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続・永遠の蛙  作者: 十々木 とと
番外編
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愛を見逃さない男


 ある時ヴェラは、シモンの首に細い鎖を見つけた。

 イエルタ王国では、男性が貴金属で首元を飾る風習はない。布そのものが装飾である。平服から正装まで、如何様にも形を変えることのできる素材を、如何にセンス良く巻くかということに重きを置かれている。シモンも新しい流行を作ろうということでもないのだろう、衣服の下に隠れるように身につけているので、ヴェラがそれを見つけたのも、寝台の上でのこと。寝間着の開いた襟元からだった。長旅の際、貴重品を衣服の下に隠し持つ為に首から下げることもあるが、今は自領の領邸である。ヴェラは不思議を問う。


「シモン様、明日はどこか遠方にお出かけですか」


 そうだとしても、気の早いことだ。


「いいや? 残っている書類を処理するつもりでいるけれど、どうしたの」

「首に何か下げていらっしゃるので」

「ああ、これ」


 シモンは嬉しそうに鎖を引っ張り出した。


「覚えてる?」


 持ち手が輪になっているだけの、飾り気のない黒い鍵。形には見覚えがあるが、ヴェラが知っているもよりも随分小さい。


「君が蛙の時には決して何も入れようとしなかった綺麗な胃に、僕の為に入れたものだよ」


 記憶を手繰っていたヴェラは、違和感の正体に思い至った。ヴェラがその鍵を目にしたのは、蛙の時だった。だから大きさが違って見えたのだ。


「何故、そんなものを」


 クロンヘイム伯領の研究邸でシモンを捕らえていた、枷の鍵である。ヴェラは当惑した。


「これは君が僕を愛している証だからね。捨てられないよ」


 シモンは愛おしげに鍵を見る。ヴェラは久しぶりにどういう感情を持ったらいいのかわからないという現象に直面した。

 忌まわしい記憶が塗り替えられたのなら、良いことだ。だが何をどう表現しようが、枷の鍵なのである。そして綺麗とは言うが、一度胃に入ったものを戻したのだから、嘔吐物である。胃液まみれだった。生ものではないから、洗ってしまえば問題はないと言えばない。これは何も考えず、シモンの改変力に驚嘆すべきところなのか。

 シモンは固まっているヴェラに気付いて、優しく微笑んだ。片手で鍵を大事に包み込み、もう片方の手でヴェラの頬を撫でる。


「難しく考えないで。僕が君をとても愛しているというだけの話だ」


 それはヴェラも疑ってはいない。ただ、肌身離さず所持するものとして、それは如何なものかと思うだけだ。

 折に触れて、ヴェラは説得した。捨てろとは言わない、誰にも盗られないように大事に保管してはと提案しても、シモンは誰にも盗られない場所がここなのだと身につけ続けている。あまりに話が通らないので、もういいかなという気にもなっているのだが、うっとりとそれを見つめる様を目撃すると、微妙な気分になる。ただでさえ蛙愛という、奇異の目で見られるような特性があるのだ。この上枷の鍵を後生大事に隠し持っているなど、趣味を疑われる程度ならまだしも、品性まで疑われるかもしれない。体面を重んじる貴族社会でそれは、不都合があるのではと心配になる。

 シモンがそこまで執着する物語を鍵に与えてしまったのは、ヴェラなのだ。ここは責任を持って、代わりのものを用意せねばなるまい。とはいえ、では何が相応しいのかということはヴェラには判らない。


「男性が肌身離さず身につけるものとして、支障のないものはなんですか」


 ヴェラはこの問いを、カミラ、ヤンヌ、セルマにしたところ、懐中時計一択であった。シャツの中に仕舞うものではない。それにヴェラが選んだというだけでは、あの鍵には間違いなく負ける。

 最もシモンの取り扱いに長けているベルントに助言を求めることにした。先ず鍵について尋ねてみると、ベルントはその存在をヴェラよりも先に知っていた。マルクルンド侯領からセランデル伯領に戻る道すがら、鎖の用意を言いつかったのだという。代わりを用意したい旨を相談すると、ベルントは諦観の面持ちで首を振った。


「あの鍵に代われるものがあるとしたら、若奥様だけでしょう」

「……私がシモン様の首から下がるという…?」

「そんなことは言っていません」


 ヴェラとて密閉されてはかなわない。だが発想は悪くないように思えた。

 シモンが国境の点検で留守にしている隙に、ヴェラは行動に出た。シモンが描かせたヴェラの姿絵(蛙)を銀細工職人に見せて、親指の先程の大きさのヴェラを注文した。完成したと見せられたものは、絵の意味があったのかと首を傾げるほど簡略化された蛙だった。相手はシモンなのだ。半端な蛙では心に響かないだろう。何度も作り直させて、どの角度から見てもヴェラとしか言いようのない域にまで完成度を高めるのに、一ヶ月の時を要した。シモンが帰ってきたのはそれから一週間後である。


「ヴェラ! ただいま! ああ長かった、寂しい思いをさせてごめんよ。何事もなかったかい、よく顔を見せて」


 シモンがヴェラの出迎えを喜ぶ時間をたっぷりととって、シモンの部屋の長椅子に落ち着くと、ヴェラは職人の努力の結晶が詰まった小箱をシモンに渡す。


「シモン様。肌身離さず持ち歩くのでしたら、此方にしてください」

「えっ!」


 シモンは先ずヴェラからの贈り物ということにときめいて、願い事をされたことに二度ときめく。内容に三度ときめき、小箱を開けて、そこに鎮座する銀色の小さなヴェラと対面すると、胸を押さえて長椅子から崩れ落ちた。ヴェラは驚き、支えになろうと床に跪くと、シモンの口から息も絶え絶えの呻き声が聞こえた。


