28. 命に別状はありません
ベルントは鍵に洗面用の水をかけて洗っていた。少し粘ついていたのだ。昔シモンに教えられたことを思い出して、胃液か何かだろうと見当をつけた。蛙は自ら胃を吐き出せる生き物なのだ。ベルントにはどうでもいい情報だったので、思い出すのが遅れた。思い出したところで、淑女の嘔吐場面を見てしまった気まずさは残ったままである。中々に衝撃的な絵面でもあった。そして更に気まずいことに、一糸纏わぬヴェラが同じ部屋の中にいる。天蓋を閉じているとはいえ、離れていたほうがいいだろうと、水気をとった鍵を懐に仕舞い椅子を持って扉脇に移動した。アーベル達の動向を訊きたかったが、今はシモンの心が優先だ。夫婦の会話を盗み聞きするのも野暮だろうと、なるべく扉の外の気配に意識を向けた。
「シモン様、申し訳ありません。お疲れのところ、余計に疲れさせてしまいました」
ヴェラは落涙するシモンに飛びついて、自ら人間の姿をとっていた。
「いいんだ。早とちりしてごめんね。嫌いな人間の元になんて、危険を冒してまで来るわけがないのに。ちょっと情緒不安定になっているんだ」
シモンの情緒は度々不安定になるものだが、流しても問題ない今までのそれとは種類が違うことは、ヴェラにも解った。ロニヤに何か嫌なことをされたのだと想像はつく。そんな状態でも、寒いだろうとヴェラに毛布を差し出す優しさは失っていない。憔悴しているシモンをどう慰めたらいいのか、ヴェラには解らなかった。何せ咄嗟とはいえ、ヴェラは人間になってしまった。話をするには都合がいいが、今のシモンに人間の女性は酷なのではないかと思ったのだ。
せめて寝台からは下りようと、毛布を身体に巻きつけて下がると、ヴェラを迎えるようにシモンの腕が伸びてきた。だがそれは鎖が棒状に伸びきって中途半端に止まり、ヴェラを捕らえるには足りない。
「これ以上伸ばせないんだ。僕を抱きしめてくれる?」
「よろしいのですか」
「どういう意味?」
「私は今、人間ですが」
「関係ない。だってヴェラだ」
先程燭台の灯りで判る範囲で見たシモンの顔色は、良いとは言えなかった。きっと今も、改善はしていない。ただそれは、ヴェラに対するものではない様子である。ならばと、ヴェラはおずおずとシモンの胸に身を寄せる。密着すれば、シモンの腕はなんとかヴェラを閉じ込めることができた。シモンはヴェラの首筋に顔を埋めて、胸の奥に凝っているものを吐き出すように深い息を吐き出した。
「嗚呼。ヴェラだ。ヴェラの匂いがする。僕はヴェラがいい。ヴェラじゃなきゃ嫌だ」
シモンは震えていた。
「気持ちが悪いんだ。皆寄って集って僕の身体を支配しようとする。皆、僕を種馬としか思っていない」
ヴェラはシモンの女嫌いの原因自体は知っている。シモンは自分では口にはしたくないが、知っておくべきだとカミラを経由して教えたのだ。口にするのも嫌なことが溢れ出てくるほど、シモンは弱っている。ヴェラはそっとシモンの背を撫でた。
「シモン様。私、鍵を持ってきたんです。それが合えば、枷を外せるかもしれません」
「本当? ……本来なら、危ないことをした君を咎めなければならないのに。どうしようね。凄く嬉しい。嬉しいヴェラ。言い表しようもないほど、君を愛している」
シモンは静かに泣いた。
やがて落ちるように眠ったシモンを、ヴェラはベルントの手を借りて寝台に横たえる。ヴェラの入手した鍵は枷の鍵穴に合致し、解錠できた。ヴェラは安堵し、ベルントは然るべき時に使うと、再び施錠して鍵を懐に仕舞う。
「アーベル様は、もう勝手に訪問してしまっていいね、と仰っていました」
またシモンが目を覚ますまで、待ってはいられない。ヴェラはベルントを相手に話し出す。振り向くと、ベルントは閉じられた天蓋の外に出ていた。シモンの眠りを邪魔しないようにということかと、ヴェラも後に続く。
「若奥様は中にいてください」
天蓋から一歩踏み出した途端、制止の声がかかった。
「服をお召しになっていないでしょう。若奥様は気にしなくても若様が気にするのでお願いします」
服は着ていないが毛布は着ている。胸元と肩は夜会のドレスでも露出する範囲だ。足は爪先まで隠れているから、セルマにだってはしたないと言われることもないだろう。ヴェラはちっとも気にならない。だが貴族という生き物は時と場合で着るものが決まっていて、面倒だったことを思い出した。ここ数日、そういう意味では実にのびのびとできたので、すっかり忘れていた。ヴェラは大人しく内側に戻り、そっと寝台に腰を下ろした。
「それで、閣下自らおいでになると?」
頃合いを見計らって、ベルントが話を促す。
「はい。先触れはせず不意打ちをすると」
「閣下がせずともクロンヘイム伯から知らせが来るでしょう」
「マルクルンド侯領に帰る途中で気が変わるそうです」
「それは……後がまずいのでは」
格上であろうとも、他領での好き勝手が許されるわけではない。ましてこの研究邸で行われていることは、基本的に秘匿されている。どんな些細なことでも大きくし、抗議の材料とするだろうことは想像に易い。
「監禁発覚で小事になると」
「……なんとかするんですね。では、閣下の護衛を貸してくださるということでいいですか」
「それは最終手段です。説得できるならそれに越したことはないと仰っておられました。鍵は説得できなかった時の為にとのことです」
強引に踏み込むことになれば、罪に問わないわけにはいかなくなる。魔器に改良を加えることができる人間は貴重だ。レードルンド家の研究も、それを扱うことができるロニヤも失うには惜しい。シモンも賛同するだろうとのことだった。
「それはそうかもしれませんが」
シモンもレードルンド家の魔器への参画は歓迎していた。だからこそ協力にも訪れたのだから、訊けば頷くことも予測はできる。不快を押してロニヤとの会話を試みたのも、できるだけ穏便に運びたかったのだ。とはいえシモンにとって、この状況が長引くのは決していいことではないのだから、ベルントは準備が整うなら一刻も早くこの部屋から出したかった。然りとてシモンの意を無視するわけにもいかない。決定権はベルントにはないのだ。
「わかりました。お伝えしておきます」
ベルントは息を吐いた。
ロニヤにとっての最高権力者は彼女の父であり、研究邸がロニヤの世界の全てで、世間知らずであること、おそらく魔法伯やシモンの社会的地位を正確には理解していないだろうことなど、知り得たロニヤの情報をヴェラに持たせる。
「若様はあれで体力的には復調しつつありますが、次に起きた時の状態の見当はつきません。一応戦力外とお考えください」
一通りの伝達事項を交換し終えると、ヴェラは自ら蛙に身を変じ、ベルントの腕で換気口へと送られた。




