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短編集

結晶の樹

作者: ラテ

なぜだか、目の前にある木が懐かしい。

焦げ茶色の太い幹。細い枝々に実った緑の葉々。ただの木なのに、それは、どこにでもあるありふれた木のはずなのに、それが立っている姿は、胸の奥底から特別な思いを沸き立たせる。その思いの正体が何なのかは定かではない。ただ、この木を見ていると、ふるさとのような、母のような、そんな温かいものに包まれているようで、落ち着いた気持ちになるのである。

僕はこの木に、何か思い入れがあったのだろうか。


「ね、きれいでしょ、この木」

声がして初めて、隣に水色のワンピースの少女がいることに気がついた。

中学生くらいだと思われるその少女は、じっと木を見つめていた。幸せそうでもあり、切なそうでもある複雑な表情だった。

「私ね、よくここに来てたんだ、大切な人と。だからここは私の思い出の場所なの」

少女は相変わらず木を見ていた。まるで木と会話でもしているかのようだった。穏やかな風が、木の葉たちと少女のワンピースを揺らし、画になっていた。

「でもね、その人、死んじゃったの」

少女は言った。笑って言ったが顔は明らかにひきつっている。だがやがてひきつった笑顔でいることすらできなくなり、少女の顔はみるみるうちに歪んでいった。

悲しみなどとっくに通り越して憎しみの感情を剥き出しにしたその表情を、僕は見ていられずつい目をそらした。

「なぜ死んでしまったの?」

少女が膝から崩れ落ちた音が耳にはいった。

僕にそんな話をきかされても困る。たしかに悲しい話ではあるが、僕には何もできないのだ。

僕は少女と出来る限り目を合わせないようにと、ずっと木を見つめていた。


どれくらい時間がたっただろうか。気がつくと少女はいなくなっていた。日も沈みかけており、空は赤く染まっていた。

考えてみれば、今日僕はなぜこの木を見つめていたのだろう。気がついたらこの木の前にいた、というような感覚だ。もはや本能的に動いているかのようで、少し不気味である。

しかしこの木に対していくら抵抗しようとも、なぜか僕はこの木を見つめ続けてしまう。

それだけこの木は魅力的なのだろうか。いや、決してそんなことはない。他の木と特に変わらない木、つまり平凡なのだ。

なら一体どうして……。

少し考えていると、辺りはすっかり暗くなった。木はこれまでと同様に沈黙を保ってはいるが、夜になったこともあってか、昼間に見たときの穏やかな沈黙とは違って、恐ろしい沈黙である。

ふと、後ろの方で足音のような音がした。不意にした音のせいで、僕は少し背筋が凍った。ひょっとしたらお化けではないか、などという子供じみたありもしないような想像を働かせてしまい、後ろを振り返ることですら怖い。

しかし、お化けなどいないと冷静に考え、意を決して後ろを振り返った。するとそこには、杖をついた六十代くらいの老人がいた。

こんな夜遅くに人がいる、しかも木を眺めているとなると、老人としてはかなり不思議なことだったのだろう。老人は警戒心を目の裏に潜ませながら、こっちを見ている。このままでは不審者にされかねないと思い、とりあえず会釈だけしておく。

「こんな時間に、しかもこんなところで、何をしているのですか?」

老人はきいてきた。僅かに警戒心が緩んだのだろう。何とか通報されるようなことだけは免れたようだ。

僕は木を指差した。

「木……、ですか?」

老人はさぞかし不思議に思っているだろう。木が何なのだという話だ。

「もしや、木を見ながら考え事でもしていらっしゃったのですか?そうだとしたら、突然話しかけてしまい、申し訳ありません」

僕はいえいえ、と言うかわりに首を振った。

「実はね、私の孫もここでよく考え事をしていたそうなんですよ。そのときは、こんなことをしている人はお前しかおらんぞと笑っていたのですが、どうもそうではなかったようですね」

老人は、木の根元辺りに視線を送りながら、笑って言った。

「では私は散歩中ですので」

そう言って老人は暗闇の中へ消えていった。

夜に木を眺めている僕も変人だが、こんな時間に散歩をしているという老人も、よっぽど変人である。

僕は老人の姿が完全に消えるのを確認すると、再び木の方へ目をやった。

木はざわめいている。こっちを睨んでいる。この世の人をあの世へと送り出すように、地獄の唄を口ずさんでいる。次第に、僕の意識は遠のいていった。


太陽の日差しを浴びて、僕は目を覚ました。どうやら眠っていたようだ。あの木の地獄の唄を聴いたところで記憶が途切れている。あのあと眠ったということだろうか。あんな唄をきいてしまうとそれはつまり、死んだということになるのだろうか、などと考えてしまい、失笑した。

いや、違う。僕は額に手を当てた。

唐突に、頭の中に膨大な量の記憶が映像となって次々に流れ込んできたのである。それはざっと十五年分といったところだろうか。

考え事をしながら、樹を眺め続ける映像。

老人といっしょに散歩をする映像。

あの樹の下で、ワンピースの少女と初めて手をつないだときの映像。

どれも、僕が“生きている間”に経験したものだ。

そうだ、僕はもうすでに死んでいるはずなのだ。この身体は借り物のはずなのだ。

忘れていた記憶が、しっかり呼び戻された。

僕はどういうわけか、思い出のあの樹に導かれて蘇り、おかげで僕は、大切な人たちの思いを知ることができたのである。

あの樹は僕の思い出の欠片なのだ。美しく輝く結晶なのだ。

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