痛のようだが、なんともタイミングが悪い。早く帰って娘と遊ばなくてはいけないのに。

 痛みに耐えて歩くこと十五分。やっと我が家が見えてきた。思わずホッと白い息を吐き出した。すると頭の痛みが、すっと潮が引くように消えていく。

 おやおや、一体どうしたことだろう?

 普段ならジンジンとした痛みが続くのだが、今日は呆気ないほどに、すぐに収まった。

 今日は運が良い。これで心置きなく家族サービスができる。そう思うと、自然と気分が浮かれてしまう。

 いそいそと扉の鍵を開け、自分でも馬鹿らしいほどに意気揚々と声をあげた。

「ただいまー。今帰ったぞー」

 シンと静まり返る家の中、自分の影が玄関から伸びている。

 久しぶりに早く帰ったというのに、誰も応えてはくれない。いつもなら愛する娘が「パパ!」と言いながら出迎えてくれるというのに。

 買い物にでも出かけているのか、それとも団地裏の公園に遊びに行っているのか。二人の姿が見えなかった。

 着替えもせずに固定電話をチェックしてみると、案の定メッセージが残されていた。

『娘と買い物に行ってくるので家を空けますね。夕飯までには帰ります』

 妻の言葉の裏側で、娘の無邪気な笑い声が聞こえる。

 妻は娘と買い物に行くと、いつも商店街にあるクレープ屋に寄っていた。娘はそれが楽しみで仕方がないのだろう。

「…………パパ、寂しいな……」

 せっかく二人のために急いで帰ってきたというのに、これではつい弱音を吐いてしまう。

 ため息をこぼしながら、工場長から貰った菓子入りの紙袋を電話台の横に置いた。その時、ちょうどそこに立てかけてあった回覧板のことを思い出した。

「あ、しまったなぁ。早く回覧板を回さないと……って、まだ中を見てなかったな」

 三日前に受け取ってから、すっかり忘れていた回覧板。ここ最近は町内で何も無かったため、御悔み情報ぐらいしかないだろう。

 中を開いてみると、そこには意外にもオレンジ色のチラシが一枚挟んであった。ポップな字で「合唱会」と書かれたそれは、娘も通う幼稚園からの月毎のお知らせだった。

 見ると、園児たちが壇上に並んでいる写真――恐らく合唱中の様子を収めたものが掲載されている。それはつい先週行われたらしい。

 私は思わず目を丸くした。

「なんだ、やるなんて聞いてなかったから、てっきり今年はやらないのかと思っていたのに……」

 毎年の行事なので楽しみにしていたのだが、今年はその連絡が来なかった。妻も特に何も言っていなかったし、これは惜しいことをしたなぁと頭を掻いた。

 この手の行事は仕事で行けるかどうか怪しかったが、できれば我が子の成長ぶりを目にしたいのは親であれば当然のこと。しかし、今更後悔しても後の祭り。恐らく妻が見に行ったのだろうが、私も娘の晴れ舞台を生で見たかった。

 二重にショックを受けて、途端にぐったりとしてしまう。

「…………二人が帰ってくるまで、少し寝てるか」

 とりあえず疲れた体を休めよう。あり余った時間が勿体無いが、家族が出かけているのであれば仕方がない。決して拗ねているわけではない。

 それに、次に目を覚ますとき、きっと妻がつくるご馳走の匂いで起きるだろう。あいつの温かい手料理を、家族で囲むことは至福の時だ。パパが先に帰っていることに喜ぶ娘の、遊び相手もしてやらないと。

