20. 日頃の行いが物を言う
シモンは夜遅く、疲れた様子でヴェラの元へ帰ってくる。エメリから聞いた話を告げると、シモンはばつの悪そうな顔をした。
「君に心労をかけたくなくて黙っていた。ごめんね。不安にさせた?」
不安なのはシモンの方ではないかとヴェラは思う。だがこういう時、否定するとそれはそれで微妙な顔をすることを学んでいたので、どう答えたものか思案する間ができた。するとシモンは益々不安そうな顔をする。
「シモン様が追い込まれているのではないかと、不安になりました」
「ヴェラ……!」
シモンは感極まったように瞳を潤ませた。
「大丈夫だよ。不本意だけれど、そういったことを仕掛けようとする女性の空気には敏感なんだ。事前に察知できれば、どうということはない。でもやっぱり、気疲れはするかな。だからヴェラ。僕を癒して」
シモンはヴェラの頬を両手で包み込むと、甘えるように唇を啄んだ。触れるだけの優しいそれは、ヴェラが拒まなければヴェラの質量が変わるまで続けられる。寝台の上とはいえ、小さくなったヴェラを落とさないように受け止めるのも慣れたものだ。シモンはヴェラ専用の枕の窪みにヴェラを据え置いた。
「はあ。君は今日も麗しい」
シモンは腹這いになってヴェラを鑑賞する。
「安心してヴェラ。君に会えると思えば、どんなに不快なことだって乗り切れるから」
満たされた顔で眠りにつくシモンを、ヴェラは定位置でじっと眺めていた。ヴェラでなければきっと、こうしてシモンを癒すことはできないのだろう。そう思うと、胸の奥のあたりからじんわりと温かくなるような、むず痒いような、奇妙な心地良さが染み出してくる。呪いが解けきらないのは、もしかしたら。こういった自分の心の動きも無関係ではないのではないかとさえ思う。ただ今は、産めるのは人間の子供だと判明もしている。無理に解く必要性がなければ、思い悩む事柄ではなくなっていた。四肢を体の下に仕舞い伏せると、温かな気持ちのままヴェラも眠りに落ちた。
朝になるとシモンはヴェラを人間に戻して出かけてゆく。そうしてまた夜遅くに疲れきって帰ってきた。移動距離の所為で強行軍になっているのだ。ヴェラは自分も同行するから、クロンヘイム伯領に滞在してはと提案した。
「僕しか行かないから、僕の子だけでもって態度で済んでいるんだよ。君が行ったら何をされるか判らない。遅れをとるつもりはないけれど、そんなところに君を連れて行くと思う?」
シモンは穏やかに諭し、頑として頷かなかった。
翌朝、ヴェラが諦めきれずに黙ってシモンの後について行こうとすると、素早く蛙の刑に処された。
「今度ばかりは僕も折れないよ。明確に仕掛けてくると判っている分、魔女よりも危ないからね。──セルマ、ヴェラは今日は具合が悪いから部屋に籠もる。何か理由をつけて侯爵夫人の見舞いも断るんだよ」
シモンは指示を終えると、クロンヘイム伯領へと出かけて行った。
だがその日は夜が更けてもシモンは帰らず、翌朝になって手紙が届いた。魔器が暴走して手が離せないので、暫く帰れないとのことだと、エメリからセルマに、セルマからヴェラに伝えられた。ヴェラは胸騒ぎを覚える。
「おかしいですね。若奥様に手紙がないなんて」
セルマの言葉に、ヴェラは頭を上下させる。
「そうですよね。あの若奥様狂いがこんな手抜きをするはずがありませんもの。まして蛙のまま若奥様を放置だなんて……天変地異の前触れでしょうか」
ヴェラは不動だ。
「魔器の暴走以外の何かがあったと思います?」
ヴェラは頷いた。
「何があったと思いますか」
一拍の間を置いて、ヴェラは扁平な口を前脚で押さえる。セルマは早々に限界を悟った。はい、いいえで済む案件ではない。
「若奥様。イクセルさん式で会話を試みてもよろしいでしょうか」
ヴェラが頷き、セルマは文字を記した紙を用意した。
口頭によるより遥かに時間をかけて話し合った結果、ヴェラはこのまま仮病を続行し、エメリに頼んで使いを出してもらうことにした。使いは日暮れ過ぎに、もう暫くかかるという伝言だけを持って帰ってきた。部外者に魔器に関わる詳細を教えるわけにはいかないとのことだったが、ヴェラ達が知りたいのはそういうことではない。共にいる筈のベルントにも会えなかったというのだから、不信感が募る。
セルマを使いにやってシモンの状況を問いたかったが、そんなことをすればヴェラの世話をするために邸の者が客室に入ることになる。控えめに見積もってヴェラ失踪事件が起こるだろう。蛙を告白すれば避けられるが、そう簡単にして良い告白ではない。
「こういう時こそ、イクセルさんがいたらいいんですけどね」
弱ったようにセルマが吐息した。
