ファインダー
目が悪くなった。
学生課で書類の説明を受けながら、そんなことに気づいた。
眼下5〜60cmの場所にある文字がぼんやりと紙上をうろうろする。
それでは、と、お姉さんに書類を手渡されてからも、
しばらく紙を前後に動かして確かめてみた。
魚のように泳ぐ文字に変わりはない。
私は、ふっと息を吐くとそれをバッグにしまい外へ出た。
梅雨前線が停滞したままの空は、
晴れやくもりや、雨やところころ表情を変える。
そのくせに、じんじんと響いてくるような暑さが、
首の後ろを焦がしていくのを感じる。
さっき塗った日焼け止めの匂いが、汗に混じって時々
フンと鼻の辺りをかすめる。
夏はすぐには顔を出さない。
「舞子。」
日差しに下を向いていた顔を上げると、
日陰の方のベンチで煙草を片手にした真知子さんが手を振っていた。
「真知子さん!」
真知子さんはひとつ上の先輩で、面倒見がよく、器量もよく、
後輩の私たちからはずいぶん慕われていた。
「どうしたんですか?」
駆け寄っていくと、真知子さんは側の背の高い灰皿に煙草を押し付けた。
「ちょっと懐かしくなって、帰ってきたとこ。」
真知子さんは去年卒業して、そのままフリーのライターになった。
在学中からその方面では有名で、雑誌に連載なんかもしていた。
真知子さんの書く「恋愛コラム」なるものは、どこか核心をついていて、それでいて優しくて、私もいつも楽しみにしていた。
「すごい、久しぶりですね。」
私は、真知子さんの隣に座った。
「ね、元気してた?」
「元気です。」そう答えようとして、はっとした。
私は、少しも元気じゃなかった。
つい先月まで大学にはほとんど通えてなかったし、
続けていたアルバイトも辞めてしまった。
体中が生きることにNOと大きな声でいっているような、
そんな絶望がひっきりなしに駆け巡る夜が、続いていた。
「まぁまぁか。」
ちょっと目を逸らした私の顔を伺い見て、真知子さんは言った。
「そう・・・ですね。」
一瞬、生暖かい風が通り抜けた後、終業のチャイムが鳴って、
各建物から人がどっと出てきた。
さっきまで聞こえていた、小さな葉のこすれる音があっという間に
ざわめきにかき消されていく。
「は〜、交差点並みの騒がしさだね。」
真知子さんは地面に着けていた足を、ベンチの方へ寄せて
体育座りの格好をした。
長い髪が風に揺れると、煙草と甘い香水の混じった香りが漂う。
大人の女性だ。
私は、真知子さんが再び煙草に火をつける様子を横目に、
あの日のことを思い出していた。
タクミの隣にいた女性のこと。
長い髪、つやつやした唇、かっこいいスーツ。
私はもっていない。
3cm以上のヒールは履いたことないし、髪も伸ばしている途中でいつもくじけてしまう。
夏は素足だし、汗ではがれたお化粧のままで午後を過ごしてしまう。
何より、別れた次の日に、別の人を見つけるなんてこと、
私にはできない。
タクミという残像が、いくつもまぶたの裏側をちらつく。
肩や腕や息や声が、感触として蘇ってきて、何度も胸を締め付ける。
そんな弱い女なんだ。
「きれいねー。」
真知子さんが、ふーっと最初の一息を吐くと、そう言った。
「はい?」
「見て、この桜の木。」
見上げると、私たちに木陰を作ってくれている桜の木が、
そよそよと陽の光の下で揺れていた。
「私ね、春に花をつけたときの桜より、この夏の桜の木が好きなんだ。
春には、寂しいくらいに散っちゃうのに、見て。
夏にはまたこんなに逞しい葉を付けるんだよ。」
真知子さんは頭上に垂れてきていた枝の葉の一枚を撫でながら、
私を振り返るとそう言った。
「本当だ。」
私も真知子さんが引っ張っていた枝の方へ手を伸ばして確かめると、
触るだけで、緑のエネルギーが指先にじんじんと伝わってくるような
そんな熱を感じた。
「逞しいものは、きれいだね。」
真知子さんがぱっと枝から手を離すと、強い風が吹きつけて、
幾千の葉がざーっとなびいて、揺れた。
私は、何だか泣きたいような悔しいような、
変な感情がごちゃまぜになってこみ上げてきそうなのを感じて、ごくんと喉を鳴らした。
「ごはん、食べにいこ。」
立ち上がると真知子さんは伸びをして言った。
「すごくおいしいごはん、食べたくない?」
「・・はい!」
私も立ち上がると、二人で駐車場の方へと下る道を急いだ。
さっきより、少しだけ青くなった空には、高く積まれた雲が私たちを見ていた。