32. 今はまだ、このままで
マルクルンド侯領の調査は中止にはしなかった。クロンヘイム伯の対処でアーベルが抜けざるを得なかったが、元々アーベルは各領主との交渉や調整が主な役目で、研究者が現地へ入れば仕事を終えているに等しい。シモンの復調は早く、予定よりは遅れたものの、研究者達と調査に赴いた。人里への配慮を交渉できるほど魔女と仲良くはなれなかったが、呪いではないというマルクルンド侯の望む結果は持ち帰った。マルクルンド侯は河川氾濫の対処に追われていたが、不信感を拭うことができると、幾らか憂いの晴れた顔でシモン達を見送った。
「魔女が訪れる理由は判らないのですね」
エメリも喜んではいたが、原因を除けたわけではないから、苦難は続く。随分とお世話になった、今後も付き合いが続く家だ。ヴェラは案じる気持ちで、馬車の窓からマルクルンド侯領の景色を眺めた。件の河川からは遠い場所であるから、道は乾いており、慌ただしい気配もなく、すれ違う馬車も落ち着いたものだ。
「うん。僕は気に入られているといっても、ああいう気に入られ方だからね」
魔女は揶揄いに来るだけで、協力的なわけではない。シモンが相手をしたところで、単純に尋ねれば答えがもらえるといった関係性を築ける兆しはなかった。これまで通り、ささやかな手がかりを集め、繋ぎ合わせて推測し、仮説を立てて、検証し、確信に変えていくしかないのだ。魔女の解明は恐ろしく時間がかかりそうだった。シモンはそれきり、口を閉ざしてしまった。思索することがあるのだろうと、ヴェラも沈黙に倣う。
建物の並び立つ街中を過ぎ、森を貫く道に差し掛かると、シモンは静かに口を開いた。
「ヴェラ、君は解呪を望む?」
一度されたことのある問いだった。ヴェラは一つ瞬いて、緑を楽しんでいた目をシモンに向ける。
「ああいや、こうやって先に訊くのは狡いな」
シモンはヴェラの口が動く前に遮り、腕を組んで俯いた。目を閉じる力の強さで眉間に皺ができる。そこに煩悶を見つけて、ヴェラは押し黙った。やがて目を開けたシモンは大人しく待っているヴェラを見て、腕を解き眉を下げる。
「ごめんね、ヴェラ。僕は解呪方法を魔女から聞き出したことを、暫く黙っていた」
シモンは詰られるとでも思っているかのように、悲愴感を漂わせている。ここ最近、不安そうな様子で言いあぐねていた内容だと察して、ヴェラは寧ろ、疑問が解けてすっきりした気持ちになる。
「シモン様は、解いてほしくないのですか」
ヴェラは純粋に、シモンの気持ちが知りたくて問うた。
「僕も、わからないんだ」
シモンは困ったような顔をして、俯く。
「蛙の君を失うのは惜しいよ。いなくなったら、間違いなく寂しい。でも君は、不死にはうんざりしているだろう。いや、今の状態で不死なのかは確認できていないよ? だけど君が望むのなら、解呪した方が良いに決まっている。君の人生なんだ。君が生きやすいのが一番良い。それに」
シモンは言い淀んで、吐息した。
「僕は死ぬ前には必ず君を人間にすると決めているけれど、必ずそうできるかは、判らないからね」
ヴェラは深く頷く。
「その時にまだ私を愛しているかは、わかりませんものね」
「違うよ!?」
シモンは首が千切れそうな勢いで顔を起こした。
「冗談です」
「えっ、ここで?」
ヴェラの表情はいつも通り、一貫して動いていない。初めてともいえるヴェラの冗談に、シモンは戸惑い動揺する。ヴェラとしては、半分冗談で半分本気だ。通常ならばあり得ることであるし、シモンならばあり得ないことなのだろうかと思いもする。だがシモンが今言っているのはそういうことではないのだと、ヴェラは理解していた。ヴェラを人間にする機会を得られないまま、シモンが死ぬことを想定しているのだ。
