私の育てた若奥様
セルマは紛う方なき平民である。実は遡れば高貴な血が混じっているなどという秘密は全くない。にも拘らず、次期領主夫人の侍女として育てられることになった。時に主人の話し相手になり、社交場にもお供し、他の上流階級の人間の目にも触れる侍女なのだ。一定の礼儀作法と教養を求められる。本来ならば、下級貴族や商家の娘がなるものである。トールボリ家にも分家があり、領内に抱えている下級貴族もいて、そうしたところから召し上げる方が、信頼もある。だがそうしなかったのは、次期領主、シモンの少しばかり捻じ曲がってしまった性癖に原因があった。
シモンは領地療養で沈没しかけた心を持ち直し、周囲を安堵させたが、蛙愛という、新たな扉も開いていたのだ。トールボリ家の大人達は、初めのうちは一時的に心の拠り所にしているだけだろうと、若干眉を顰めながらもまあまあ温かく見守っていた。人間関係に疲れ、馬や犬に癒しを求める貴族もままいるのだ。それがシモンはたまたま蛙だっただけなのだと。庭に池を作り、そこで蛙の卵を孵化させた時も、まだ子供のやることだ、そのうち飽きるだろうと思っていた。然し。池だけではなく岩に低木にと、蛙に最適な環境が整えられたその場所に日がな一日入り浸り、全く飽きる気配が見当たらない。これはまずいのではと気付いた時にはもう遅かった。否、蛙と出会った瞬間にシモンの性癖は定まってしまっていたのだ。無理に矯正して、また塞ぎ込まれるよりはと、大人達はそれに触れることはしなかった。跡取りさえなせば、愛の在り処などどこであっても構わないのだから。ただ、蛙のいる生活に耐え得る貴族女性というものに、心当たりがなかった。皆嫌がるであろう。だからせめて、蛙耐性のある侍女を用意することにした。それがセルマというわけだった。
セルマは当時、それらを簡単に説明されたが、内容は理解できなかった。セルマの経験上、蛙など、その辺の悪ガキが女子に対する悪戯に使う生き物上位三番には必ず入っている、身近なものだ。女に生まれると必ずそうした目に遭うもので、毛嫌いするにしても、耐性は誰しもつくものだと思っていたのだ。蛙を大事にするシモンについては、破裂させたり投げつけたりするよりずっとましであるから、全く問題視していなかった。
大体にして、人間誰しも、ちょっとおかしなところの一つや二つ、あるものだ。近所で評判の色男である靴屋の親爺は、酒に酔うと幼児返りをする。うっかり奥さんに甘える現場を目撃し、セルマの憧れを打ち砕いた。セルマの強く逞しくおっかない森番の父親は、髭もじゃの暑苦しいなりをしているが、可愛らしいものが大好きで、母が作っていたセルマ用の人形にあれこれ口出しし、予定していたものより数倍可愛らしいものになっていた。娘ができる度に、そうした人形が増えている。セルマが邸に奉公に出てからも、その人形は大事に飾られているという。靴屋の奥さんはぞんざいにあしらいながらも旦那を自宅に回収していたし、母も父の意外な一面を知って戸惑ったらしいが、そんなことくらいで家を出て行ったりはしていない。少しくらいのおかしさは受け入れて連れ添うのが夫婦というものなのだろう。セルマは子供心にそう理解していた。
なんだかよく解らないが、セルマは必要とされて侍女になるということは納得して、カミラの侍女、マルギットについてまわり、学ぶことになった。
そうして邸勤めをこなすうち、セルマは嘗ての説明を理解することになる。シモンが年頃になると、婚約者候補が続々と訪れるようになったが、その誰もが蛙を見せられて卒倒したり悲鳴を上げたりしていたのだ。貴族のご令嬢というものが悉くこういったものであるならば、侍女は務まるまい。納得すると同時に不安にもなった。侍女も務まらないが、セルマの仕えるべき主人も現れないのではないかと。
セルマは主人候補達の近くに控えるようになって、それまで接点のなかったシモンを間近で観察する機会も得た。そうするうちに、セルマは気付いた。この若様、セルマのここ数年の努力を無駄にしようとしている。
蛙を愛せる女性がいいというのは本心なのだろう。卒倒した候補者に、初めは驚き、気まずそうにしていた。似たようなことが続けば次第に驚きがなくなってくるのも解る。だが次にくるのは落胆ではなく、ほっとしたような気配であるのを、セルマは察知したのだ。そもそも、令嬢達に悪いと思っているのなら、好かれたいと思っているのなら、同じことを繰り返さない筈である。
「若様には奥様を迎える気がないの?」
