30. 待てなかった
小瓶を持って戻ってきたロニヤは、ラルフを部屋の外に出し、自らは分厚い布で口と鼻を覆って、小瓶の液体を蝋燭の火にかけようとした。ベルントが既で蝋燭の芯を握って火を消した為に何も起こりはしなかったが、前後の言動から何をしようとしていたのか見当はつく。
「ロニヤ嬢。害のないことなら協力するよ。妙な薬を使うのはやめてくれないか」
シモンはやむなく、意識のある状態での触診を受け入れた。
ロニヤはラルフを部屋に戻すと再び退室し、大きな鞄を持って舞い戻ってきた。ベルントが直ぐ傍らで一挙手一投足に目を光らせる中、寝台に椅子を寄せて腰掛ける。鞄の中身を問うと、医療道具だという。シモンは居心地が悪いように身じろぎをしたが、ロニヤは気にすることもなくシモンの手を取った。
「随分速いんですのね」
手首を軽く握って暫くの後、ロニヤが呟いた。目線は片手の懐中時計だ。
「君が触れているからだ。僕には喜ばしいことじゃない」
いくら覚悟を決めたところで、身体は正直な反応をする。
「それは困りますわね。正確なデータが取れませんわ。まあ鳥肌」
ロニヤはシモンの手首に目を移すと、目を丸くした。
「仕方がないですね。お前、脈を取りなさい。やり方はわかるわね?」
手がベルントに渡り、シモンはほっと息を吐く。徐々に落ち着き、正常に刻まれる脈が測り終わると、ロニヤは直ぐに寝台に乗り上げた。シモンのシャツの前をはだけて、聴診器を当てる。それを終えると胸から下腹部まで触診が始まる。シモンは払い除けたい衝動を、拳を握り耐えた。
「全く普通の人間と変わりありませんわね。当然かしら。この程度のことで判るようなら、とうの昔に判明しているはずですものね。……開いてもよろしいですか?」
ロニヤは鞄の中から、小瓶や綿等の道具を取り出し始める。鞄の中には刃物も見えて、ベルントは身体を緊張させ、シモンは頬が引き攣りそうになるのを堪えた。
「それは断る。害のないことならと言っただろう」
「死にはいたしませんもの、大丈夫ですわ。全開するのではなく、少しずつ、例えば胸部を少しだけ開けて、閉じ、治った頃合いを見計らって次は少し下の部分、といったように調べてゆけばいいのですわ」
ロニヤのなんてことないような口調に、シモンはぞっとする。ロニヤはおそらく、人体を開いたことがあるのだ。
鞄の中の刃物にロニヤの手が触れると、ここまでだと言いたげにベルントがシモンに目配せをする。シモンは目で頷いた。次の瞬間、察知したラルフが動く前に、ベルントはロニヤを捕らえていた。
「動けば首をへし折るぞ」
ベルントは一言でラルフの動きを封じる。喉を圧迫されたロニヤは声も出せない。
「貴様! ただでは済まんぞ!」
「ただでは済まされないことをしたのは貴方のお嬢様ですよ」
ベルントの冷静な切り返しに、ラルフは怯んだように言葉に詰まる。
「君は少しは話がわかるのかな」
シモンは上体を起こし、シャツの釦を留めながらラルフの様子を眺めた。ラルフは剣の柄を握ったまま、口を真一文字に結んだ。ベルントの手を引っ掻き、苦しげに口を開閉しているロニヤとシモンの間に視線を彷徨わせる様には、葛藤が見て取れる。ベルントが後ろ手に差し出した鍵を受け取って、シモンは手足の枷を外した。鉄の重みがないだけで、随分と気持ちが楽になる。シモンはゆっくりと寝台から下りると、伸びをし、身体をほぐした。身体はまだ重怠いが、通常の動作には支障がない。ラルフへと手を伸ばした。
「武器を渡してくれるかな」
「鍵を……どうやって」
驚いているラルフに、シモンの頬が緩んだ。
「あ、聞いてくれる? 僕の奥さんが、僕が帰るのを待てなかったらしくてね」
「若様」
すかさずベルントが窘め、シモンは表情を引き締める。
「君も、ロニヤ嬢の首に痕が残るのは忍びないだろう。剣帯ごともらおうかな」
「……旦那様が、黙ってはいませんよ」
ラルフは苦し紛れのように言葉を絞り出し、外した剣帯を渡した。
「そう。では徹底的に叩き潰すことになるね」
シモンは歯牙にもかけない平坦さで受けて、ラルフの身体検査をする。短剣を二本取り上げると、シモンを繋いでいた手枷にラルフの片手を繋いだ。ベルントはラルフの剣帯を装着する。解放されたロニヤは酸欠で意識が朦朧としており、話をするには暫し待つ必要があった。
「ではロニヤ嬢、厩まで案内してくれるかな。安全にね」
ロニヤは状況が呑み込めていない顔をしていた。
「協力してくれると言ったではないですか」
抗議はするものの、声は弱々しい。首を絞められたことだけは理解していて、ベルントを怯えた目で見ている。
「害のないことなら、とも言ったよ。君はやり過ぎだ」
「そんな、だって、本当に大発見ですのよ。これまで通説しかない、解明されてこなかったことを、詳らかにできるかもしれないのです」
「……魔操者に対する、どんな仮説を思いついたのか訊いてもいいかな」
シモンは吐息混じりに説明を促した。自分自身のことでもある。興味がないわけではない。
「シモン様は今、魔力を生成していないとのことですが、魔器に魔力が貯まらないのですから、事実とみてよいでしょう。にも拘らず、これだけ長時間起きていられるほど体力は回復している。ということは、魔力生成にのみ、異常を来しているということです。魔力を作り出す独立した器官があるのではないかと思ったのですわ。通常の臓器に異常は見られないのですから、この説は十分有り得ます。その器官が見つかれば……ああいいえ、この先は仮説が証明されてからでないと」
ロニヤは始め、おそるおそるといった様子であったが、話しているうちに興が乗ったように勢いを取り戻していた。
「僕は少し、嘘をついた。魔力は生成できているんだ」
「え」
ぽかんとしたロニヤに、シモンは微笑んで見せる。
「さあ行こうか」
「あら? でもそうだったとしても、仮説の否定にはならないわ」
ロニヤは困った顔をするものの、自身の考えに囚われたままだ。埒が明かないとベルントが一歩踏み出すと、ロニヤはひゅっと息を呑んだ。
「わかりました、わかりましたから! この者を私に近付けないでくださいまし!」




