27. 持てるものは余すところなく使うべし
地下への階段を見張る時間は、相変わらず退屈だ。グスタフが何かしらやばい従者が上ってくるのではと気を張っていたのは始めのうちだけで、何事もなく時が過ぎれば警戒心も薄れてくる。何度となく繰り返した交代で鍵を投げ渡すのも慣れてくると、受け渡す先を見るのは鍵が手から離れるまでだ。その日も直ぐに進行方向の椅子へと目線が流れたが、視界の端に飛び込んできた小さな影に、視線を引き戻された。
「なっ、はっ? か、蛙?」
鍵が放物線を描く前に、蛙が跳んできたのだ。受け取る筈だった同僚が、手を差し出したまま唖然としている。鍵はぱっくりと蛙に呑み込まれていた。蛙は止まらず跳ね、壁をよじ登り、開け放たれた窓から外へと出ようとしていた。
「まっ、あっ!? 待て待て待て待て待て!?」
いち早く思考を取り戻したグスタフは、慌てて後を追った。窓枠を足場に大跳躍をした蛙に、身を乗り出して手を伸ばす。グスタフの手は空を切った。音もなく舞い降りた白い影が、蛙を横取りしていったのだ。地面に降り立ったのは、梟だった。その白い姿は月明かりに照らされて、薄暗い中でもぼんやりと浮かび上がって見える。
「じゃっ、弱、肉、強食……?」
白梟は唖然としているグスタフを一瞥すると、蛙を掴んだまま離陸した。
「待て、駄目だ! その蛙食うなぁああああ!」
グスタフは窓から飛び出し全力で追ったが、翼を持つ者を捕まえることは叶わなかった。
「悠長にしていられなくなりましたね」
次にシモンが目を覚ました時、ベルントが開口一番に言った。起きて早々、嫌なことを思い出してシモンはまた目を閉じた。元気になったと判断されたらあれこれ試される。いつまでベルントが盾になれるかも判らない。
「いや起きてるでしょ。目開いたのばっちり見ましたからね」
シモンは渋々瞼を持ち上げた。
「僕にアーベル様のような女性に対する対人術があればなあ」
「少年時代からやり直さないといけませんね」
女性に興味を持たなければ、手管は学べないのだ。
「……言ってみただけだよ」
想像するまでもなくシモンの心が折れた。
「それで。ご令嬢が睡眠をとっていると思しき時間帯に、地下を調べてみたんですけどね」
「君のその切り替えの早さは評価しているけれど、偶に労って欲しくなる時があるんだ。それは今だよベルント」
「容赦がないところを気に入って、取り立てて頂いた筈ですが」
シモンは沈黙した。
軽口も返せなくなった様子に、ベルントは深刻さを感じとる。未遂とはいえ、身動きできない状態で襲われたのだ。相当な恐怖だったのではないだろうか。子供の頃に刻みつけられた嫌悪感を、屈辱を、記憶と共に呼び起こされでもしたのかもしれない。本来ならばロニヤの顔を見るのも苦痛であろうところを、あれだけの会話もしている。あれで大分心がすり減ったのではないか。
改めて見たシモンの目は半分瞼が下りており、気力が感じられない。疲れたのかとも思ったが、これはおそらく違う。あの時、爪を十枚剥いででもヴェラに会わせるべきだったかと後悔するが、時は逸したのだ。ベルントがシモンを奮起させられる手段は多くはない。
「若様。若奥様がお待ちですよ。蛙のままで」
シモンは瞼を持ち上げた。動かなくなった表情筋を解すように片手で撫でる。手首の重さと鎖が擦れ合う無機質な音が現状を余すところなく伝え、シモンの心を寒くする。
「そうだ。ぼんやりしてる場合じゃない。僕は帰らないと。ヴェラが捨てられてしまう。そんなのは駄目だ」
シモンの声はか細い。
皮一枚で繋がったとベルントは思った。もう一押し何か欲しくて、ベルントは視線を彷徨わせる。シモンに癒しを与えるような何かが欲しい。具体的には蛙。この際蛙でなくてもいい。イモリでもいいかもしれない。蛙のように湿っていてしっとりしているから、いけないこともないのではないか。然しあれは水辺の生き物だ。人家に現れるのは似て非なるヤモリである。ヤモリでもひょっとしたら見間違えてイモリとしていけるかもしれない。それくらいシモンは弱っているのだからと、ベルントは壁に視線を這わせた。だからそれにも直ぐに気付けた。天井近くの壁に空いている、小さな穴。換気口かなにかだろうと目していたその穴から、のっそりと現れたそれに。
ベルントは手早く水差しの水で手を冷やし、それを掴み取った。ベルントが先に食べて空にしていた皿の上で、体に貼り付いている蜘蛛の巣を剥がしにかかる。ぬるんだ水では冷やし方が足りなかったのか、指では嫌がるそぶりを見せたので、添えられているナプキンを水に浸して優しく慎重に拭いとる。やがて身なりを整え終わったそれを前腕の布地の上に移すと、恭しくシモンへと差し出した。
「若奥様がお見えになりました」
「!?」
シモンは先程までの鈍い様子からは考えられない素早さで飛び起きようとした。だが次の瞬間には鎖が張って、寝台に逆戻りする。
「何やってんですか落ち着いてください。若奥様は逃げませんよ」
シモンは改めてゆっくりと上体を起こした。
「嘘だろうヴェラ、君、二度も危険を冒してまで僕に会いに」
涙腺が緩んだシモンの瞳には、生気が戻っていた。ベルントは安堵の息を吐く。ヴェラは戻ってくるなとの言葉をまるきり無視したわけだが、それは不問にしようと思うくらいには安堵した。然しヴェラは、おいでと伸ばしたシモンの手に背を向けた。そのまま遠ざかるようにベルントの肘まで這い、サイドテーブルの上に跳び移る。シモンは何が起きたのか解らない、といった顔で固まった。
「ちょ、若奥様、思わせぶりな態度とか今いらないです。若様心が瀕死で、そうか久しぶりで照れているんだね逃げる後ろ姿も愛らしいとかあほなことのたまう余裕もないんですよ。あっ、手も冷やしてないのに触んなよってことですかすみません今すぐ冷やしますか……ら!?」
ベルントが慌て、皿の上に落ち着いたヴェラの正面を覗き込むと、閉じているところしか見たことのない扁平な口から桃色の何かが飛び出ている。ヴェラは蛙の時食事をしない。そもそも皿は空だった。ならばこれはなんなのか。桃色の艶々した柔らかそうなそれは、内臓を彷彿とさせる。ヴェラの口から中身が出ているのだと気付いて、ベルントはざっと血の気が引いた。
「おっ、えっ、若、え」
ベルントが指で中に押し込むべきか、触れたら却って危ないのではと両手を右往左往させる中、ヴェラは桃色の何かを自分で呑み込んだ。眼球で奥に押し込むようにして呑み込んだ。そして空だった皿の上には鍵が出現していた。ベルントを見上げるヴェラの目はまん丸に戻っていて、心なしか得意げに見える。
「まさか……若奥様、これは」
「ヴェラ……僕が嫌い、に……?」
シモンの震える声がして、一人と一匹ははっと寝台を振り返る。シモンの涙腺が崩壊していた。
「若様の機嫌をとってください早急に!」
ベルントの声と同時に、ヴェラはシモン目掛けて大跳躍していた。




