集中できない!
湿気の多い日本の夏はサラリーマンの営業職にとって一番厄介な敵であり、暑さによって流れる汗が臭いと女子に嫌悪される忌むべき現象を生む。
だがそれでも女子が薄着になる夏が好きであり、シャツが張り付いた背中に薄らと浮かび上がる下着の線にドキドキする夏を愛している。
全力で。
夏がいいのは勿論そんな女子に纏わることばかりでは断じて無い。
シャワーを浴びて冷蔵庫からキンキンに冷やした発泡酒を片手にテレビの前にいそいそと座りながらその時間を今か今かと待ちわびている。
現時刻18時30分。
営業という部署に身を置いてかれこれ四年になるが定時で帰れるのは珍しく、この時間帯に部屋にいられるということが望外の喜びであった。
そして血肉脇踊る瞬間を前に準備運動を兼ねてストレッチまでして、まるで自分が出場するかのような気分で武者震いする。
きっと俺だけではあるまい。
サポーターなら一度はスタジアムで見たい憧れの高額なチケットは入手困難で、ひとりでテレビを前に熱狂するか、寂しい奴は友達と見たりスポーツバーで知らない奴らと肩を組んで観戦するらしいが、俺は明日も仕事なので友達を呼んだりバーに行く余裕は無かった。
でも日本全国でみんなこの日ばかりはテレビやモニターを前に声を嗄らして応援する。
だって、そう。
今日はサッカー日本代表の試合があるのだ!
頑張ってくれよ!日本代表たち!
そのために昨日は最終電車が無くなるまでひとり残って仕事をして、大枚はたいてタクシーで帰って来たのだから。
サムライブルーのユニフォームを着て首にはタオルを巻き、発泡酒飲みながら応援できる幸せは彼女のいない寂しさを紛らせるためにも必要な潤いなのだ。
学生時代はサッカーに明け暮れていながら他に上手い奴がいっぱいいたから補欠に甘んじていたが、応援だけなら誰にも負けない自信がある!
ちょっと高いサッカーチャンネルを契約するぐらいJリーグも海外リーグも大好きで、録画してある試合を消化できないままハードディスクがいっぱいになっている現状にいささかの不満はある。
どうしてこんなに仕事が忙しいんだよ!
そう愚痴りながら飲み会で管を巻けば、先輩は冷ややかな声で「お前が要領悪いからだろ」と叱られる。
確かに先輩は爽やかなイケメンで仕事もできるから、定時少し過ぎたらさくさく帰って違う部署の可愛い女子と飲み会やら合コンやらやっているからきっと俺が悪いんだろうと思う。
この仕事四年もやってるのになぁ……。
「向いてないのかね……」
実家の母ちゃんから電話がある度に「こっちに帰ってきんしゃいよ」と説得されているが、そのうち心折れて故郷へと帰ることになりそうだなとしんみりとした気持ちでテレビへと視線をやると何時の間にかピッチに日本代表が入場し始めていた。
やばい、おせんちな気分になっている間に国歌斉唱が始まってしまう所だった。
一緒に戦っているのだという気持ちを籠めて選手同様、胸に手を当てて国歌を口ずさむのは応援する側のマナーとして譲れない部分だ。
元々音痴な俺だが、ちょっとのアルコールでも入った後は更に怪しげなメロディーを奏でると評判で、飲み会の二次会でカラオケに行くとその時ばかりは大喝采と大爆笑を頂戴する。
つまり今もかなり音階を踏み外した大声で歌っているという有様だが、他に誰も聞いている者などいないのだから気にしない。
両隣や上下の部屋で笑っている奴もいるだろうが、それはご容赦願いたいね。
なんたって日本代表の試合が今から始まるんだから!
浮き浮きしながら発泡酒をひとくち。
相手国との握手を交わしてから離れ、円陣を組む代表選手の背中が痺れるほど格好いいい。それぞれが背負う背番号と名前がゆっくりと映し出され、気合の入った声が迸った後でピッチへと散らばって行く。
緊張の一瞬なのは俺たち応援する側だけでは無いだろう。
きっと激しい戦いを繰り返し、何度も経験を重ねた日本代表たちもこの瞬間だけは緊張するはず。
主審が時計を見てホイッスルを銜える。
ピイイ――――ッ!!
