鬼 001
言おうか言うまいか、何度も凪冴は迷った。悩みすぎてよく眠れなかったほどだ。考え続けて、朝目覚めた時にはちゃんと話そうと決意した。
彼と顔を合わせないわけにはいかないのだ。同じ高校に通っていて、クラスメイトであるのだから。
入学して二ヶ月、彼と知り合って二ヶ月、片想いもまた同じだ。
それまで凪冴は恋など自覚したことはなかった。内気で人見知りで異性と意識して話すことなどほとんどなかった。彼とは委員会で一緒になり、互いの趣味のことで意気投合した。顔を合わせれば挨拶をし、彼の方から話題を振ってくれることもある。
それが毎日の楽しみになっている状況で隠し通せるとは思えなかった。やはり、話さなければならないことなのだから。
凪冴は様子を窺って、何度も頭の中でシミュレートした。
言わなければならないのだと何度も自分に言い聞かせる。彼にとっては重要なことなのだと。
それでも、機会が訪れたのは昼休みが半分も過ぎてしまった頃のことだった。
「あ、桜井君……ちょっといいかな?」
彼と話す時はいつも緊張する。初めはただの人見知りだったが、恋心を自覚するようになってからは意識しすぎるようになっている。数少ない異性の友人に浮かれているのかもしれない。
彼――桜井遥希は端正な顔をしていながら気取ったところがなく、とても気さくで、男女分け隔てなく交友関係を広げている。だから、凪冴は特別ではないのだと何度も自分に言い聞かせる必要があった。彼と話すのは楽しくて、だから、それだけで良かったのだ。
「えっ、水野さん、どうしたの?」
遥希は少し驚いた様子だったが、嫌な顔をしなかった。いつも凪冴から話しかけることはないから当然のことなのかもしれない。
気を使ってくれているのか、声をかけてくれる内は嫌われていないのだと思っていたかった。
「あ、あの、ここじゃ、話にくいから一緒にきてもらってもいいかな?」
誤解されているかもしれない。我ながら大胆なことをしているような気がしていた。メールで、とも考えなかったわけではなかったが、文面は全く思い浮かばなかった。彼にとって軽々しい話題でないことを凪冴も理解しているつもりであった。
「あ、うん。いいよ」
笑顔での了承に凪冴はほっとするも、尚更切り出しにくくなるというものだ。
「じゃあ、お二人さん、行ってらっしゃい」
遥希の隣では、やはり何かを誤解していそうな清水淳也が笑顔で手を振る。遥希の親友である彼ともよく話をする。どちらかと言えば彼の方が話しやすいくらいだが、取り次いでもらうのも何だか悪い気がしていた。
二人で話すべきだと思っていたはずなのに、既に限界で、凪冴は縋るように淳也に視線を送る。
「あ、あのね、清水君も一緒にきてくれないかな?」
「えっ、俺も?」
「うん……ダメかな?」
断られたらどうしようかと凪冴が不安に思っていると淳也は肩を竦め、ニカッと笑う。
「女の子にダメとは言えないな。よっしゃ、お兄さんに任せなさい!」
トンと拳で胸を叩く淳也は頼もしく見える。家族の中では末っ子らしいのだが、五月生まれの彼は同級生の中で自分をお兄さんと言うのが癖になっているらしい。
「で、どこで話すんだ?」
「えっと、うちの部室にきてもらってもいいかな?」
「部室って、茶道部の?」
遥希は不思議そうにしている。彼にとって凪冴の部活と言えばそちらになるようだ。だからこそ、躊躇われた。
「ううん……歴研の」
凪冴が所属するのは茶道部であり、週に二度活動している。だが、同時に歴研――歴史研究部の唯一の部員であり、自動的に部長でもあり、ほとんど倉庫でしかないその部屋を管理しなければならないが故に自由に使うことができる。周囲を気にせずに話せるのは他に思い至らなかった。部長になった経緯は凪冴でさえ謎だが、今は少し感謝している。
「入ってみたかったんだよなぁ」
遥希は気を使っているのか笑っているが、数分後にはその顔を曇らせてしまうと思うと凪冴の胸は痛んで、昨日のことを夢だったと思いたくなる。