 幸せな一時を思い描いていると、急に眠気が襲ってきた。

 さっさと着替えて、ソファに横になろう。そうすれば、きっと思い描いた幸せが現実にやって来る。

 回覧板を隣に届けることを後回しにし、私は大きな欠伸をした。




 週末の休みがやって来た。

 今日は今までが嘘のように、雲ひとつない青空が広がっている。冬だというのに暑いくらいだ。

 私は妻と娘を連れて、家から少し離れたところにある大きな公園に来ていた。

 もしかしたら遊園地や水族館にでも行けば、もっと良かったのかもしれない。しかし私は、結局馴染みのある公園を選んでいた。

 休日だからか、私たちの他にも家族連れや子供たちが、思い思いにこの時間を満喫している。

「パパー! ママー! 見て見てー」

 近くの砂場で娘が、小さなスコップを持ってお城のようなものをつくっていた。少し不格好だが、なかなかセンスを感じる。

「あの子ったら、ほんとに可愛いわね」

 傍らに座る、白地のワンピースを着た妻が微笑んだ。私たち二人は、木陰にレジャーシートを敷いて、そこでのんびりと娘のことを眺めていた。

 とても充実した、幸せな一時である。

 娘が大きくなれば、やがてはこんな時間も無くなってしまうだろう。少しばかり寂しくもなるが、だからこそ今という時間を大切にできる。

「どれ、少し遊んでくるよ」

 私は妻に一言告げると、立ち上がって娘のそばに寄って行った。すると娘が抱きついてきて、私はその小さく愛しいお姫様を両手で「高い高い」してあげた。

 妻の笑い声が聞こえる。目の前には、娘の満面の笑みが溢れている。この時間が、この世界が、とても輝いている。

 しばらく娘と戯れていると、妻が私たちに呼びかけた。

「そろそろお昼にしましょう。張り切って作ったんだから、きっと美味しいはずっ」

 頑張りすぎて空回りしていなければ良いのだが。

 妻がバッグの中から、カラフルなランチボックスを取り出す。その中身は、きっとサンドウィッチだろう。なぜか、確信めいたものがある。

「じゃじゃーん! 私特製のサンドウィッチです!」

 可愛らしく両手を広げる彼女は、私の予想通りのものを作ってきた。箱の中に詰められた様々な種類のサンドウィッチ。そしてこれらは、やはり美味しいであろうことも分っている。

「このサンドイッチおいしい!」

「あらそう、良かった。あなたもそんな怖そうな顔してないで、食べなさいよ。ほら」

 リスのように頬を膨らませて食べる娘を見れば、美味しいことは一目瞭然なのだが、妻のことをからかいたくてつい意地悪をしてしまった。

 彼女が差し出したサンドウィッチにかぶりつくと、具はツナだったかタマゴだったか、とにかく美味しかった。と言うか、パンに具材を挟むだけならば、不味くなることは滅多にない。

「あらあら、口の周りが汚れてる」

「ママ、とってー」

「ちょっと動かないでね、今拭いてあげるから」

 妻と娘の微笑ましいやり取りに、自然と頬が緩んでしまう。この公園に来て正解だった。

 しかし、心の片隅に何か引っかかるものがある。この輝く世界に、本当は薄い雲がかかっているような、そんな不自然な違和感。

 目の前の二人を見ているだけで幸せな思いが溢れてくるのだが、私は二人から疎外感のようなものを感じていた。

 その理由は解らない。

 目を逸らしたら、二人がどこか遠くに行ってしまうような嫌な感じがして、気づけば私は手を伸ばしていた。目の前の幸せを逃さないように。

「なぁ。パパにももっと構ってくれよ」

 二人は、満面の笑みを浮かべている。




 とある休日の朝、妻にゴミを捨ててくるように頼まれた。

 妻に渡されたゴミ袋を持って外に出ると、この間の晴天が嘘だったかのように、再び雪が降りそうな空模様に戻っている。

「うぅ、寒い寒い」

 肌を刺す風に身を震わせながら、近くのゴミ置き場までやって来た。するとそこに、禿げかかった頭のおじさんが立っていた。ここの地区長だ。

 恐らくその役目として、ゴミ出しの日に挨拶運動でもしているのだろう。こんな寒い中、本当にご苦労様だ。

「おはようございます」

「あぁ……おはよう」

 私は挨拶を済ませて早々に立ち去ろうとするが、そこで引き止められた。どこか気まずそうな顔をしているが、何かあったのだろうか。

「ちょっといいかな。話したいことがあるんだけど」

「はい? なんでしょう?」

「君の家のゴミなんだけど、燃えるゴミの中に空き缶があったりするから困ってるんだよ。業者も回収してくれない時があるから、分別はしっかりしてくれよ」

 申し訳なさそうに語る地区長は、その空き缶とやらを私に見せてきた。潰れたビール缶だった。

 妻はお酒を飲まないため、空き缶を捨てたのは私になる。恐らく、酔っていていつものゴミ箱に入れてしまったのだろう。それにしても、妻はゴミ袋に詰める際に気付かなかったのだろうか。

 とにかく迷惑をかけてしまったことは、素直に詫びなければいけない。

「……すみません。次からはよく確認します」

「あ、ああ……君も色々と大変だろうけど、地区のルールは守らないとね」

「はい、気をつけます」

 地区長は困ったような笑みを見せると、ゴミ置き場から立ち去ってしまった。

 どうやら挨拶運動ではなく、私にゴミ捨ての注意をするために、寒空の下ここで待っていたらしい。しかし、あのよそよそしい態度は何だったのだろう?

