24. 潜めるようで潜めていない
オリヤンはできる限り足音を忍ばせ、邸の部屋を片っ端から当たっていた。二階は鍵のかかっている部屋以外は全て空振り。使用人が使っていると思しき部屋も整頓されていて、今も使われているのか、いつまで使われていたのかを判断することもできなかった。一階もほぼ調べ終え、厨房に入る。厨房は片付けられてはいたが、ソースやスープの香り、熱された空気が残っている。干されている布巾もまだ乾いていなかった。
「黒も黒、真っ黒ですね。あの部屋に絶対居ますね。これもう人体への影響とか絶対嘘でしょ」
イクセルが教えてくれた灯りの気配のある部屋が、最後に残っている。オリヤンは厨房内をそわそわと歩き回る。もぞもぞと蠢く感触がしてポケットを見下ろすと、つぶらな瞳がじっと見上げていた。
「うっ」
オリヤンはぎこちなく目を逸らす。比較的綺麗な布巾を選んでよく洗い、水を含ませた。
「乾いてませんか。大丈夫ですか」
暫く見つめ合っていたヴェラが、のっそりとポケットから這い出し、差し出されている布巾に乗った。目はオリヤンから離れない。すっと水平に細くなった瞳孔は、気持ちが良いのか、白い目を向けているのかはオリヤンには判らなかった。
「誤魔化してませんよ、行きます。行けます。研究対象に近付くまでに人間の妨害があることってなかったですからね。ちょっと心の準備をしていただけです。それにこんだけ時間経っても俺全然元気ですから、きっと魔器に近付いても平気でしょう! 俺いける!」
オリヤンは自らを奮い立たせて布巾諸共ヴェラをポケットに入れ、厨房から足を踏み出した。
研究邸は正面玄関のある南側から見ればただの横長の建物に見えたが、両端が北に向かって飛び出た形状になっていた。目的の部屋はその突出した部分の、東側の先端に位置している。この部屋を調べる際の手順は決めてある。
「本当にいいんですね?」
オリヤンはポケットを見下ろし、小声で最終確認をする。一度目を合わせたヴェラはポケットから這い出し、オリヤンの足を伝って床に飛び降りた。ヴェラが手筈通り扉の直ぐ脇に待機するのを見て、オリヤンは唾を呑む。蛙とはいえ、ずっと共にあった重みがなくなって心細い。ここに至るまでにいくつもの扉を開けてきた。取っ手の動作に不備のあるものはなかったが、開ける際に軋む扉が二つあった。何れも明らかに使われていないと判る埃のかぶった部屋だったが、この扉が鳴らない保証はない。
オリヤンは見つかった際の言い訳を脳内で何度も繰り返した後、意を決して扉の取っ手を握る。ランタンの灯りを背に隠し、遅々とした動きで扉の隙間を開ける。扉は鳴らなかった。代わりに室内から男女数人の話し声が漏れ出てくる。ヴェラは躊躇せず中に入っていった。オリヤンはここで部屋に戻りヴェラの帰りを待つことになっていたが、留まった。イクセルの情報通り、灯りを最低限にしているらしく視界は良くないだろうが、人数がいる。ヴェラが見つからないか、踏まれないか心配なのだ。
「ちょっと、もうちょっとそっち行ってよ」
「そんな警戒しなくてもこんな状況で手なんて出さないよ。ほら、椅子間に置くから」
「流石に床に寝ることになるとは思わなかったわ」
「地下組羨ましいですね、ちゃんと寝台で寝られるんでしょう」
「いやあれ寝ずの番だから。俺途中交代で行ってくるから」
「今晩だけの我慢だ。明日の朝には出て行かせるって言ってただろう」
「研究助手とか言ってましたっけ」
「一人くらい雇えばいいのにねぇ。お嬢様ずっとお一人で大変なんだから」
「なんで追い出すんですか?」
「さあ」
「秘密だからでしょ」
少し聞こえてきただけで有用な情報が出てきた。オリヤンはもっと聞こうと粘ろうとしたが、そろそろ交代時間だから行ってくる、と中の誰かが近付く気配がしたので、慌てて逃げた。
ヴェラは部屋に入って直ぐの壁際に潜んだ。広さと人数に対して灯りが一つだけであったから、中央のテーブルの上が明るいだけで、蛙が潜む場所には困らない。人間達の会話から、シモンがこの場にいないことは直ぐに判った。地下に交代に行くと言う男が扉に向かってきたので、壁を登り近付くのを待つ。部屋を出る間際、迷わずその背に飛びついた。
「ん?」
男は振り向いた。だが背後に人はいない。
「おい誰だ、悪戯やめろよ」
「何言ってんだ?」
「よしお前だな。後で覚えてろ」
「ほんと何言ってんだ」
蛙としては小さくはないヴェラの体当たりを感じ取ったらしい男は、考え得る内で最も整合性のある結論を出して、その部屋を後にした。
男は灯りを持たず、腰に佩いた剣が音を鳴らさないように片手で押さえ、足音を忍ばせるようにして廊下を行く。西に一度、北に一度角を曲がり、突き当たりで足が止まった。施錠されていてヴェラ達が入れなかった部屋の一つだ。
「おう、グスタフだ。交代に来たぞ」
独特の節をつけてノックをすると、中から返事があった。グスタフは胸ポケットから鍵を取り出し、鍵を開けて入室する。部屋には灯りがなく、床の一部が下からぼんやりと照らされている。窓は東西に一つずつあるが、鎧戸が閉じられていて、その床からは離れた扉側に近い場所にあり、外には灯りの漏れ難い位置関係だ。目立った家具もタペストリーも絨毯もない、殺風景な部屋は寒々しい。唯一、灯りの漏れる床の傍に椅子があり、そこに座っていた男が立ち上がった。
