生きるとは何か
脳死状態と呼ばれるものがどんなものであるか、皆さんはご存じでしょうか。大半の方はご存知でしょうが、それはすなわち、生命としての活動は続いているものの、大脳が何らかの原因で活動を停止しており、人間の力で命を繋ぎ止めている状態のことを指します。
日本では脳死状態に陥った人たちの「扱い方」に関して、議論が各地で行われてきました。「扱い方」とはすなわち、「脳死を法律上、生きていると見なすか否か」ということです。現在の法律では、脳死は人の死であるとされています。(かと言っても普通の死者とは扱い方が異なり、例えば死者の場合は血縁者の同意が必要ない臓器移植は、脳死者がそれを行う場合血縁者の同意が必要となります)
これに対して反駁をする人たちの意見は、明白ですが「脳死は人の死ではない」というものです。
「心臓はまだ拍動していて、普通の死者とは根本的に状況が異なる」
「脳死から回復をした例がある」
「生きようと必死に心臓を動かし続ける者は死者ではない」―――――――――
率直に申しまして、私は脳死というものは「人間として」の死であると主張します。確かに脳死者は「心臓がまだ拍動していて、普通の死者とは根本的に状況が異なります」。ここでいう普通の死者とは、すなわち私たちが一般的に考えている死のこと――――――「心臓が活動を停止した死」を指します。なるほど、確かに「心臓」か「大脳」か、という点で状況は異なります。しかし、「生命活動を自律的に行うことができない」という点では、どちらも大差ないのではないでしょうか。
「脳死から回復した例がある」――――――。確かにあることは事実です。ですがたいていの場合、脳死者は回復しないまま「本当の意味での」死者となってしまうことをご存知ですか?回復の見込みがないものを生ける者として扱うのは疑問を感じます(死体のあがらない一世紀前の行方不明者も、死者として扱われるのと同じことです)。
さて、私が今回最も主張したいことは実はたった一つしかありません。
「心臓が動いていれば死者ではない」と考え方は間違っていないでしょうか。
確かに、どんな生物でも心臓が動いていれば「生物学的には」生きています。どんなものでも酸素を吸って二酸化炭素を吐き、養分を摂取していれば「生物」なのです。
しかし、今PCの前に向き合ってタイプしている私含め、この拙い文章を読んでいる者は「人間」の方々でしょう(一部そうじゃない方も混じってるかもわからんですが…)。
「人間」とはなんですか。かのパスカルはこう言いました、「人間は考える葦」なんだと。
人間は考えるから人間なんです。考えることこそが人間の人間たる所以なのです。考えることが、今の人類の高度な社会を構築しました。考えることができなければ、きっと人類は多少頭がいいだけのサルに似た野生生物、という位置づけだったでしょう。
社会を構築した以上、そのファクターとして人間たちは一人一人がコミュニティーの治安維持のために「社会的に」行動しなければなりません。そんな、「社会生物」である人間が、重要なことではあるのですが、時代遅れである「倫理観」に捉われすぎてはいないでしょうか。
「生きていること」が大切なのではありません。―――――いえ、語弊のある言い方ですね、「生きていること」は人間にとっての「生」のほんの一部分でしかありません。
人間にとっての生きることとは、その大部分がもはや「考えて行動すること」なのだと私は考えます。そのような高度な段階を要求されるほど、人間の文明は発達してしまったのです。