 躊躇うような口調に、陰りのあった表情。

 あのおじさんはもっと元気で、「若者にはまだまだ負けん!」と意気込んでいるような人だったはずだ。それがあんな様子だと、つい心配してしまう。

 ときに、最近はご近所全体の元気がないことを思い出した。

 私が道ですれ違ったときなど、伏し目がちに挨拶を返してくる人がやたら多い気がする。それに、彼らの表情は決まってどこか浮かないものなのだ。

 昔はもっとご近所付き合いがあった。実家から送られてきた野菜をお裾分けしたり、娘と同い年の子供を持つ家族と町内会の旅行に参加したり、様々なところで仲良くやっていた。

 それが今では、すっかり接しづらい関係になってしまっている。どうしてこんなことになったのか、私に何か落ち度でもあったのかは分らない。

 職場の同僚たちと同じだ――やはり、態度が変化した時期を考えても、あの入院が原因なのだろうか。

 私が思い出せないところで、他人から避けられるようなことを起こしてしまったのか。けれども、今まで特別何かを咎められたことはない。妻と娘の様子はいつも通りだし、それは両親も同様だ。

 しかし結局、これらの疑問や不安は、記憶が無いのであればどうしようもない。解決する術がない。

 考えれば考えるほど、まるで蟻地獄のように、暗い疑念の深みへ沈んでいく。

 私は薄ら寒いものを感じ、早足で自宅に戻ることにした。そこには、確かな温もりがあるのだから。



「ありゃ、タバコが切れちまってる」

 控えていたはずのタバコを久しぶりに吸おうとすると、一本も残っていないことに気がついた。

 そろそろ夕方の四時。外はひどく寒いし、周りの人目も気になってあまり外出したくはなかったが、重い腰を上げてコートを羽織った。

 そんな時、固定電話の着信音が鳴り響いた。妻が電話に出てくれるかと思ったが、なかなか鳴りやまない単調なメロディーに、私はため息を吐きながら受話器を取った。

『もしもし、私だけど』

 それはお袋の声だった。

「珍しいね。どうしたの一体?」

『どうしたのって……あんたのことが心配で電話してるんだよ? 退院してからロクに電話も寄越さないんだから』

「ごめんごめん。こっちはしっかりやれてるから大丈夫だよ」

 お袋は相当心配しているようで、受話器越しでもその声から十分に伝わってきた。

 確かに、私が退院してからというもの、実家には一度も電話をしていなかった。両親が度々我が家を訪ねてくるものだから、それだけで十分だと思っていたが、やはり病み上がりの息子が気になるのだろう。

 私はお袋を落ち着かせるように、なるべく元気に応えた。

『それならいいんだけど……そう言えば、この間あんたの家に届けた――』

 すると突然、スピーカーからけたたましいノイズが響き、私は思わず受話器を遠ざけた。キンキンとした耳鳴りが頭の中を反響し、いつもの頭痛が始まる。

 私は軽く頭を横に振ると、痛みを我慢して受話器を再び耳に近づけてみた。どうやら、あの騒音は鳴り止んでいるようだ。

『――ちょっと、聞こえてる?』

「あぁ、ごめん。ちょっと頭痛がさ」

『大丈夫じゃないじゃない。あんた、やっぱりまだ治ってないんじゃないの?』

「……何が?」

『そりゃ――』

 またノイズが走り、顔をしかめる。お袋の声がかき消されて、まったく聞こえないどころか、頭痛が余計に酷くなる。

 受話器が壊れているのだろうか。これではまともに通話ができない。

『――だから、もう実家に帰ってきた方がいいんじゃいの? それがあんたのためなんだから』

 こちらの様子を知らず、スピーカーの向こうで話し続けていたお袋は、最後にそんなことを言ってきた。

 実家に帰れ? どうして?

 退院した直後、両親がこの家に来た時も同じようなことを言っていた覚えがある。

 私は実家に戻る理由もないからキッパリと断ったはずなのだが、お袋はまだそんなことを言っているのか。

「前にも言ったと思うけど、実家には戻らないよ。それに、俺の家族はどうするのさ」

『――――』

 また激しいノイズ。何も聞こえない。

 私は通話を諦めて受話器を離した。マイク部分に聞こえているかは分からないが、最後の言葉を伝えておく。

「ごめん、電話が壊れてるみたいで何も聞こえないんだ。もう切るよ。急な用事があったら携帯の方にかけて。ただし仕事でも使うヤツだから、本当に急用があるときだけだよっ」