始まりのホイッスルが鳴り響き、相手チームがボールを蹴って試合が始まった。
今日の日本代表は一味違う。
最初から激しくボールを奪いに行き、相手ゴールを果敢に狙っていく。得意のパスサッカーを生かし、左サイドを駆け上がる仲友選手が何度も駆け上がってチャンスを作った。ビックマウスの木田選手はいつものように相手選手にマークされていて、なかなかフリーにはなれない。
それでも近藤選手の絶妙でぴたりとあったパスから木田が左足のシュート!
俺はぐっと拳を握り小さく「よし!」と叫んだが、ボールはゴールポストの脇を逸れていった。
「あーあ……」
思わず洩れたため息に脱力している暇は無かった。
逆に隙をつくかのように攻め込まれ、中盤を突破されてあっという間にゴール前へと侵入を許してしまう!
「頼む!止めてくれー!!」
ディフェンダーがボールを持った選手に引きつけられて前に出る。その逆サイドをするするするっと抜けてきたエースナンバーをつけた選手が完全フリーに!?
しかも正確なパスがそこへ通った――!?
ノー!?ガッデム!!
もうこうなったら日本の守護神河島しかいない……。
「河島!止めてくれ、頼むっ!!」
両手を合わせて拝みながら同時に神頼みも忘れない。
相手の10番をフリーにしたことを悔やんでも仕方がないのだ。
あとは外れてくれと願うのみ!
「うをおおお!!」
河島がボールに反応するのを後押しするべく気合の籠った声を出す。
10番が蹴ったのは河島の正面。
これなら大丈夫――。
『だめだめ、あ、いや。あ、ああ――……』
ん?
なんだ?
今、妙に色っぽい声が聞こえた気が……。
気のせいか?
今は余計なことは考えずに試合に集中しなくては。
さっきのシュートは河島がキャッチして事無きを得たが、世界ランク的には日本より下のチームだがエースの動きは速く油断がならない。
次は日本が攻め上がり、いい形に――。
『そこ!あ、だめ、もうちょっと、待って、あっ、や……』
また!?なんなんだ!?
どこから――。
随分ご無沙汰な艶っぽい声が直ぐ近くから聞こえることに動揺し、試合どころでは無い。
声の出所を突き止めるべく耳を澄ませばベッドが軋む音が微かに右隣から聞こえていた。
「なっ……!?」
何と不謹慎な!
日本代表が戦っているのに、応援もせずにいちゃつきやがって――!!
そういえばこの年の春に新社会人であろう大人しそうな女の子が隣に引っ越してきたのを思い出す。
田舎から出て来たのか、あか抜けていないがあどけない顔をした可愛らしい子だった。
春から夏の短い期間に彼氏ができたなんて……。
悔しすぎる!
俺なんか三年間彼女いないのに!!
それとも地元から彼氏が追いかけてきて同棲中とかか?
なんにせよ、羨ましすぎ――いや、応援しろよ!
日本代表を!
「なんなんだよ!一体……勘弁してくれ」
隣の部屋でお盛んな男女が裸でプロレスしているなんて考えただけで萎える。
苛立つ俺の気持ちが通じたのかWシンジが素晴らしいパスカットからの駆け上がりでゴールへと迫る!
来たか!?と期待した分、ボールがポストに当たって弾かれ気落ちしたまま前半終了のホイッスルが鳴った――。
「これだけ攻めてるのにゴールを奪えないのは正直辛いなー……」
不完全燃焼のまま頭を掻き毟り、ハーフタイム中に流れるハイライトを見ながらため息を吐く。
悔しそうな表情の選手たちを見て、ついこっちも熱くなってしまう。
きっと後半はやってくれるに違いないと再度気合を入れ直して二本目の発泡酒を取りに冷蔵庫へと向かった。
「そういや、隣り、おとなしくなったな」
プルタブを開けてテレビの前に戻りながら耳を澄ませるが、甘い声もベッドが激しく揺さぶられる音も聞こえない。息遣いも行為の気配も感じられなくなって苦笑いしながらも、これで集中して観戦できると腰を下ろした。
CMが終わって後半が始まる前にまた選手たちが円陣を組んでいる姿が映し出される。
彼らの目に燃える闘志を見れば、この試合を諦めていないことは明白だ。
諦めたらそこで試合終了だもんな……うんうん。
大体まだどちらも点数は入っていない。
試合はこれからだ!
