『夏の速記者』
ただ今ではレタスと呼ばれている野菜がございますが、昔はあれを萵苣と申しました。レタスは、食物繊維を計る単位のように扱われておりますが、たくさん食べますと、消化に悪く、おなかを壊すこともあるんだそうでございます。特に、夏に採れるレタスは、強い日差しを受けて、外側が硬くなりますので、夏のチシャは、おなかによくないということのようでございます。
ある村で、村人が皆、速記を学ぼうということになりました。立派なことですな。ところが、田舎の村ですので、速記者が一人もおりません。山を一つ越えた隣の村に、玄白という高齢の速記者がいるというので、庄屋の息子が迎えに行くことになりました。
朝一番に村を出まして、山を越えて、巳の刻といいますから、十時ごろに隣村の玄白先生の家に着きますと、玄白先生、のんきに庭の草むしりなんぞしています。庄屋の息子が、うちの村に来て速記を教えてほしいと頼みますと、草むしりが済んだら、などと言われまして、流れで、草むしりを手伝わされることになります。
「玄白先生、もう昼も過ぎました、日が暮れる前に戻らないといけませんので、そろそろ腰を上げていただきたいのですが」
「そうじゃな、では、これを持って案内せい」
というようなことで、玄白先生の速記道具を持たされまして、そこから逆に山に入りますと、玄白先生は意外な健脚で、ほいほいと上っていくのですが、庄屋の息子は、午前中に山越えをしたばかりですので、疲れてしまいました。
「何じゃ、だらしない、少し休め」
というようなことで、峠近くの木の下で、座って休むことになりました。
「どうでしょう、玄白先生、日が暮れる前に村に着けますかね」
「大丈夫じゃろう」
などと話しておりますと、あたりが急に暗くなります。何やらじめじめと、嫌な熱気に包まれています。
「先生、どうしたのでしょう、まだ日暮れには時があるはずですが」
「これはな、おそらくウワバミに飲まれたのじゃ」
「ウワバミって大きなヘビですか」
「ほかにウワバミはないじゃろう」
「いえ先生、大酒飲みがあります」
「余裕じゃな」
「いえ、冗談でも言わないと気を失いそうで」
「なるほど、そういうものかもしれんな。でも、余裕を出し過ぎると、ウワバミの腹の中で溶けるぞ」
「どうすればいいんでしょう、塩なんて持っていませんし」
「それは、ナメクジに外からかけるんじゃな。ウワバミに中からかけても何もならん。じゃ、まあ、長居してもいいことはないじゃろうから、そろそろ出るか」
「え、先生、何か方法があるのですか」
「長年、むだに速記をやっておらんよ。ほれ、プレスマンの芯を粉にしてばらまいて、と。プレスマンをあっちこっちに刺しまくって、と。ほら、くるぞ」
庄屋の息子と玄白先生は、ウワバミの尻から、見事にもとの世界に生還いたしまして、妙な臭いを放ちながら、村に到着します。早速風呂に入りまして、お召しかえを済ませまして、
「では先生、早速速記を御教授願います」
「うむ、では、皆にプレスマンを配ってくれ、あ、プレスマンというのは速記シャープのことじゃが」
「先生、そのプレスマンというのはどこにあるのでしょう」
「わしの家を出発するときに、お前に持たせたはずじゃが」
「そうでした。先生、、申しわけありません、ウワバミの腹の中に置いてきました」
「何じゃと。ほかのものならともかく、速記者の魂と言われるプレスマンを、ウワバミのえさにするわけにはいかん、行くぞ」
「行く、というのは、峠まで、ですか」
「当たり前じゃ、急げ」
そんなこんなで二人はまた、峠まで登っていきます。二人がウワバミに飲まれたところから、どう見てもウワバミが通ったような跡をたどっていくと、ウワバミはそこにいました。
「ウワバミよ、さっきお前に飲み込まれた速記者じゃが、お前の腹の中に速記道具を忘れてしまってな。すまんが大切なものなので、返してほしいんじゃ。もう一度わしらを飲み込んでくれんか。速記ができなくて困っておるんじゃ」
玄白先生が頼み込みますと、ウワバミが具合悪そうにこちらを向きまして、
「お断りだ。夏の速記者は腹に悪い」
教訓:砂浜に速記を書く話だと思わせて、落語。