凪冴は鍵を取り出して、扉を開ける。常に遮光カーテンを引いた室内は相変わらずの薄暗さで、電気を点けても劇的な明るさは得られない。むしろ、一本切れかかっているぐらいだ。
「ごめんね、埃っぽくて……一応、掃除、したんだけど」
部長とは言っても、この倉庫の番人を押し付けられたようなもので活動は一切していない。
時折、掃除はするようにしているが、埃は溜まるものだ。こうして話すことになるとわかっていたら、事前に掃除していた。まるで初めて自分の部屋に異性を招くような心境だったが、現実はそんな可愛らしいものではない。
「気にすんなって」
古びた資料ばかりで特におもしろいものがあるわけでもないというのに、遥希はキョロキョロとしている。一方、淳也は楽しい話題でないことを既に察しているのか、難しい顔をしていた。
「あ、あのね、桜井君」
「ん?」
「お兄さん、まだ帰ってきてない?」
どう言えばいいのか、散々迷った結果の確認だった。
「もう十日も経つんだよな。本当にどこで何やってんだか」
心配させまいとしているのか、遥希は明るく言う。
「お兄さんって、桜井君と似てるよね? 右の目尻にホクロがあって……」
凪冴はポケットから折り畳んだ紙を取り出す。桜井永希、遥希の兄の情報が写真と共に書かれている。遥希から『何かあったら教えて』と渡されていたものだ。
帰宅してから思い出して確認したが、違和感が消えることはなかった。写真の青年のような気もするが、そうでないような気もする。そうだと思いたくないのかもしれない。
「俺は似てないと思うんだけどな……」
「他の写真、あっただろ?」
淳也に言われ、遥希はポケットから手帳や携帯電話を取り出す。
そうしている間にも淳也は机の上にあったペンスタンドを物色し、一本抜き取り、遥希に近付いて凪冴に手招きする。
「水野水野、こうするとそっくりになる」
サインペンをチョンと遥希の顔に付けて、淳也はニカッと笑った。
「うわっ、な、何すんだよ!?」
遥希は一瞬硬直してそれから淳也の手の中のペンに気付き、慌てて顔を擦ろうとするが、阻止された。
「大人っぽさが足りないけど、写真で見るよりわかりやすいと思うぜ?」
淳也は遥希を押さえて凪冴の方を向かせた。じたばた暴れる遥希の右の目尻には黒点がある。
「おい、遥希。お澄ましだ、お澄まししろ」
淳也の注文に遥希は素直に答えようとしたらしいが、うまくはいかなかった。
「あの、お兄さんって、私のこと知ってるわけないよね?」
「は、話したことはあると思う……俺、学校のこと、いつも兄貴と話すから」
「そっか……」
やはり妙なのだ。彼は凪冴を知っていた。水野凪冴という個人を特定していた。
「何でそんなこと……」
じっと遥希が見つめられて、凪冴は尋問されているような気分になる。答えなければならないと思うのに、躊躇ってしまう。あの男が桜井永希であるという確証がない。
あの時はそうだと確信していたのに、遥希に言うのは迷いが生じる。
「昨日、桜井君に似た人に会ったの。お兄さんに似てると思う」
遥希に似ていて、写真の永希にも似ている。それは事実だ。
「どこで!?」
ガシッと肩を掴まれ、その意外な強さに凪冴は顔を顰める。痛いほどの力が込められていた。
「遥希」
「ご、ごめん……」
手が離れて、思わず一歩下がってしまうのは、あの時の恐怖を思い出してしまったからなのかもしれない。凪冴は自分の体を抱くようにする。
「私の家の近くで……でも、違うかもしれないの……」
違わないと凪冴も頭ではわかっている。それなのに、事実を彼に伝えたくはなかった。
「見かけたんじゃなくて、会った、か」
淳也の洞察力は鋭く、彼に来てもらったのは間違いだったのかもしれないとさえ思い始める。
「遥希と永希さんって声が似てるんだぜ? 電話だと区別がつかなくてさ」
「やっぱり……」
声が似ていた、だから凪冴は振り返ったのだ。