セルマと同じく、シモン達から少し離れて蛙の紹介を見守っているベルントに小声で問う。一時期森番見習いとして父の元にいたベルントとは面識があって、気安く話せる間柄だった。とはいえ、客に見える場所での無駄口は誉められたものではない。顔は正面を向いたまま、口の動きも最小限だ。ベルントも最小限の口の動きで答える。
「今は無理だろうな」
セルマが何故と問うと、少し間が空いた。
「重度の女嫌いなんだ。お前、知らなかったのか」
どうも、周知の事実であったようだ。
「私、侍女見習いだから」
侍女は、家に雇用され使用人頭に束ねられる炊事洗濯や掃除を担う使用人達とは違って、女主人に直接雇われる。使用人頭の指図を受けない立場なのだ。使用人達からすれば、使用人頭と同等かそれ以上の、格上ような存在である。仕えるべき主人のいないセルマは今、侍女見習いという立場でカミラに雇われている状態だ。殆どの時間をカミラの傍に控え、そうでない時は教育を受けていた。個室が与えられ食事も別で、仲良く噂話をする相手はできようもなかったのである。
従者も主人に雇われる似たような立場であるから、ベルントは直ぐに得心がいったようだった。
「奥様もマルギット様も、知っているものとして教え忘れてたんだろうな。若様がこんな行動に出るとも思っていなかったんだろう」
青い顔をしながらも悲鳴を呑み込み、珍しく粘っている令嬢の背中を見ながら、ベルントはしみじみとしている。予想外ではあったとしても、容認しているように感じて、セルマは危機感を覚えた。
「これがずっと続いたら、私、身につけたことが全部無駄になるんだけど」
「一生迎えないってことはない」
「なんでこの状態で断言できるの」
シモンは令嬢の状態に気付いていないかのような微笑みで、蛙の良さを語り続けている。穏やかに語っているが、セルマには解る。シモンは令嬢を追い返しにかかっている。
「若様には義務があるからな」
セルマに対してなのか、シモンに対してなのか、令嬢に対してなのか、ベルントからは気の毒そうな空気が漂っている。二人の視線の先で、令嬢がとうとうよろめいた。恐る恐る近付く令嬢の侍女を補佐するために、セルマは素早く足を踏み出していた。
蛙面接は恒例化した。一生迎えないこともないが、ぎりぎりまで引き伸ばすのではないか。そんな予感が現実味を帯び始めた頃、事件が起こった。シモンがこれまで以上に愛でていた姫蛙様が、人間になったのだ。シモンの愛の結果だということで、カミラは喜びマルギットは美談のように捉えていたが、セルマはただ、「若様の執念怖っ」と思っていた。
なんにしても、セルマは主人を得ることができたのである。それは大変喜ばしい。元々は人間だということであるから、元姫蛙様でも、何も問題はなかった。寧ろ、貴族女性としてどころか人間として教育が必要なヴェラの世話は、セルマにとって大層やりがいのあることとなった。教育は家庭教師やカミラが行うので、全てがセルマに任されるわけではなかったが、日常の細々としたことを訊かれるのはセルマだった。無知であった主人が淑女になってゆく一助を、確実に担っているのだ。立場上口にはできないが、「私の育てた若奥様」である。余所で出来上がった令嬢に仕えたところで、ここまでの愛着は湧かなかっただろうと、セルマは思う。
蛙生が永かった弊害は見受けられるが、セルマはそれも、嫌なことではなかった。セルマと二人きりの時は大抵無表情であるが、それは気を抜いている、即ち気を許してくれているという証である。感情の起伏が少なく表現することも苦手としているが、無表情ながらも変化のある雰囲気を読み取れるようになると、それはそれで自分だからこそという特別感があった。この特別感については、シモンと語り合えそうだと思った。実際にはそんな間柄にはなれないので、ベルント相手に自慢として冗談混じりに漏らすと、ベルントは真顔になる。
「やめといた方がいい。若様めちゃくちゃめんどくせぇぞ」
身分差ではない理由で止められた。
「どういうこと」
「お前既に嫉妬の対象に足踏み入れてんだよ。気を付けろ」
「ぇえ……」
セルマは少しばかり慄いた。だが合点もいった。シモンは暇があってもなくてもヴェラに会いに来て、それができない時には遠くからでも姿を目で追っている。そのどの場合でも必ずセルマが共にいた。侍女であるから、シモンより長くヴェラの傍に侍っているのはおかしなことではない。時折セルマ自身が視線を感じることがあるが、ヴェラを大事に思うあまり、害なすようなことをしていないか心配なのだと思っていた。もしやあの視線はと問うと、ベルントは頷いた。