 ノイズが漏れ出る受話器を置き台に収めると、たちまちシンと静まり返った。

 まだ頭痛もするが、外にタバコでも買いに行って気分転換しよう。何だか家の中の空気も気持ち悪い。

 玄関までやって来た私は、そこにいた妻と娘に目配せした。

「ちょっと外の空気を吸ってくるよ。すぐに帰るから」

 二人の前ではタバコのことを言い難く、つい言葉を濁してしまった。しかし、二人はいつもの笑顔で「いってらっしゃい」と送り出してくれる。

 お袋がなぜ私を実家に戻そうとするのかは解らないが、ここには愛する二人がいる。私が帰る場所は、この家以外にはどこにも無い。妻と娘が私の帰りを待っていてくれる限り、私は必ず我が家へ戻らなくてはいけないのだ。

「それじゃあ、行ってきます。すぐに帰ってくるよ」

 二人に見送られ、玄関を開ければ相変わらずの曇り空。それも、いつもよりもどんよりとした、厚みのある黒い雲が広がっている。

 なかなか天気は、良くなりそうもなかった。



 近くのコンビニでタバコを買って外に出ると、目の前の交番からちょうど出てきたお巡りさんと目が合った。

「これはどうも。今日はこれから雪が降るみたいですから、特別寒いですねえ」

「確かにそうですね。ははは……」

 野太い声で話しかけられたが、ついぎこちない返事をしてしまった。

 同じような場面で、数回顔を合わせたことはあるのだが、相手が警官だからか未だに慣れない。彼は私よりも幾分若く見える。しかし、その体格はズッシリとしていて、日々鍛えていることが一目で分かる。流石はこの街の頼れる存在だ。

 そんな彼が、急に心配そうな表情をつくった。

「最近はどうです? 少しは落ち着きましたか?」

「はぁ……?」

 私は何を聞かれたのか理解できなかった。

 彼の「少しは落ち着きましたか?」という質問は、一体何を意味しているのだろうか。それに、特に交流もなかった私のことを、彼は何か知っているのだろうか。

 返答に窮していると、彼は口元だけに笑みを浮かべた。

「……とりあえず、お元気そうで何よりですよ。まだ通院していると聞きますし、早く良くなるといいですね」

 そう言うと、力強い視線を私に向けてくる。

「何かあれば相談してください。いつでも力になりますから。一人で抱え込んで、自暴自棄になってはダメですよ。この間のこともありますし――」

 ぐらりと、目の前の視界が揺れた。かと思うと、私を気遣う彼の姿が、ここ最近の周りの人たちと重なったように見えた。


――雑談の中で、時折真面目なことを語るカウンセラーの先生。

――入院している間も籍を残しておいてくれた、人が良すぎる工場長。

――職場に復帰してから、ぎこちない接し方になった同僚のオバちゃんたち。

――ゴミ捨て場でよそよそしい態度をしていた地区長。

――それまでの付き合いが一変してしまったご近所さん。

――実家に帰るように、しつこく説得してきたお袋。


――いつも同じ笑顔で、私のことを支えてくれた、愛しい妻と娘。


 突然襲ってきた頭痛に、堪らずこめかみを押さえる。

 脳を引き裂くような強烈な痛みは、今までにない酷い具合だ。お巡りさんが駆け寄ってきたが、私は「大丈夫、大丈夫」と手で制した。実際はそんなことないのだが――それよりも、私は早くあの家に帰らなければいけなかった。

 心配そうに声をかけてくるお巡りさんを余所に、私は重い足取りで家路を急ぐ。

 脳内では恐ろしい光景がフラッシュバックしていた。パラパラマンガのように流れる、一枚一枚の記憶の写真――今まで思い出せずにいた、私の過去だった。

 それらはあまりに惨く、捏造された物語かと思いたくなる。しかし、目を逸らすこともできない状景は、より鮮明に、より現実味を帯びて、それらが確かな記憶だと訴えかけてくる。

 頭痛はますます酷くなり、立ち止まればすぐにでも崩れ落ちそうだ。今すぐにでも胃の中のものをぶちまけて楽になりたい。いっそのこと、気絶してしまえば痛みも感じなくて済むだろう。

 それでも歩みを決して止めない。それどころか、私は気力を振り絞り、家まで駆け出した。早く我が家に帰るべく、二人がいるはずの家へと急いでいた。

 あの日から、誰もいない我が家へと――




 二年前のあの日も、タバコを買いにいつものコンビニまで来ていた。雪がちらつく寒い一日だった。

 ほんの二十分ほど。ほんの二十分の間、妻と娘を家に残して出かけたのだ。家を出る間際、娘の面倒を見ていた妻に「ちょっと散歩してくる」と誤魔化して、禁煙中にも関わらず、タバコを買いに出かけたのだ。

