5 旅立ちの時① ~アリシア、15歳~
――アリシアは何とか学校を卒業することができた。
いつかロシュウ先生のお家で住む(フリックのお嫁さん)になりたい――そういう気持ちが運んでくれたのかもしれない。
卒業したアリシアは何となくそう思った。
とはいえ、字は書けるようになったが他人が読める代物ではなく、家事裁縫は相も変わらず壊滅的。
そんなアリシアを花嫁修業に受け入れてくれる家はなく、彼女は実家で家事手伝いをしながら過ごす毎日を送っていた。
「はぁ。つまんなーい」
ある晴れた日、部屋の窓辺に肘をついてアリシアは溜息をつく。
もう誰かとケンカする歳でもなくなった。
幼馴染のフリックもそろそろ父ロシュウの跡を継ぐための勉強が本格化し始め、あまり相手をしてくれなくて日々退屈が増してゆく。
アリシア――15歳
髪はまた少し伸び、肩にかかる彼女をもう【美少年】と見紛う者はいなくなったが、いまだ【女性】として扱ってくれる者は少なかった。
けれど彼女は情けないと思うこともない。
アリシアの心内はまだまだお転婆で、どこかでまた事件でも起きて「棒切れを振り回して暴れたいなぁ」などと、とんでもないことを願っていたからだった。
と、そんな冬の、ある日の深夜のことである。
寝静まった町の中に――1人の男を乗せた馬が走り込んできた。
その男は立ち並ぶ民家に目もくれずに行き過ぎ、まっすぐ――アリシアの家に辿り着く。
「――――?」
アリシアはベッドの中から這い出て、様子を伺った。
彼は母ミリアリーナに用事があるらしく、ノックもそこそこに入って来るや彼女に手紙を渡す。
「……っ!!」
「……からです」
2、3、言葉を交わすと男はまた去っていった。
馬は夜目が効かない。
なのに、こんな時間に走り込んでくるというのは…只事ではなかったのだろう、その話はすぐにアリシアにも聞かされることになった。
「アリシア。そこにいるんでしょ? ちょっとお願いがあるの」
「なあに、お母さん」
部屋を覗いていたアリシアを母が招く。
今年で47歳の母親だ。
頬に皺も目立つようになり、艶やかだった栗色の髪にもやや白髪が混じり始めていたが、指摘するとフライパンで強烈に叩かれるので何も言わない。
アリシアが部屋に入ると、ミリアリーナはおもむろに、居間の床の板をガコンッと外した。
床下から皮袋…それと、豪華に装飾された鞘にはまった1振りの大剣。
机に置かれた大剣を見て「はっ」とロシュウの言葉を思い出しアリシアは顔をあげた。
「これ、もしかしてお母さんの剣?」
「ええ、そうよ。昔使ってた騎士の剣よ。カッコイイでしょ?」
「へええ……」
目を丸くするアリシアは無造作に机の上に置かれた大剣を手にする。
金銀で装飾された鞘と鉄鋼の大剣は、男だ女ではなくまず常人が持てる代物ではなかったが――アリシアは身の丈ほどにある剣の柄を握りしめ、ひょいと片手で天井に翳した。
それを見たミリアリーナはやや驚いた顔をする。
「腕をよく鍛えてるわね」
「だって毎日ケンカしてたもん」
「負けなかったの?」
「15年、無敗よ?」
「それは頑張ったわね」
通常の母娘が夜中にする会話でもなかったが、茶番はさておきと母ミリアリーナは娘に用件を告げた。
「この町から東にあるグラッド港へ行って、タレーテさんっていう公爵家の奥さんを訪ねて欲しいの」
「……ごめん、もう1回言って?」
「地図を用意するからその時にもう1度言うわ」
アリシアは成長する日々の内に薄々感じていたが、母ミリアリーナも会話より先に手が出てしまうタイプなのではないかと思ってしまう。
「グラッドの港街まで半年くらい掛かるから、明日朝には出発して」
「明日?! 半年?! 私一人で行くの?!」
この言葉には能天気なアリシアもさすがに驚いたが、ミリアリーナはしごく真面目な顔で続けた。
「私の古い友人がね、助けて欲しいって言ってきたの」
「じゃあお母さんが行けばいいのに」
「でも私がここを離れたら、誰がお家を守るの?」