「初めのうちはそれもあったと思うが、最近はそっちの警戒は薄れてる」
あれは羨む視線だったのだ。セルマの中でシモンに対する面倒指数が急上昇した。触れないでおこう。下手に触れなければシモンは無害なのだ。セルマの方針は決まった。
とはいえセルマのシモンに対する淡白さは、今に始まったことではない。何かを言いつけられる時以外に直接話すこともないから、今まで通り適切な距離を保っていれば、誰に咎められるものでもなく、ヴェラも全く気にならないようだった。
そもそもヴェラは、殆どのことが人ほど気にならない質なのだ。反応の薄さは鈍さではなく、達観からくるものだと気付いた時には、セルマはヴェラの蛙生の長さを改めて思った。育てたなどと、まるで親や姉のような立場からの視点だが、生きた年数の上ではヴェラの方が遥かに先達なのだ。畏敬の念も生まれて、セルマのヴェラに対する心情は、単純なものではなくなっていた。
ヴェラの口数はそう多い方ではない。落ち着きすぎるほどに落ち着いているので、人間生活に慣れると、全く手のかからない主人になった。セルマは物足りなく感じるかと思ったが、そうもならなかった。ヴェラは何事もないと、何時間でもじっとしている。それこそ飲食も所望せずにじっとしている。貴族女性というものは、何かにつけて集まり、よく茶会をするものだ。そこに軽食が供されることもあるので、今日は食事はもういいわ、ということもままある。だがヴェラは、そういったことがない日でもセルマが言い出すまで茶も飲まない。教育が詰め込まれていた初めのうちは、食事はその一環として組み込まれ、カミラやヤンヌとの茶会も頻繁にあったから、それに気付いたのは教育が殆ど終了してからだ。
ヴェラは空腹感というものを忘れてしまっていたのだ。そんな馬鹿なとは思うものの、ヴェラをセルマの常識で判断してはいけないことは、もう学んでいた。詳しく訊くと、生きた虫を食べる気になれず、食べずとも生は続くので、蛙になってからは一切食事をしていなかったとのことだった。それはつまり、飢餓状態が常態になり、脳がそれを正常と学習してしまったということなのではと、セルマは戦慄した。そんなことが起こり得るのかは判らないが、確実に言えるのは、この若奥様は放っておいたら餓死するということである。セルマが知り得た弊害の中で、最も危機的なものだ。これは何よりも先に知っておくべきことだったのではと、肝の冷えが顔色の悪さとなって現れた。
「でも若奥様、お茶もお忘れなのは一体……」
流石に水分くらいは摂っていた筈だとは思うが、この分だと、どんな事実が出てきてもおかしくはない。
「水分はお腹から摂るものでしたから、口から飲む習慣がなかったのです」
一体何を言っているんだと思ったのがセルマの顔に出てしまったようで、ヴェラは更に説明しようとした。
「お腹から、こう、……じわっと?」
「じわっと?」
互いに首を傾げる。セルマには全く伝わらない。
「じわっと。湿っている場所に行って、じわっとするのです」
仕組みは解らないが、兎に角そういうものらしい。少なくとも、ヴェラの属する種類の蛙はきっとそうなのだ。セルマは蛙知識を速やかに上書きし、はっとした。
「もしかして、蛙用枕で」
ヴェラは頷いた。
「補給しています」
セルマはそれならいいのだろうかと思いかけた。いいや毎晩蛙になれるわけではないのだからと、直ぐに考え直す。
「喉が渇く感覚も、判らないのですか」
ここは微に入り細を穿たねばならない。ヴェラは苦痛も訴えないから、セルマから聞き出さねば何かあるまでそのままになってしまう。いつかの脱走騒ぎのように。
ヴェラは黙り込んだ。答えたくないのではなく、考え込んでいるのだと判断すると、セルマは粘り強く待つ。
「これがそうかもしれないと思う時はあります」
暫くして出てきた答えは、心もとないものだった。
「そういう時には迷わずお茶を所望してください」
セルマは力強く言い聞かせた。先ずは身体が必要としているのだと、脳に覚え込ませるところからだ。
それからセルマは、朝には必ず枕の使用状況を問い、水分管理をした。食事はヴェラの適量を探りながら、その日の予定に合わせて調整を行う。素直に喜べる類のものではないが、この若奥様はまだまだ手がかかる。一番大事な人間教育は、まだ始まったばかりだ。




