9. のんびりしようか
カミラと話し合い、全ての日程を見直した翌日、ヴェラはシモンと馬上の人になっていた。馬術を習っていないヴェラは前に横乗りになり、シモンが手綱を握っている。
「領地に帰るのはまだ先だから、人の手の入っているところでごめんね」
「十分です」
社交は切り上げても良いが、研究家との会談がまだある。遠乗りといっても王都近郊の整備された保養地だ。王族も利用するとあって、騎士の巡回により安全が保たれており、シモンが連れているのもベルントとヴェラの専属侍女、セルマの二人という身軽さだ。馬車も利用できるように道幅は広く均されていて、木々に囲まれていても人間の生活圏から遠のいている印象はそれほどでもなかったが、ヴェラは呼吸が楽になるような心地を覚えた。寄りかかるヴェラの身体が僅かに弛緩するのを感じ取って、シモンは目元を緩めた。
「ボートに乗って楽しめる湖があるんだけど、ヴェラはこっちの方が良いかな」
行楽の定番順路を外れて森の点検に使う脇道に入り、更に道を外れて山裾に向かうと、小さな泉のある場所に出た。苔むした大きな岩が無作為に転がっており、倒木も朽ちるがままで足場が悪く、王侯貴族が物見遊山で足を踏み入れるような場所にはなっていない。小鳥の囀りが時折響き、水の湧き出る音が優しく耳を撫でる。ヴェラはシモンを見上げた。
「下りても良いですか」
「勿論」
シモンは先に下りてヴェラが下りるのを手伝う。ベルントやセルマも下馬して、それぞれの馬を適当な木に繋いだ。ヴェラも森用に狩猟で使う長靴ではあるものの、淑女の淑やかな歩き方を覚え込んだ、人間の身体だ。二足歩行の森歩きは難しく、シモンに支えられていても足元が覚束ない。ヴェラはそっとシモンとセルマを窺う。シモンへは期待を、セルマには願いを込めて。
「靴を。靴を脱いでも?」
「いけません」
セルマはヴェラを姫蛙様として受け入れていた経験のある領地から連れてきた侍女で、シモンやヴェラの事情に精通しているのだが、貴婦人が足を晒すのははしたないことという常識も持っているので、いい顔をしない。
「いいよ。ベルントは後ろを向いていてね」
「若様」
ベルントはシモンの言葉に素直に従ったが、セルマは控えめながらも咎める。
「今日はできる限りヴェラの好きなようにさせて」
セルマはこれはヴェラの息抜きで、これまで頑張ってきたご褒美なのだと、事前説明を受けている。脱走の件も大まかに知らされていれば、シモンの言葉に命令の意図が含まれていなくても、不承不承従わざるを得ない。セルマは敷物を敷いた岩にヴェラを座らせて、長靴を脱ぐのを手伝う。
「ありがとうセルマ」
「…お怪我をなさいませんよう」
無表情ながらヴェラの声には浮き立つものが含まれていて、セルマは困った人を見る目をした。ヴェラは裸足で腐葉土の感触を味わうように歩き、泉に爪先を伸ばす。
「深いかもしれないから、気をつけて」
透明度は高いが底には落ち葉が積もっていて、実際の底の深さは判らなかった。シモンは万一に備えてヴェラの腰に手を添える。
「蛙にしようか?」
蛙ならば潜っても構わないとでもいうようなシモンの提案に、ヴェラは首を振る。ヴェラは爪先だけ泉に浸したまま、木漏れ日やぐるりと周囲を囲む緑を見回し、森の香りを身体一杯に溜め込むように深く呼吸をした。訪れたことのない森だ。見たことのない草花もちらほらと見える。それでも、蛙が生きてゆくのに適した環境であることは、直ぐに解った。懐かしいとは違う、あるべき場所に落ち着いた感覚がヴェラを満たした。
目を瞑って動かなくなったヴェラに、シモンは黙って寄り添う。
「状況説明頼む」
主人達の気配を音で把握していたベルントが、静寂の長さに痺れを切らしてセルマに囁いた。声量は落とされていたが、誰も音を発しない状態では耳に届いて、ヴェラは瞼を持ち上げた。隣を見上げると、シモンが柔らかい眼差しで見下ろしている。同じ姿勢で黙って立ち続けることは、慣れないシモンには苦痛である筈だ。ヴェラにも直立での持久力はない。
「シモン様、ありがとうございます」
この場に連れてきてくれたことと併せて感謝を音にすると、シモンは、うん、と頷いた。
「君にとって危険な場所だとばかり思っていた」
「危険ですよ。……でも。今は人間なので、鳥や蛇のお腹の中には入りません」
「そうだったね。怖くはない?」
「怖くないわけではないのですが」
言い表すのに適切な言葉が見つからなくて、ヴェラは暫し考え込む。
「そういうものでしたので」
怖くても、それも含めてヴェラの世界だ。風景の一部になり、気配を殺すことに適した、ヴェラの生きてきた場所。今は逆に、紛れることの叶わぬ姿を意識すると拒まれているような気がして、少し落ち着かない。
「それに。シモン様が守ってくださるのでしょう?」
「勿論」
「なら、大丈夫です」
ヴェラの目元が自然と、微笑むように緩んだ。シモンは感に堪えないように口をひき結んで、ヴェラを抱き寄せる。抱き潰すような力を入れかけて、既で緩めるシモンの心の動きが判るようで、ヴェラはじわりと温かいものが胸の奥に広がるのを感じた。この腕はヴェラを守ってくれる。蛙程繊細ではない人間の身体であるのに、シモン自身からも守ろうとしてくれているのだ。ヴェラがそっと身を擦り寄せると、シモンは僅かに息を詰め、腕に力が入りかけてまた緩められる。再び長い沈黙が下りた。
「セルマ、状況」
「ベルント、さっきから煩いよ」
ベルントが情報を求め、シモンが無粋を咎めた。
「ふ」
ヴェラは可笑しくなってしまって、小さく笑い声を漏らした。
「笑った!」
シモンは大事件でも起きたように目を見開き、ヴェラの両腕を掴んで身体の隙間を空けた。ヴェラは驚いて、丸くなった目を見合わせることになった。