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続・永遠の蛙  作者: 十々木 とと
本編
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8. 隠れていたほころび


 捕食者の目に捉えられて、逃れられたことは数少ない。ましてや遮蔽物のない開けた場所。今までそうしてきたように、ヴェラは諦めた。だがヴェラが瞳孔を横に細くした瞬間、梟は空に向かって飛び立った。一瞬前まで梟のいた場所を、一筋の光が音もなく過ぎてゆく。


「ヴェラ!」


 ヴェラが身を捩ると、シモンが駆け寄ってくるのが見える。片手には魔術を放った余韻が残っていた。


「感知魔術を張っておいて良かったよ……どうしてこんな、危ない真似を」


 シモンは魔術で冷やした手で、大事にヴェラを包んで持ち帰った。何事が起きたのかと待ち構えていたベルントに湯の用意を言いつけて、人間に変化させたヴェラをガウンで包んで寝台に座らせる。シモンも寝間着のまま隣に腰掛けた。ガウンを羽織る間も惜しんで飛び出したのだと判るその姿に、ヴェラは身を縮める。


「ごめんなさい」

「責めているんじゃないよ。訳を聞かせて」


 シモンは優しくヴェラの背を撫でた。


「気分転換をと思って」


 部屋を出た時はそうだったのだ。だが、そこからは。求めるものがあったように思う。それを言葉にしては、不安げに瞳を翳らせているシモンを悲しませるような気がして、ヴェラの目は自然と逸れた。


「ヴェラ?」


 魔術を解いて本来の体温を取り戻した手は温かく、促す声も優しいままだ。


「森に」


 自然の中に紛れたかったのだ。恐る恐る発した声は吐息のような小ささだったが、シモンは一瞬息を詰めて、背を撫でる手を止めた。


「君には心休まらない場所なのだと思っていた」


 そこは弱肉強食の世界で、幾度も死を経験していると聞かされていれば、シモンはヴェラを森に連れて行くことなど、思いつきもしなかった。だから蛙に変化した時は外に出さず、万一を考えて、邸の敷地に沿ってヴェラを対象にした感知魔術を施していたのだ。


「私もそう思っていました。でも」


 常に捕食者に怯え隠れ、日の光の元へ出ようと思えば細心の注意が必要で、捕食されれば捕食者の都合で馴染んだ住処も変わる。蛙の足で移動できる範囲で安全な場所を探し、食事はといえば蛙の消化できるものなどおそらく昆虫であったから、食指は動かなかった。初めは寝食も忘れて嘆いていたから、食事をせずとも命が続くことは早い段階で気付いていて、食を楽しみとすることを諦めたのだ。それでも綺麗な水があった、綺麗な花を見つけた、日の光が暖かい、落ち葉の中も暖かい。強者の目を盗んでささやかな喜びで自らを慰めることも覚えていて、それを思うと、一言で心休まらぬ場所と言い表していいのかは判らなくなる。


「僕は君に、無理を強いている?」


 シモンの声で思索の海から舞い戻り、ヴェラは鳶色の瞳を見て首を振る。

 何をしたわけでもないヴェラが、今の安全と幸福を享受するのに、何もしなくていいわけがない。シモンの妻になり、立派な淑女になり、人間の子供を産み、いずれは伯爵夫人になることが最低限の義務で、恩返しなのだ。全てのことに納得していた。納得しているのに、逃げ出してしまった。これは逃げ出したということになるのだと気付いて、何度も首を振る。


「ヴェラ、ヴェラ、落ち着いて。いいんだ、共寝を拒んだ時のように、はっきり言っていいんだ。それで君に失望したりなんかしない。本音を聞かせて。君を理解したいんだ」


 大きな両手が頬を包んで、ヴェラの首を止めさせた。ヴェラの大きく揺れる瞳を受け止める眼差しは真摯で、揺らぎがなかった。


「僕はずっと君といたいんだ。もし君を残して遥かに早く逝ってしまうのだとしても、僕の命がある限り、君といたい。この我儘を、僕は君にぶつけ続けるんだよ。だから君も、我儘を言ってもいいんだ」


 ヴェラはそっとシモンの手の甲に触れる。シモンはヴェラを捕まえる時の力加減が絶妙で、それはずっと変わらない。大事なものを扱うように、壊れ物を扱うように、でも決して離さない。ヴェラはおずおずと口を開く。


「恋しく、なるのです。幸福であるはずなのに、時折、無性に帰りたく、なるのです」

「それは矢張り、何か嫌なことがあるからかな」

「嫌、なのではないのです。全て必要なことだと理解しています。新しいことを覚えるのも楽しい。楽しい筈なのに、息苦しくなってしまうんです」


 ヴェラは気持ちを他者に伝えるという行為を、もうずっとしてこなかった。胸の中に渦巻く不定形なものを、どう表現したものかまごつく。


「淑女教育が辛い?」


 辛いと言い切るのは少し違う気がして、考える間が開く。苛烈な教育方法を取られているわけではなく、身に慣れないものを教えこまれることに反発を覚える程、人間としての下地もない。だが近い感覚なのだろうと、ヴェラはそっと頷く気配をシモンの掌に伝えた。


「内容が嫌なわけじゃないなら、詰め込みすぎているのかな」


 少し考えて、ヴェラはまた頷く。


「そうか。もう少しゆっくり進めるよう、母上と相談しよう。社交も少し、休もうか」

「……いいんですか」


 何をどの程度まで行うのが適量なのか、ヴェラには判断できない。不安を示すように、シモンを見つめる瞳が揺れる。


「いいんだよ。急ぐ必要は全くないんだ。社交だって、そんなに密にする必要はない。家の地盤は磐石だから」


 魔操者を名乗れる唯一の家に成り代われる家は、今はない。その地位を脅かそうとするなら、周囲が率先して阻止しようとするくらいだ。今後ヴェラが社交に全く出られなかったとしても、一族の者が代わりを担ってくれる。


「僕は君のことが全然見えていないんだな。こんなに追い詰められるまで我慢させていたなんて…気付かなくてごめん」


 それはヴェラが苦痛を見せず、訴えもしなかったからだ。ヴェラは弱者の立場に慣れざるを得ず、無力感と抵抗の無意味さが身に染みこんでいて、圧倒的な力や理不尽を受け流す術を身につけていた。心を無にして我慢さえしていれば、どんなことも過ぎ去る。馴染みのないことをしているだけで、明確な脅威に晒されているわけではないから、いずれこの窮屈さにも慣れるだろうと、ヴェラ自身が高を括っていたのだ。

 一番よく観察しているシモンが気付かないのだから、他に誰も、気付きようがなかっただろう。そしてまた、永きに渡る蛙生の影響など誰も想像し得ないのだから、如何にシモンと言えど、的確に対処できようはずもない。それが解るから、ヴェラは首を振った。切ないように、シモンが微笑む。

 それからシモンは、用意された湯でヴェラの手足の汚れを丁寧に落としながら、ぽつりと言った。


「遠乗りに行こうか」






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