ピイイ―――ィ!!
日本ボールから始まる後半戦。気合十分で近藤からキャプテン長谷、そしてシンジを経由して不動の左サイドバック仲友!攻撃と守備に献身的かつ攻撃的な頼れる仲友からクロスが上がって――丘崎!!
「うおおお……くそっ。上か!」
丘崎のヘディングはゴールポストの上を越えて行き、残念ながらゴールならずだったが惜しいプレイだった。
侍ジャパンらしい、いいプレイだった。
感動と痺れるプレイに次を期待していると鋭いホイッスルが響き、木田が倒されファールをもらう。
ペナルティエリアの僅か外。
しかも正面より右側でボールをセットする木田。
その横には近藤がいる。
得意のフリーキックだ。
勿論木田が蹴る――ああ!シュートはキーパーに弾かれ、フィールドの外へ。
次はコーナーキック。
正確無比なピンポイントのクロスを上げる近藤の出番だ!相変わらずの素晴らしいコーナーキックに反応したのは芳田!高さを生かしたヘディング!だがまたしてもゴールに嫌われてしまう。
なんなんだ!
今日の試合は――。
『やっ、ああ、もう』
艶めく声が再び漏れ聞こえ、俺は堪らずびくりと反応し耳を傍立てていた。
拒んでいるようでいて誘っているかのようにも聞こえるその声は、男ならば誰しも下半身が疼くに違いない。
これがサッカーの試合を見ている時でなければ、ありがたやと妄想の世界だけでもお相伴にあずかるのだが今日ばかりは本気で勘弁してもらいたい!
畜生!
お前らもハーフタイムだったのかよ!!怒涛の後半戦に持ち込みやがって――!!
余所でやれ―――!!!!
長谷が何度もハーフウェーラインでボールを奪って前線へと送り込むが中々点に繋がらない。
やきもきしながら時間だけが過ぎて行く。
そして集中できない俺の隣室では相変わらず激しい攻防戦が続いている。
『あ、違う……もっと右、や、ああ、待って、もっと、もっと、ああん』
『だめだめ、だめだったら。もっと速く、ほらぁ、ああ――……』
『来る、来るから、お願い、止めて、あっ、あっ』
『もう、無理、ドキドキし過ぎて死にそうー……』
聞いてるこっちが死ぬわっ!!
生殺しです。
神様、どうしてこんな無体なことを俺にするんですか――!?
ギシギシギシギシ。
そんなに激しくやってたら、床が抜けて下の部屋へ落ちちまうぞ!?
あ、俺より下の奴の方がもっと生殺しかもなー……。
いや、声が聞こえない分煩いだけか。
どっちにしろ限界です!!
「うをっ!?」
隣室へと気を取られている間に丘崎の泥臭いシュートからゴールが生まれた!
やった!!
後半残り8分で先制点ゲット!!
後は点を守り切って試合を終わらせられれば――と思っているとやはり相手も躍起になって攻め込んでくる。
ゴールを襲う敵の攻撃が激しくなるたびに、隣人たちもデットヒートを繰り返し――。
集中できねぇ―――!!
結局アディショナルタイムで追いつかれ、そのまま試合終了。
無念の引き分け。
「のおぉおおう!!」
温くなった発泡酒を消化できない気持ちを昂ぶりと共に飲み干した。
もやもや、悶々とするばかりで真剣に応援できなかった俺のせいでこの試合は引き分けに終わってしまったのだと罪悪感に苛まれながら、ぐったりと床に倒れ伏す。
「隣人ばかり愉しみやがって……」
ただの八つ当たりだと解ってはいても、つい愚痴ってしまう。
頼むから、試合があっている時間くらい隣近所を気にしていちゃついて欲しい。
でもできれば。
「ちゃんと日本人なら日本代表を応援しろ!!」
悔し涙を流しながら俺はその日はそのまま不貞寝していた。
「ふぁああ」
大きな欠伸をして玄関に鍵をかけていると丁度隣室のドアが開いた。
昨日はお盛んでしたねと嫌味でも言ってやろうかとちらりと視線を向けると、白いサマーニットに紺色の膝丈スカート姿で出てきた隣人と目が合う。
ショートヘアーの華奢な白い首に昨日の情事の後を見つけようとしたが、流石に目につく所に跡など残したりはしないのだろう。薄らと見える産毛が朝陽に照らされて輝いていた。
慌てて目を反らして鍵をスーツのポケットに捻じ込み、背を向けると「おはようございます」と明るい挨拶の声に驚いて思わず振り返る。
もしかしたら俺にじゃないかもしれないという可能性に気付いたのは反応してしまった後で、後悔していると彼女はにこりと微笑んで「昨日うるさくて迷惑だったでしょう?」と恥ずかしげも無く謝罪してきた。
いやいやいや。
普通、そこは気まずい感じでスルーするでしょうが。
この子どれだけ淫乱なんだ。
もしかして今夜は俺を誘おうって魂胆――いやそれはありえんな。
「あー……いや」
「残念でしたよね」
「へ?」
残念って俺に彼女がいなくてか?
