1 イリーシア ~魔族の王の虜~
暗闇の中。
宙に浮いた巨大な水晶球は仄かな光を放ち、人間たちが燃えゆく姿を映していた。
そこには人間の文化が築いた人間らしい情というものは映っていない。
妻子を捨てて我先に逃げる男たち、子供を抱える母親同士で突き飛ばしあい、船に群がる姿があるだけだ。
「――――ククッ」
世界が炎に包まれ、心の闇が広がってゆくその様を心地よさそうに見つめる長身の男が微笑む。
――が、消える人間の命に愉悦を感じていたわけでもなかった。
ゆっくりと振り返り、すぐ背後に立つ栗色の髪をした若い女にその細い瞳を向ける。
女は――その冷たすぎる氷の刃の瞳にゾクッと身を震わせた。
冷酷だけでは表しきれない瞳に、下唇を噛む。
「どうだ? これが君の父親と母親が守ろうとした世界だ」
「………………」
女は答えなかった。
違うとも、そうだとも言わず――ただ、
「人間はもとより自然の生命です……。追い詰めれば、そうなります。そうしないために父と母は戦いました」
「――大勢の人間を殺してまでか?」
「……………………」
だが男は、言葉を失う若い女にそれ以上の意地悪な問いはせず。ふたたび水晶球を見つめる。
映し出す光景は変わり、世界――6つの大陸を映していた。
そのうち、すでに4つの大陸が灰色と土色に染まっている。文明の色彩と自然の緑を失い、それはおそらく――もう再び人間社会を築き直すことが不可能な領域に達していると、女は感じて目を伏せた。
「悪い国があった」
何の抑揚もなく、冷たい瞳をした男は言葉を紡ぐ。
「その国は不当な交易を他国に敷き、富を一極へ集中させ、強大な軍隊を持った」
「…………」
「交易基準に不満を述べれば、あるいは自国に匹敵する軍を作ろうとすれば、容赦なく軍隊を差し向け破壊しようとした」
女は俯き、男は続けた。
「富は人材と共に集中し、他国を完全に圧倒した。だがそれは差別を呼び、貧富の差を生み、やがて争いを招き。戦争の止まない世界を作るきっかけとなった」
――悪い国だと、男は小さく笑う。
「君の両親はその国に対し果敢に戦いを挑み、そして勝利し、現在の平和と均衡を世界にもたらした。英雄だ」
「もう十分でしょう…。両親の話は私には関係の無い話です」
――何よりと、女は下唇を強く噛んだ。
「貴方は父を殺しました」
「稀代の天才軍略家は。果たして私の軍隊にも勝てたかな?」
女の言葉を無視するように男はさらに続ける。
「しかし、さすがはハムリアートの娘だ。君の言う通りにしたら、私が予測していた2倍以上の速さで人間世界を崩せた」
「――私がいなくとも、魔の軍なら容易く人間世界を征服できました!」
ハムリアートの娘、そう呼ばれた女は怒鳴り声で男の言葉をかき消した。
だが、泣き崩れる。
彼女の服の下には、若い肌には幾つもの傷が刻まれていた。多くの疵が刻み込まれている。
「もう1つ、大陸を潰してみたい」
「もう十分なはずです…。ここまでやれば人間の世界は滅びます…」
「しかし君の母親、世界最強と謳われた女将軍がいる。その娘、君の妹も残っている」
男は振り返った。
この世界の人間とは違う、尖った耳。
黒いマントで包んだ身の下にはおぞましいほど発達した筋肉があるのを娘は知っていた。
「君は私を愛している。そうだな?」
「…………」
唇を震わせる。
冷たい瞳を柔和に緩ませたそれは、むしろ恐ろしさを増した。
彼の瞳に、まるで裸で猛獣の前に立たされている無力な女に陥ってしまう。
「もう1つ大陸を潰してみたい。君の願い通り、狙うのは母親と妹のいない大陸だ。私にまた策を授けて欲しい」
「…嫌です…。これ以上人間が土地を失えば、母も妹も生きてはいけません」
「案外。そうはならないかもしれない」
男は娘の顎に優しく冷気をまとった掌を添え、涙をためる瞳を上向かせた。
「君の母親が、あるいは君の妹が立ち上がるかもしれないぞ?」
「妹には才はありません! 母の血が濃いのです。母も、父がいなければただの女です! お願いです…。私は魔族になりますから。どうかこれ以上は…」
「その心を持つ限り駄目だ。まだ足りない」
泣き崩れる娘の頬を手で包み、男はそっと口づける…。
「イリーシア。君は魔族になるんだ。その手で妹を殺せ。君の心は私と一つとなり、もっと自由になれる」
「…………」
イリーシアの瞳から涙が零れ落ちた。
「これまでのように船は使えません…。残った2つの大陸は強固な同盟を結ぶからです…」
「では君ならどうする?」
「内側から…崩します……」
そうすれば、あともって2か月ほど。
それで大陸2つは滅びると、抱きしめられるイリーシアは彼の耳元でそう言った…。