現場と領主邸に別れるときは、毎日のようにイクセルがヴェラの元にシモンの手紙を届け、ヴェラは返信することでシモンの安寧を守っていた。ヴェラ達はシモンの用事があったからアーベル達より先にマルクルンド侯領入りしているに過ぎないので、待っていればイクセルに託せる。勿論その前にシモンが帰れば解決するのだが、そうはならなかった。
三日も籠もれば心配したエメリから医師の診察を勧められ、断るにも苦しくなってくる。追い詰められかけていたセルマは、アーベル一行の到着に歓喜した。本来ならば長旅の疲れを慮って時間を空けるべきだが、アーベルが用意された客室に通されるや否や、セルマは布で覆った蛙用枕を持って訪れた。
「無礼は重々承知しております。ですが緊急事態が発生しました。何卒お目通りを」
長椅子に落ち着いたばかりのアーベルは、面食らいながらもセルマを迎え入れるようモルテンに指示を出す。扉を開くなり、まずモルテンはセルマの持つ布に不審の目を向けた。そこで躓いていられないので、セルマは布の中を確認してもらうと、モルテンは一瞬固まり、「まさか」と呟いた。その通りだと頷くセルマを確認したモルテンは、そっと布を戻して室内に迎え入れた。
「何があったんだい」
「若様が若奥様を残して三日も帰ってきていません」
セルマの不作法は一度だけだ。それ以上のことをして話を聞いてもらえなくなるわけにはいかない。入室して直ぐの、使用人として適切な距離を保った場所で、これまでの経緯と不審な点を簡潔に述べた。アーベルは思案顔になる。
「なるほど。それはおかしいね。ベルントを使いに出すなりできそうなものだが──侯爵夫妻も心配していたよ、君の若奥様は大丈夫かい? ただでさえ臥せっていて心細いだろうに。見舞いは控えた方が良いんだろうが……何かできることはあるかな」
「仮病です」
「うん?」
「侯爵家の方々は呪いを知らないので」
「……まさか。シモン君は呪いを発動したまま帰らなくなったのかい? なんだってそんなことに」
それこそ有り得ないとばかりにアーベルは目を瞠く。
「だからおかしいんです。若様なら魔器など放ってでもその日のうちに帰って来たに違いないんです。兎に角そういうことですから、医師を勧められては誤魔化しもきかないので、困っています。閣下はいつもの方々と一緒ですか? 医師の免許を持った方がおられたように記憶しておりますが」
「ああ、うん。ハンネスだね。そこは口裏を合わせようか」
アーベルはモルテンにハンネスを呼びに行かせ、緩んでいたタイを締め直して長椅子から立ち上がった。窓を開けてイクセルを呼び、セルマを振り返る。
「それで、夫人は今どこに?」
「此方です」
セルマは両手で大事に持っていた枕を、恭しく掲げて示した。アーベルの動きが止まる。
「それは?」
「若奥様です」
「……捲ればいいのかな?」
「どうぞ」
アーベルは戸惑いながらも扉脇に控えるセルマに歩み寄り、枕を覆い隠す布をそっと捲った。扁平な口とまん丸な目をした小さな生き物と対面する。全体的にしっとりとしていて、一目で乾燥は不得手と判る。
「え、本当に?」
「若奥様です」
蛙は挨拶をするように前肢を一本持ち上げた。シモンを悩殺するこの仕草は、アーベルには通用しない。表情が固まっている。
「その。聞いてはいたが、思ったより頭に入ってこないものだな。女性が蛙というのは」
蛙からは魔女の気配が感じられるから疑っているわけではないのだが、アーベルは自身の知るヴェラの面影を探すように、枕の窪みに収まっている蛙を見つめる。それはイクセルが窓辺に現れハンネスを連れたモルテンが戻るまで続き、ヴェラは焦れて枕から飛び出した。
「あっ、若奥様! どちらへ」
セルマが慌てる声にも止まらず、ヴェラは床を跳ねていた。アーベルの周りをぐるりと一周するように、ヴェラ史上例に見ないほど猛烈な勢いで跳ねた。
「うわ何、どうしたの! 何の儀式!?」
アーベルはぎょっとするも周回されては一歩も動けない。
「おそらくご立腹です。今は一刻を争いますから、とっとと話を進めやが…速やかに進めてほしいということでしょう」
「……君もちょっと怒っているのかな? いや私が悪かった、進めよう。踏んでしまいそうで怖いから落ち着いてくれたまえ。椅子に座って……座っ…? 登って? くれるかい」
恭しい態度だけは崩さないセルマの通訳に察するものがあって、アーベルは気を取り直した。ヴェラは、さあ若奥様、とセルマが跪いて差し出す枕によじ登る。窪みにはまだシモンの魔術が残っていて、その最適な湿り気具合がヴェラを落ち着かせた。セルマは枕を長椅子に置き、その背後に控え立つ。アーベルは肘掛け椅子に腰を下ろして、ハンネスをヴェラの向かいの長椅子へと誘った。イクセルはモルテンがアーベルの隣に設置した止まり木に落ち着く。
「先ずは夫人の隠蔽工作だね」
現状を場の者で共有すると、アーベルは本題に入った。




