3. 新人類誕生の予感
ヴェラには学ばなければならないことが山程ある。養子先のルンドバリ家や嫁ぎ先である此処、トールボリ家とその所領の事は勿論、王侯貴族の名前、婚姻関係、力関係、王国の基本的な歴史。貴族ならば知っていて当たり前の教養である、古典文学や芸術。現在の流行り。それらを踏まえた上での淑女らしい会話や立ち居振る舞い。家庭教師に教わりながら、習ったことを馴染ませるように義母や書類上の養母との茶会が日課になっている。
「お作法には大分慣れてきたわね」
歩き方、挨拶の仕方、引かれた椅子への座り方、ティーカップの持ち方。習った通りになぞるだけの、お手本を思わせる無機質さから脱し、生きた人間の動きに近づいたと、義母カミラは微笑んだ。カミラは凛とした、見る者に緊張感を抱かせる美女だが、微笑みの使い分けを心得ていて、こういった時には空気が柔らかくなる。
「夜会はまだ難しいけれど、そろそろ観劇あたりから慣らしていった方が良いんじゃない? ヴェラはその、人間社会、に? 慣れていないのでしょう?」
言い慣れない言葉を言い難そうに口にして窺う養母ヤンヌに、ヴェラは頷いた。ヤンヌは少しふっくらとしていて、おっとりとした空気感が親しみやすい。
「何分昔のことなので、人間だった頃のことはあまり覚えておりません」
「どのくらい前のことかも判らないの?」
「はい。平民の生まれなものですから、貴族の歴史や流行を見ても時の流れがさっぱり判らなくて」
ヴェラは当時のことは殆ど忘れてしまっていて、片田舎で生活していたことをうっすらと覚えている程度だ。小さな村では日々の生活には必要のないことだったので、国王の名前すら知らなかったのではないか。領主の名前も覚えておらず、何一つ手がかりがないのだ。
「まあそうなの」
ヤンヌは気の毒そうに黙った。ヴェラは判明したところで何が変わるわけでもない事柄に対して、一切の興味はないが、沈痛な空気になるとつられて少し憂鬱になる。人間としての全てを失った時の絶望は、遥か昔のこととはいえ、綺麗さっぱり忘れたわけでもないのだ。不幸な目に遭ったと改めて他人から示されると、当時の気持ちに戻ってしまいそうになる。
「シモンが魔女を探すだなんて無茶なことを言っているけれど、もし会えたらその辺りのことも訊けるといいわね」
カミラも失われた時間を貴重なものだと思っているようだが、そんなことより他に訊かねばならないことがあるのではないかと、ヴェラは思う。だから問うた。
「…お義母様は、本当に私の子供で良いのですか」
カミラのティーカップを口に運ぶ手が止まる。
「………蛙が産まれたらどうしましょう」
「ですよね」
ヴェラは頷く。
蛙化から逃れられていないのだから、ないとは言いきれないのだ。ヴェラを見つけた当初は舞い上がって結婚まで突き進んでしまったカミラも、落ち着いてくると様々なことに目を向けるようになり、不安になってきたらしい。呪いの影響がどのようなものかが判らない以上、懸念は尽きない。
「ま、まあまあまあまあ! そう深刻になることもありませんわ! こんな悩み誰にでもできるものではありませんもの。これを乗り越えられたら、どんな難問にも動じず対処できるようになりますわよ」
ヤンヌはとても前向きな人だと、ヴェラは思う。惜しむらくは、無理矢理すぎて中身がないところだ。これが貴族流敵を作らない応対術だろうかと、ヴェラは学びの眼差しである。
蛙が産まれるようなら離縁、若しくは愛人を持つ道も貴族にはある。この目の前の貴婦人達はお家大事であるから、今ヴェラを大事に淑女に育てているのと同じように、それらを遂行するのだろう。案ずるより産むが易しとは言うが、結果が出る前に知ることができるなら、それに越したことはない。
ヴェラは茶会を終えた足でシモンの部屋に向かった。仕事中であろうとも、シモンは喜んでヴェラを迎え入れる。
「そういうわけですから、魔女を見つけることができましたら聞き出して欲しいのです」
執務机の前に立ったヴェラがお願いすると、シモンは視線を逸らした。
「いずれ判ることなのだから、訊く必要はないんじゃないかな」
「私は特技が蛙しかありません」
「んん特技かな?」
「対シモン様用の潰しの効かない女です」
「…どこでそんな言い回し覚えたの?」
「ルンドバリ家も、再婚先を用意するのは苦労するのではないでしょうか。そうすると私は自分で生計」
「離縁しないから!?」
ヴェラは困惑した。貴族社会を学べば学ぶ程、シモンの一存だけで決まることではないような気がしている。
「卵を産んでからでは遅いのですが」
「産んでもいいじゃないか。蛙は変態する生き物だよ。もう一段階変態して、いつか人間になるかもしれないだろう」
シモンは真摯に諭した。蛙を愛でながら人間になる日を待つ日々も、悪くないだろうと思っている。勿論蛙のままでもいい。
沈黙が流れヴェラは青ざめた。変態しきれず、頭だけ蛙、足だけ蛙、目だけ舌だけ蛙、はたまたおたまじゃくしの尻尾が残った人間など、新人類の各種形態が脳内に形成されてしまったのだ。おたまじゃくしの形態のまま、頭だけ人間になるかもしれない。
「その発想はありませんでした。今夜から自室で寝ます」
ヴェラはそっと距離をとる。シモンは目を剥いて椅子から立ち上がった。
「何故!?」
「生きにくいと判っている子を産むわけにはいきません」
人間の頭蓋骨を持ったおたまじゃくしに至っては、陸でも水中でも生活していける気がしない。社会に受け入れられるか否か以前に、生命維持という深刻な問題が発生する。
「人間になるまで全力で守るよ!? ならなくても守るけど!」
ヴェラは無言で後ずさる。頭が上下しない滑らかさは人間、否、淑女教育の賜物。シモンの手から逃れるように扉の向こうに滑り出て、閉まる寸前の隙間から狼狽えるシモンを見つめる。
木の葉に隠れてそっと此方を覗き見る蛙の趣をそこに見出して、シモンはときめいた。
「ヴェラ……可愛い」
シモンが愛おしげに見つめると、ヴェラの瞳が揺れた。シモンが蛙にはない揺らぎだと観賞している間に、扉はぴたりと閉じられる。シモンははっとした。つい先程、愛しの妻から同衾を拒まれた事を思い出した。
「ヴェラァ!?」
遅れてヴェラを追うシモンを、三歩下がって成り行きを見守っていたベルントが、可哀想なものを見る目で見ていた。