 妻はニッコリと微笑んで「いってらっしゃい」と口にした。娘も舌足らずな口調で、妻の真似をして私を送り出してくれた。

 そして帰ってみると、家の中は凄惨な有様になっていた。

 物が散らばり、床も壁もどす黒く汚れ、赤い水溜りの中に二人が沈んでいた。

 はじめは夢かと思った――しかし、手にした二人の感触は、確かに現実だった。

 私の支えだった、大事な二人。幸せな家庭を共に築いてきた、愛しい二人。ほんの二十分前まで、いつもの笑顔を浮かべていた二人――妻と娘が、冷たくなっていた。

 どうやら強盗の仕業だったらしい。

 犯人は逮捕されたようだが、それで殺された二人が戻ってくるわけではない。かつての幸せに溢れた生活は、跡形もなく崩れ去ってしまった。

 犯人をどんなに憎んでも、自分の行動をどれだけ後悔しても、決して過去は覆らない。忌まわしい記憶は、私を延々と苦しめた。そして生きる気力を失った私は、手首を切った。

 だんだんと薄れゆく意識の中、微かに覚えていることは、見覚えのある青年が私を介抱してくれたということだけだ。事件のせいで情緒不安定になっていた私を心配して、時々巡回に来てくれていた、あの若いお巡りさんだった。

 それから長い入院生活が始まった。

 精神科での治療のかいもあり、私は日常生活に戻れるまでに回復した。ただし、私の記憶は重要な部分を無くしていた。輝いていた頃の思い出だけを残し、受け止めなければいけなかった事実を、深い記憶の海に沈めてしまっていた。

 あの事件が起こり、そして自殺未遂があり、退院したら何ごとも無かったかのように日常生活に復帰した私――そんな姿を見てきた周囲との関係は、変わらない方がおかしかった。

 しかし今まで私は、それに気づかなかった――いや、気づかないフリをしていた。

 彼らがどうして変わってしまったのか、その理由を知れば、再びあの辛い記憶を受け止めなければいけないから。あれに耐えられるだけの自信が、私には無かったのだ。

 そうして私は、過去から逃避した。

 両親が持って来てくれた料理を妻がつくったと思い込み、私が三人分の料理をつくれば、一人でそれを食べ続けていた。

 暇なときには、私が撮り溜めていたホームビデオをずっと、何度も見ていた。

 一番のお気に入りは、ある夏の日に妻と娘の三人で、近くの公園にでかけたときのものだ。おろしたての真っ白なワンピースを着た妻は、絵画の中の住人のように美しく、娘は砂場で立派なお城をつくり、将来は有名建築士にでもなるのかと期待した。

 過去に関わるような、都合が悪い話は脳が排除した。騒々しいノイズが頭痛と共に、音と思考を遮断するようになった。

 固定電話に過去の妻からのメッセージが残っていたので、いつでも彼女の声が聞けるようにデータを残しておいた。さらに玄関には二人の笑顔が写った写真を置き、ひとり言葉を投げかけていた。

 私はどんなときでも、愛する二人と一緒だと思っていた。

 あの事件以降の記憶を思い出したくないと心の底で願いながら、今まで偽りの生活を続けていたのだ。空虚な幸せの中で、ありもしない《絆》を守るために過ごしてきた。過去の記憶を遠ざけ、幸せだった頃の思い出に縋ることで、自分自身を保ってきた。

 私にとってかけがえのない二人は、あの日からすでに、いるはずもないのに。




 家に着く頃には、雪が降り始めていた。外もだいぶ暗くなっている。

 走ってきたというのに、体は凍てつくように寒い。

 いつでも点けている玄関の外灯を頼りに、震える手ではなかなか入らない家の鍵を、やっとのことで差し込んだ。

 私は勢いよく扉を開け放つと、息を切らしたまま、明かりもない家の中に呼びかけた。

「ただいま! 今、帰ったぞっ――」

 その声は、虚しく闇の中に吸い込まれていく。


――――ポツリ――――


 足元に、水滴が落ちたようだ。

 その音は静かに闇の中に消えていく。いくつも、いくつも、頬を伝い、頭の痛みを引き連れて、その深淵に溶けていく。

 靴箱の上、花瓶にさされたキンセンカは、あの頃から茶色く枯れていた。その横にある写真立ての下に、ひらりと最後の花弁が落ちる。


 この冬最後の雪は、私の愛しい夢をさますように、誰もいない我が家に降り積もった。

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