8 タレーテ公爵貴婦人はとっても不機嫌
アリシアがグラッドの街に到着したのは――領主軍が派兵され、暴動が武力鎮圧されて3日経ってのことだった。
「おっかしいなぁ…。ロシュウ先生は『賑やかで大きな街だよ』と言ってたのに…」
アリシアは森で集めたリンゴを齧りながら、期待はずれな街の風景にそんなことを呟く。
いや、街の規模は大きく、住んでいたノーファンの10倍以上はある城塞都市だ。
けれど街路を挟む家屋のレンガはほとんど崩れ落ち、まるで廃墟みたいになっている。
そこかしこの壁に焼け焦げた跡があり、行き交う人々は皆げっそりとし、言葉を交わす様子もなかった。
ノーファンを旅立つ前。ロシュウ先生は、
『グラッドはね。この西大陸【ルートフェル】にとって最も重要な交易都市なんだ。豊かでね、町を護る軍隊の規模も大陸一と言われている』
そう言っていたのだけど、とてもそうは見えない。
何と言うか……山で暮らしてる山賊砦の方が賑やかに思えた。
「ま、いっかあ」
気を取り直し、アリシアは食べ置いたリンゴの芯をポイッと路上に投げ捨てて皮袋から、母が持たせてくれた街の地図を開く。
そう――彼女が持たせてくれたのは【大陸地図】ではなく、【グラッドの街の地図】だ。
たいへん大雑把に、けれどアリシアにとってはわかりやすい、大胆な一筆書きで描かれた地図である。
「えーっと……大きな火時計を背に、大聖堂の鐘に向かってまっすぐ歩けばいいんだよね……?」
要するに、彼女には効率など無用だということだ。
歩く方向さえわかれば、辿り着ける根性があるのである。
――と、そうして辿り着いた公爵邸の巨大な門扉の前のことだった。
身なりの怪しいアリシアは4人の男、門を護る兵士たちに足止めされ奇妙な質問をされる。
「君は山賊かな?」
「ううん! 一般人だよ?」
尋問する兵士も、彼女の身なりを見て対処に困る様子だった。
まったく手入れされていないボッサボサに伸びた髪。
時節は夏だというのに肩に羽織ったボッロボロの毛皮と、背中に人の首をたやすく刎ねられそうな大剣を担いでいる少女は……山賊ではないにしろ、一般人にも見えなかった。
(なんだ。なんと言うんだ……?)
対処に困る門兵たちは話し合う。
「ど、どうする?」
生き生きとした元気いっぱいの表情と大きな瞳は浮浪者にも見えないが、こんな身なりをした女の子は長年門番を勤めてきた彼らも見たことが無いから判別ができなかった。
「どうするって言われてもなあ。お屋敷に入れるわけにはいかんだろ」
「お腹を空かせている様子もなく」
「物乞いではなさそうだから」
とりあえず、追い返す方向で一致する。
「君、お家に帰りなさい。いまこの屋敷は大変なんだ」
「駄目だよ。私、ここのタレーテっておばさんに用事があるんだから」
「――お、おばっ?!」
公爵邸で最も口にしてはならない絶対禁句に甲冑の兵士たちはガシャガシャッと後ずさった。
けれど禁句を口にした少女は悪びれた様子もない、何食わぬ思案顔で「んん?」と首を傾げ、
「私が用事があるんじゃなくて、おばさんの方が私に用事があるはずなんだけどなあ」
「やめろ。それ以上禁句を口にするんじゃない!」
咎めなければ自分たちも罪に問われる。
兵士たちは彼女を追い払おうと腕を突き出した、その瞬間のことだった。
手を伸ばした先――フッ、と彼女の姿は消え、次の一瞬。
「――――ぐはあぁぁっ!!」
兵士の腕をひらりと躱したアリシアは宙を舞い、体を反転させる後ろ回し蹴りで――ドカァッと男を吹っ飛ばした。
「き、貴様! 何をする!」
――否、彼らはすぐ言葉を変える。
「な、何をしたっ?!」
吹っ飛ばされ倒れた男の鉄兜だ。
素足のひと蹴りでグシャァっと鉄が変形していたのである。
着地したアリシアは怒った顔をして技名を教えた。「キックだよ」
「私に触ろうとする男の人は、ぜんぶ倒しなさいってお母さんに言われてるんだから」
「……い、いや。聞いているのはお母さんの教えじゃない……」
倒れた男に駆け寄った兵士は彼の様子を見て「……駄目だ」と首を左右に振る。
そんな彼にアリシアは「三日は起きないよ」と言ってのけて、
「とにかくタレーテおばさんを呼んで」
「ま、まさかタレーテ様に挑戦しに来た者か?!」
「違うよー。だから私がおばさんから呼ばれたんだって! もう分からない人たちだなあ!」
剣を構える兵士3人に、臆することなくアリシアは拳を構えた。
その時である。
「いったい何事ですの!!」
「――タレーテ様!!」
突然庭先から現れた金髪の貴婦人に兵士たちは剣を戻して膝をついた。
「この緊急事態に無用な騒ぎはやめてくださるかしら」
「――――はっ!!」
アリシアは「タレーテ?」と呼ばれた貴婦人に目を見張る。
年の頃は母親と同じくらいだ。
宝石の散りばめられた豪奢なドレスを纏っていて。だけど、その足の運び、隙のない腕の振り方が只者ではないとアリシアに悟らせた。
(――この人、すっごく強いわ!)