淳也はその呟きを聞き逃してはくれなかった。
「話、してるよな?」
淳也の目が細められ、コクリと凪冴が頷けば、今度は遥希の視線が突き刺さる。
「声、かけられて、私のこと知ってて、でも、自分が誰かは言わなかったから」
「この男なんだろ?」
遥希は手帳に入れられている写真と携帯電話の画面を凪冴の目の前に突き付けてくる。顔だけならば、そうなのだと言える。問題はあの言動、そのせいで、凪冴は伝える勇気が出なくて困ったのだ。
「あのさ、水野さん、一生懸命話そうとしてくれてるのはわかる。でも、変に気を使わなくていいから、はっきり言ってくれよ」
遥希の声はいつもよりも低く、苛立ちが滲み出ているようで思わず身が竦むが、泣いてはいけないのだと凪冴は自分に言い聞かせる。泣きたいのは彼の方に違いないのだ。
「何か、嫌な目にでも遭った?」
淳也は優しく問いかけてくる。いつもはお調子者のように扱われているが、友達思いで、遥希との付き合いが長いことも知っている。
凪冴は言葉にすることも首を動かすことさえできなかった。嘘でも首を横に振るべきだったのかもしれないが、反射的にそうすることはなかった。
そして、それが彼の怒りに火を付けてしまったのかもしれない。
「兄貴はいつも穏やかで優しいんだ。お前だって知ってるだろ? 水野さんに何かするわけないじゃないか!」
淳也は声を荒らげる遥希を手で制し、それから彼には見えないところで目を伏せた。
「そりゃあ、前はよく勉強教えてもらったし、受験の時だって凄く世話になったけどさ」
含みのある言い方だった。遥希は彼を追及するように睨み、このままでは二人の友情に亀裂が入りかねないと凪冴は慌てた。
「き、昨日、ちょっとぼーっとしてたから、だから、ちょっと記憶が混同しちゃってるのかも。ごめんね、期待させるようなこと言って、あの、本当にごめんなさい!」
謝って済むことだとも思わないが、凪冴にできるのはそうすることだった。
月が怖かった。だから、全ては幻覚だったのかもしれない。あまりにリアルな感触があったが、話すほどに現実味がないように感じられてしまう。
頬に触れた手、抱き締められ、髪を撫でられた、そして額への約束の口付け、その全ては同じ人間と思えないほど冷たかった。
彼は本当に生きているのだろうか。
「俺の兄貴っぽい人と何話したの?」
普段とは違う遥希の雰囲気に凪冴は気圧されていた。俯いて、顔を上げることができない。
答えてしまえば片想いのことが知られてしまう。今回のことで嫌われただろうと思えば悲しくなるが、だからこそ言えなかった。きっと、遥希の中の彼はあんなことを言わない。
「言えないこと? 俺には聞く権利がないこと?」
凪冴にとっては見知らぬ人でも彼には血の繋がりを持つ兄弟だ。だからこそ、話すと決意したのに肝心なことを語る勇気がなかった。選ぶことを考えるように言われたなどと、どう伝えられようか。
「あのね、これは私の勝手な推測なんだけど……」
求められている答えでないことは凪冴もわかっていたが、言わずにはいられなかった。
「もし、あの人が本当に桜井君のお兄さんなら……失踪は自分の意思だと思う。事件に巻き込まれたわけじゃないはず」
生きていて、この街を遠く離れてはいない、自由に行動することができる。そういうことなのだろう。
遥希が不安になるのも無理はないのだ。近年、老若男女問わず失踪が増えている。単なる家出であったり、事件に巻き込まれたり、未だ発見されないケースもある。しかしながら、不審死という結末も多い。その理由は一切わかっておらず、奇妙な事件も増加の一途を辿っている。失踪との関係もずっと明らかにはされていない。
だからこそ、心配で仕方がないのに、彼は学校へ来て、気丈に振る舞っている。
「じゃあ、何のために?」
問われて凪冴は考えてみる。彼は凪冴が遥希に片想いをしているのを見透かして、やめるように、自分を選べと言った。真意はわからないが、彼から好意を向けられているとは思えなかった。