自分には激しく抱き合う彼氏がいるのにごめんなさいねってことか?
「サッカーですよ。応援してたんですけど、引き分けで。見てましたよね?」
歯切れの悪い俺を怪訝そうに見上げながら隣人は首を傾げる。
そうするとすごく無防備な顔になるから止めなさいと注意しそうになって、逆に口にすれば気持ち悪いと引かれそうだと慌てて「見てました」とだけ返答する。
「私Jリーグとか興味ないんですけど、日本代表だけは応援したくて。ま、あれです。俄かファンみたいなやつです」
隣人は喋りながらエレベーターへと向かうので、自然と俺も歩きながらついて行く格好になる。
「でもちゃんとサムライブルーのTシャツを着て応援するんですよ?」
「ああ、そうなんだ……」
何故隣人と並んで歩きながらサッカーの話をしているのだろうか。
この子には彼氏がいるのに、俺なんかと仲良さそうに喋っているのを見られたらまずいんじゃないか――?
大体サムライブルーのTシャツを着ていても例の彼氏に脱がされたのでは意味がないだろう。
純粋な疑問を抱きながら後ろからTシャツの裾を捲り上げられながら恥ずかしそうに頬を染める姿を想像して慌てる。
さすがに失礼な妄想だと改めて隣人の小作りな横顔を眺めた。
視線に気づいたのか顔をこちらへと向けて照れたような微笑みを浮かべる。
「私夢中になると声が大きくなって、それに子供みたいにベッドの上で飛び跳ねたりしたから御近所迷惑だっただろうなと試合が終わってから恥ずかしくなって」
「は?」
「ひとりで燥いでバカみたいでしょ?」
ひとり――?
「いや、待って。俺てっきり彼氏と一緒に――」
その先は言えない。
「やだ。彼氏って。私、いません。彼氏なんて」
何故か小さな拳を作って全力で否定してくる姿があまりにも可愛くて。
「ごめん」
勝手に邪でいやらしい想像を働かせていたことを詫びると隣人は唇を尖らせてエレベーターのボタンを押した。
「だいたい、隣りから国歌斉唱の時に大きな声で気持をこめて歌うのが聞こえたから私もついはりきっちゃったんです」
「え!?俺のせい!?」
「そうですよ」
つんっと横を向いて扉の開いたエレベーターへと乗り込む彼女に遅れまいと飛び乗る。
「あのさ、俺も」
彼女いないんだ。
そう告白したら少し困った顔をして「聞いてませんけど」と返された。
それでも。
夢中になったら声が大きくて甘くなる隣人と御近づきになれた幸運に感謝して。
心の中でもう一度謝る。
変な想像してごめんなさい。
そしてあわよくば。
今度の試合を一緒に応援できればと胸を弾ませる俺は暴走し過ぎだろうか?
でも隣に座ってあの声を直に聴いたら我慢できる自信がないから、もう少し仲良くなってから。
それまでは程よい距離感で隣人頑張るか……。
世の中の女性のみなさま、あなたの応援する声を男はこういう風に感じているかもしれません(笑)。
ご注意ください。
あなたのその素敵な甘い声に下心を擽られても、行動に起こせない男は沢山いるのです。
賛同してくださる男性がいるかは謎ですが、こういうこともあるのだとご容赦くださいませ。
ちょっと下品で申し訳ありません。
これ、大丈夫ですよね?
引っかかったりしないかとひやひやしながら勢いで投稿します。