「さっき一回こっち来たか?」
男は伸びをし、凝り固まった肩や背中をほぐすように片腕を回しながら、グスタフに歩み寄ってくる。
「いや?」
「じゃあ例の研究助手かな、取っ手だけ回ってびびったわ」
「びびったのか」
「何にやにやしてんだよ」
「幽霊とか得体の知れないもん苦手だもんなお前」
「うるせぇ。今までこんなとこまで盗みに入る人間なんていなかったんだから、そらそっちかと思うだろ」
「交代ついでに研究助手に確認してこいよ。ついでに釘刺しとけ。研究者って人種は常識ないやつ多いとかいうし」
「ああ、そうする。ったくなんだよなあ、待ちきれないのか。そういうの明るい時にしてほしいわ」
「あ、おい、待て待て、鍵」
すれ違い、部屋を出て行こうとする男をグスタフが呼び止め、トライザーズのポケットから先程とは別の鍵を取り出した。
「ああ、忘れるとこだった」
振り向いた男に向けて、扉のものより一回り小さい鍵が放られる。
「お嬢様もやばいもん使うよなあ」
男は受け取った鍵を繁々と眺めて、呆れたように言った。
「しょうがないだろ、暴れられたらお嬢様なんてぽっきりいっちまうぞ」
「あんな器具があるなんて、昔は何してたんだろうな」
「牢がある時点でお察しだ。詮索するな。古い幽霊話とか出てくるぞ」
「や、やめろ。俺は何も聞いてねぇ」
鍵を受け取った男はそそくさと部屋を出て行った。グスタフは施錠する音を確認すると、椅子には座らず灯りの漏れる床へと歩む。そこには四角く切り取られた空間があり、壁際に同じ大きさの板が立てかけられていた。グスタフは空間に足を踏み出し、壁に備え付けられた燭台で照らされた石階段を下りていく。下りきって角を曲がると、長い廊下に出た。黴臭さと嗅いだことのない独特の臭みが混ざり合っているが、ひんやりと湿った空気は、今のヴェラには心地良いものだった。木製の扉のある部屋と、鉄格子で区切られた空間が並んでおり、鉄格子の扉は開け放たれていて中には大小の木箱がある。今は物置き場と化しているようだったが、本来何の為に作られたものかは想像に易い。グスタフはそのうちの木の扉の一つの前で止まり、先程と同じ節のついたノックをした。
「なんだ」
程なくしてその扉の向こうからラルフが顔を出し、グスタフは交代時に申し送られた話を報告する。室内からは誰かが話す声が漏れ出てきた。
「こんなものでどうかしら。シモン様の様子は?」
「変わりありません」
ロニヤの声と、ベルントの声。そう認識した瞬間、ヴェラはグスタフの背を下る。背を這う感触を感じ取ったのか、グスタフが訝しげに首を捻った時には、ヴェラは室内に飛び下りていた。
「うわ、蛙!? なんだあいつ、蛙投げつけるとか子供か」
「……上で何やってた」
「や、なんか鬱憤でも溜まってたんですかね」
ヴェラはベルントの声が聞こえた方向目掛けて跳ねる。だが直ぐに大きな手が捕まえに来て、避けるために進路を変えざるを得なかった。
「ラルフ? 何をしているの」
「蛙が入り込みました。直ぐに摘み出します」
ヴェラは必死に跳ね、手を躱し続ける。人間の歩幅は大きい。反射神経だけでは逃げきれない。それでも摘み出されてなるものかと渾身の大跳躍をした先で、別の手に受け止められた。ヴェラはもがく暇もなく流れるようにその手の主の前腕に乗せられる。
「私が預かりましょう」
蛙の肌に負担をかけないその手際の持ち主は、ベルントだった。
「は?」
ラルフが意味を解しかねた呆けた顔で止まった。ベルントは背筋を伸ばし立つ。肘を曲げ、胸元でヴェラの乗った前腕を水平に保つ様は恭しく、淑女をエスコートしているかのようだ。
「セランデル伯領では、子供が言葉を覚えると同時に教えられる常識なんですけどね。蛙を虐めると血の雨が降るんですよ」
「…あの噂は本当だったの? ……次期魔法伯は花嫁に蛙愛を要求するって、お姉様がおかしなことを言っていたわ」
机の向こう側から動かずにいたロニヤが、気味が悪いように眉を顰めた。ベルントは感情を排した微笑み方をする。
「若様が眠っていて良かったですね。ここで血の雨が降ったら、換気が大変でしょう」
ロニヤもラルフも閉口した。勿論グスタフもだ。穏やかな脅し方に空恐ろしさを感じる。ただ、庇った相手が蛙なだけに、今一受け止めきれない。突然どうした、という思いは皆一緒だったが、多種多様な疑問が渦巻き、どこをどう突っ込んだらいいのか判らなかったのだ。社交もせず、人里から離れた場所で研究に明け暮れるロニヤも貴族女性としては相当な変わり者だが、別種の変人への対処など、誰も心得ていなかった。
ベルントから得体の知れない圧を感じるだけの時間は、ロニヤが終わらせた。
「ま、まあいいわよ、蛙なんてどうでも。私には近付けないでちょうだい。しっかり捕まえていなさいよ」
何にしても蛙なのだ。誰もそれ以上掘り下げようとは思わなかった。