見知らぬ人間同士であるはずのこと、彼から冷たさしか感じなかったこと、自分を見ているようで、そうではなかったのかもしれない。
「……敵対心」
思い至った結果はぽつりと唇から零れていた。パズルのピースが正しくはまったように、ストンと凪冴の中に落ちてきたものだった。
「兄貴はそんな人じゃない!」
遥希の話を聞いていると温厚で、そういうものとは無縁のようだ。けれども、凪冴に感じられたのは恐怖と悪意だった。
「声も顔も桜井君に似てて、目の下のホクロでお兄さんだって思った。でも、凄く怖い人だった。だから、別人かもしれないって、夢だったのかもしれないって……」
ずっと違和感があった。その理由はわからない。凪冴にとって彼は見知らぬ人でしかないのだから。
「水野、そいつに何かされた?」
淳也は、今度は確信を持って問いかけているのだろうが、今回も答えられなかった。
凪冴は俯いて、スカートの生地をギュッと握る。
「答えてくれよ。何もされてないだろ? 兄貴が水野さんに何するって言うんだよ?」
じっと遥希の視線が向けられているのはわかったが、凪冴は答えられない。それが何かされたという肯定でしかないことに気付いていながら固まっている。
「遥希、水野が困ってる」
「ご、ごめん……」
その声に凪冴はハッとする。言わなければならない。言うべきなのだと思わされる。
「あ、あのねっ」
凪冴は慌てて口にしようとして、けれど、遥希は制するように手を前に出した。
「もういいよ。でも、今日は家まで送ってくから」
「えっ……」
「部活はないよな? 予定は?」
「な、何もないよ」
「じゃあ、いいよな」
半ば強引に決められて凪冴は慌てる。
彼と一緒に帰るというのは憧れだが、実現するなどとは思っていなかったし、決して喜ばしい状況ではない。浮かれてはいけないのだ。
「だって、桜井君、部活は?」
「練習に身が入らないなら休んだ方がいいだろ。みんな、事情は知ってるし、ちゃんと話しておく。今はレギュラーがどうとかより兄貴の方が大事だから」
遥希はサッカー部に所属し、一年生ながら有望視されているほどだ。
「でも、方向違うし、今日は遅くならないから大丈夫……」
昨日は凪冴も部活があったが、今日は早く帰ることができる。不安などないはずだった。
それに、彼も凪冴と同じ電車通学とは言っても、学校の最寄り駅から先は真逆だ。
「また、そいつが現れるかもだろ? 俺が会えば、兄貴かどうかわかる。とっつかまえて問い詰めて家に連れ帰ることだってできる」
「そう、だよね……」
自分を心配してくれているわけではないのだと気付いて、凪冴は俯く。
『そんな顔しないで、またすぐに会えるよ。必ず会いに来る。迎えに行くから、ね?』
昨日の永希の言葉が蘇る。
一方的に、望まない約束をされたのは確かだ。また彼と会う可能性はあり得る。
「でも、水野が心配ってのもあるよなー」
淳也がニヤニヤと笑い、心配なのは兄の方でしかないのだと思いながらも淡い期待に凪冴は自分の顔が赤くなるのを感じてしまう。
「もし、本当に兄貴が水野さんを怖がらせたなら、俺がぶん殴ってやる」
盗み見るようにした遥希は拳を握り締め、いつもよりも頼もしく見えた。
けれども、それが自分だからではないのだと凪冴は言い聞かせなければならなかった。彼にとって友達の一人でしかない。それが男でも女でも同じことなのだろう。
教室に戻れば、告白だったのではないかと冷やかす声もあったが、その後、誤解はすぐに解けた。皆、遥希の事情は知っている。
今の彼にとって大事なのは兄の安否、それだけだ。
だから、凪冴は願う。桜井永希が無事であること、一日も早く家に帰ることを。あの男が永希本人ではないことを。
もし、本人であるならば弟やその友人に慕われる優しさを取り戻してほしかった。兄弟の間に何かあったのなら、和解してほしかった。