「私が……」
「それは無理でしょ?」
もっともな事を言った。
「それに」とさらに続ける。
「ちょっとね、もしかしたらだけど。とっても危険な事になっているかもしれないの」
「…………?」
「ずっと言ってなかったけど、私はいつかアリシアにちゃんと剣の使い方を教えてあげたいって思ってもいたの」
「?????」
アリシアは理解しづらい難しい顔をした。
裁縫ができるようになれとは一度も言わなかった母親である。が、剣を教えたいなど今まで一度も言ったことはなかった。
だが彼女は、
「【剣を持つ】ってそんな簡単じゃないから……」
ぽつりとそんな事を呟き、俯きかけた顔をアリシアに向け直す。
「けど、アリシアには自分で自分の身を守れるようになってもらいたい。この手紙を読んだ時に思ったの」
「剣は要るかなぁ。私、ロシュウ先生のお家へ嫁ぐんじゃないのかなぁ……」
ぼそっと言ってみると母は唐突な質問をしてきた。
「アリシアは算数と剣、どっちが習いたい?」
「算数と剣?」
「ロシュウ先生のお家に嫁ぐなら暗算くらい出来るようにならないと無理よ?」
「う、う、うぅぅーー」
突きつけられる現実に、アリシアは呻くように考えてみる。
やがて出た答えは「剣、かな?」だった。「でしょ?」と母ミリアリーナも笑う。
「ま、まあ」とアリシアは言った。
「剣が使えたら、先生やフリックを守れると思うし。そう約束したし」
「あら、いつの間に約束したの」
「けっこう前よ?」
「やるわね」
ミリアリーナはちゃんと自分の娘が成長しているところは成長していると安心し、優しい笑みを浮かべる。
「じゃあ決まりね。もう1度言うわ。グラッドの港街、公爵夫人のお家へ行って彼女のお願いを聞いてあげて欲しいの」
「どんなお願いかなぁ。裁縫とか家事手伝いとか頼まれたら困っちゃうなぁ」
「大丈夫、安心して。そんなことは誰も頼まないから。その剣を使う力仕事よ?」
「そっかぁ。本当だったらお母さんにお願いするお仕事だもんね」
「どういう意味?」
一瞬、ミリアリーナがピクリと眉を動かしたが、アリシアは「ううん!」と元気よく首を左右に振った。
「いいよ! このままお家にいたってすることないし、お母さんの代わりに行ってあげる!」
「ありがと、アリシア……」
――その時。ミリアリーナが浮かべたやや影のある微笑みの意味をアリシアは気づくことはなかった。
ただ、
「途中で馬を使ったり、荷馬車に乗せて貰ったら駄目よ? ぜったい歩いていくこと」
「えぇぇ……」
「ぜったい、グラッドまでは歩いていくことがお母さんとの約束」
「ま、まあ……。お金かかっちゃうもんね。うち貧乏だし」
うんうんと頷く母親に「半年かぁ」とこれから始まる壮大な冒険にアリシアは想いを馳せる。
「半年、半年かぁ……。危ないかなぁ。少しは剣の練習してから行った方がいいかなぁ」
「それは心配ないわよ。女の子1人で山道を歩いてたら剣の練習相手は幾らでも現れるから」
「そ、そっかぁ。最近男の子と間違えられることもなくなったしなぁ」
「ええ。アリシアはすっごく可愛くなった。綺麗になったわ」
「本当にそう思ってる?」
「とりあえず道中で出会う男性は全員敵だと思ってたら問題ないから。だからね」
だからねと、ミリアリーナは皮袋もアリシアの方へと寄せた。
「明日、袋の中に地図を入れてあげる。まずはいい? 西はあっち。方向だけ覚えて?」
「西はあっち……うん! あっちだね!」
指さすアリシアに「そうよ!」
「アリシアは賢くなったわ。西へ向かって直進したら、半年でグラッド港に辿り着くから」
「うん! わかったよ! まっすぐ行けばいいのね! それなら間違えないよ!」
「ええ、間違えずまっすぐ行ってちょうだいね」
頷くアリシアに「ほんと賢くなったわ」とミリアリーナは成長した愛娘を見つめる。
それから、2人は眠気が再び訪れるまで、ひとときの別れを惜しむように、煮た葉茶を飲んで昔話などに花を咲かせた。