「ヴェラが僕を殺そうとしている」

「これは助け起こそうとする手です」


 シモンはそうじゃないと首を振る。


「君を持ち歩いて欲しいということだろう、片時も離さず!」


 動機はそれではないが、結果的には同じことであるから、ヴェラは頷いた。


「是非鍵の代わりにしてください」


 蛙の指先にある小さな輪は、鎖に通す為にある。


「鍵よりも私を身につけてだなんて」


 シモンは小箱を握りしめ目元を覆った。


「僕の心臓を止めにきてるじゃないか。鍵に嫉妬を? ずっとしてたの? いやもしかして独占欲? 凄く愛されているということなのでは? 僕の体温の所為で鍵のような芸当はできないものね。苦肉の策でヴェラの代わりに銀のヴェラを用意したというこ……え、これ凄くないか、まさにヴェラそのものでは。小さいヴェラ……なんて愛らしい」


 シモンの補完は思惑以外は合致しているので、ヴェラが訂正すべき箇所はあまりない。シモンが指の隙間から銀のヴェラを改めて確認するのを静かに見守る。


「指……指の先で鎖にぶら下がるの? い、いいねこれ、僕の胸に張り付く形になるんだ。まるで僕から離れたくないと言っているみたいだね。それに四肢が前後にずれているこの体勢は……これはなんというか、僕の胸を這い上がってくる君という」


 シモンの喉が唾を飲み込む音を立てた。


「絶妙に、エロティシズムをはら」


 はっと我に返ったシモンは口を噤んでヴェラを見た。ヴェラの瞼が微かに持ち上がってる。その純粋な瞠目に耐えかねたかのように、シモンは再びさっと目元を覆った。耳が赤い。


「そんな目で見ないでくれ……君が愛しすぎてつい妄そ……いや、違う、そうじゃないんだ、僕は、……そうだよ僕はどうしたら」


 羞恥からか苦悩からか、シモンは打ち震えている。ヴェラは微妙な気持ちの悪さを感じつつも、今までで一番手応えを感じた。何を妄想したにせよ、シモンは鍵と銀のヴェラの間で揺らいているのだ。この機を逃さず目的を遂行するのみである。


「鍵を外したらいいと思います」

「ごめんそれはできない!」


 悲痛な声が床に向けて叩きつけられた。


「許してヴェラ。僕は君の愛を手放すことはできないんだ!」


 まるで半身を引き裂かれるかのような叫びだった。

 自分は今、別れを迫っていたのだろうかとヴェラは錯覚しかけた。そんな覚えはないが、空気は間違いなく愁嘆場。シモンを苛めているような気さえしてきて、ヴェラは動揺した。部屋の隅でシモンの旅具を片付けているベルントが無我の境地に旅立った顔をしている。ベルントがいつからその状態であったのかは判らないが、ヴェラはそれを見習って一度無になることにした。思考がとっ散らかりすぎている。


「違うんだヴェラ、鍵よりも君が大事で、君に代わるものなんて何もないんだよ。君の気持ちを蔑ろにするわけじゃない。できるわけがないじゃないかこの僕が! でもこの鍵を手放すことは君の愛を捨てるに等しい行為だよ。銀のヴェラが劣っているわけじゃない、これも僕への想いが作らせた芸術品だ。このエロテ、いや、劣る劣らないじゃないんだ、もう僕をしっかり掴んでしまっている、でも、そんなことをしたら僕はどうなってしまうんだ…?」


 ヴェラの沈黙に不安になったシモンの思考も混乱しかけている。どうもならないのではと言っても収拾がつかない予感がして、ヴェラは口に出かけたそれを呑み込んだ。今はきっと、刺激してはいけない。ヴェラはそっと、小箱を握りしめているシモンの手を両手で包み込む。


「シモン様。良いのです。私が浅はかでした。どちらもおつけになればよろしいのです」


 シャツの下に何を隠していようとも、剥かれない限り誰に知られるわけでもない。シモンが誰かに剥かれるような状況になど、そうそう陥らないだろう。環境を意識し過ぎて肝心のシモンの気持ちを蔑ろにしてしまったようだと、ヴェラは反省し、初心にかえることにした。一番大事なのは、シモンが健やかであることだ。少しくらいの気持ち悪さがなんだというのか。ヴェラはただ、シモンが幸せであれば良いのである。



「若奥様、首尾は如何でした」


 一夜明け、鏡台の前に座すと、ヴェラの髪を梳き始めたセルマが問う。

 セルマには職人との交渉を手伝ってもらっていた。ヴェラは感謝が伝わるように、鏡越しのセルマに向かって、意識して微笑んで見せる。


「とても喜んでいただけました。ありがとうセルマ」

「鍵の方は」


 ヴェラはセルマの仕事の邪魔にならないように、ゆっくりと首を振る。


「シモン様は、物ではなく、それにまつわる物語に価値があることをよくご存知なのです」

「若奥様も随分淑女らしくなりましたね」


 セルマは美しく包むことができるようになったヴェラの成長に、しみじみとした。




 次期魔法伯は、シャツの下に枷の鍵と銀の蛙を隠し持っている。二つが擦れ合って摩耗しないように、それぞれを魔術で保護するほど大事にしていた。そうして最愛の妻に、嬉しそうに語るのだ。


「毎日丁寧に、繊細な操作をしているからかな。防護結界の補修作業で無駄が少なくなったと、父上に誉められたよ。君のおかげだね」






トールボリ家を救った守り神として、銀の蛙が鍵と共に受け継がれたり受け継がれなかったりするのかもしれない。

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