アリシアは大きな瞳をキラーンと輝かせる。
この7か月の間に、アリシアは幾度も戦ってきた。何となくだが、強い人とそうじゃない人の区別できる眼力が備わっていて、中でもこの人は別格に感じる。
けれどその婦人もまた同様に、目線をアリシアのドロだらけのブーツと、構えた拳、瞳の向き、顎の引き方へと這わせてきた。
「な、なあに?」
「――あなたは――」
身構えるアリシアに婦人は「フフっ」と微笑み。
「ミリアリーナ将軍の娘――アリシア嬢ね?」
身なりでは到底わからぬものを一目で言いあてた。
「わかるの?」
という問いに「ええ」と彼女は頷く。
「あの子の若い頃にそっくりだわ。かなり実戦で鍛えられたみたいですわね」
「ン、ンーー?」
鍛えてくれたのは森に棲んでいた動物や山賊、渓流などの大自然の脅威なのだが、アリシアもそこは説明を省いた。
タレーテはくびれた腰に手を当て「それで」と鼻から息を噴き、辺りを見渡す。
「お母様のミリアリーナさんはどこにいらっしゃるのかしら」
「お母さんは来ないよ?」
「――何ですって!!」
中庭に響き渡る怒声に、跪ずく兵士たちがビクッと肩を震わせた。
金色の優雅な髪は一変、逆立てる勢いで彼女は激怒する。
「どういうことですの! ミリアリーナは私の手紙を読んでは下さらなかったというの?!」
「ううん。読んでたよ。これ、お母さんからの手紙」
「お寄越しなさい!」
アリシアが差し出した母からの手紙をタレーテはふんだくるように奪い、読むや否や、紙を掴む手をプルプル震わせた。
「『――私は町を動けないの。代わりに娘を行かせるから用事ならこの子に』って、私を舐めてますのっ!?」
タレーテは手紙を真っ二つに引き裂き、ヒールで地面を踏みしめる。
踏んづけた石畳の床に――ビキィッと亀裂が走り、「――お許しを!」跪いた兵士たちは自分たちが怒られているかのように額を地につけた。
「ねえ、タレーテおばさん」
「何かしらっ!!!」
牙を剥くタレーテの形相に、兵士たちは地面に額を張り付けた姿勢のまま、ズルズル屋敷の方へと引き下がってゆく。
「お母さんはね。ああ見えてロシュウ先生の事を気にしてるんじゃないかなって私は思うの」
「アリシアさんは何を仰っているのかしら?」
「だから町を離れられないんだよ。きっと、うん、そうなんだよ。だからね、わかってあげて?」
「…………」
毛皮マントのポケットに突っ込んだまま事情を話そうとするアリシアに、タレーテは息を吐いた。
「まあここでは何ですので」石畳に刺さっていた踵をズポッと抜き、
「御屋敷の方へいらして頂けるかしら。こちらの用事をお伝えしますわ」
「うーん。でも私はうまくいかないと思うんだなぁ。2人とも奥手そうだし」
「私の話を聞いております?」
そんなやり取りをしながら、タレーテはちょっと頭の弱そうな親友の娘を屋敷へと招く。
(色恋沙汰に口出すつもりはございませんが、ミリアリーナ! 貴女との友情もここまでですわ!!)
内心、怒り心頭に発しながら、笑顔でアリシアの根も葉もない邪推に耳を傾けていた。