シモンは物腰が柔らかく、普段の佇まいは人畜無害に見えるが、内心には強者の傲りがあって、他者によって命が脅かされることはないと思っている。少なくとも、同じ人間相手には。それが思いがけない形で危機に陥り、いつ何が起こるか判らないと、痛感したのだ。
「お嫌なら、仰らなくてもいいですよ」
蛙だからシモンの助けになれた。あの時人間であったなら、研究邸に潜り込むこともできず、役にも立たない心配をしていただけだっただろう。それに蛙の姿を失ったら、シモンの想いが半減してしまうかもしれない。それを恐れる心が、育ってしまっている。
シモンは息を詰めた。
「本気で言っているの?」
ヴェラは無理をしているわけではないと示すように、目を逸らさない。
「私はこのままでも構わないと思っています。もしシモン様が先に亡くなって、その後にまた、蛙生だけが続くのだとしても。私はまた、そういうものとして受け入れてゆくのだと思います」
その時には幸せだった思い出を大事に抱えて生きてゆくのか、また忘却を選ぶのかは判らない。もしかしたら、今度こそ錯乱したまま正気に戻れず、狂ったまま生き続けるのかもしれない。何を選んでも選ばなくても、選べなくても。生が続くのなら、なるようになるだけなのだ。ただ今度は、自分で選んだ結果だ。またヴェラの中の何かが死んでゆくのだとしても、少なくとも、納得の上で受け入れられるだろうと、ヴェラは思う。
「今私は、何も不自由には感じていないのです」
「そ……うかとは、いかないよ。駄目だ。矢張り知っておくべきだ」
納得しかけたシモンは、振り切るように首を振った。
「魔女は君の思い出したくないことを思い出せれば、呪いは解けると言っていた」
決心が鈍るといけないとでもいうように、間を置かずに音にする。
「それは」
「……うん。多分。君が忘れてしまった人生のことなんだろうと思う」
息を呑み、言葉を続けられなくなったヴェラの手を、シモンはそっと握った。
「もし解呪したくなったら、その時は、……ゆっくり、焦らずやろう。僕も手伝うよ」
シモンの案じる目には、複雑な心境もまた、内包しているように見えた。
「そうして苦労の末に解呪がなったら、シモン様はいずれ、寂しさのあまり他の蛙を迎え」
「ヴェラは僕の気持ちを甘く見過ぎじゃないかな!? え、何、まさかこれも冗談? 冗談だよね!?」
ヴェラは黙した。動かないその表情から正解を導き出すことができず、シモンは狼狽える。
「ど、どっちなの……いや、うん、それは、まあ、蛙の鑑賞はやめられないと思うよ。でも妻にしたいとか、そんな気持ちになるようなものじゃない。ヴェラに対するような想いは、他の蛙になんて抱けるわけがない。浮気とかじゃ……ん? そうか、浮気の心配をしているの?」
期待に満ちた眼差しをヴェラに向けるまで、そう時間は掛からなかった。慌ただしいシモンの様子を眺めるにつけ、強張りかけていたヴェラの心は解されてゆく。
「蛙の姿を失うのは、私も怖いのですよ」
人生を思い出すことへの恐れは強い。この先も永遠に死ねないかもしれない、まだ来ぬ恐れよりも、もしかしたら。今はだから、このままシモンの傍に在ることを望む。
シモンは複数の意味が絡まり合った言葉を読み解こうとするように、真摯な佇まいを取り戻してヴェラの瞳を覗き込んだ。
「何を選んでも、僕は君の傍にいるからね」
おかしいことを言っている時も、そうでない時も、シモンは一貫している。ヴェラは微笑み、自らシモンの肩に身を寄せた。多少おかしな人間でも、おかしかったからこそ、ヴェラにはこの安息がある。ヴェラの肩を抱くシモンの手は、矢張り。蛙を扱う時と同じような、潰さないけれど逃さない、絶妙な力加減だった。




