2. めんどくさい生き物がいる
シモン・トールボリはセランデル伯爵の嫡男であり、父と合わせて国に二人だけの魔操者である。
嘗て大陸の大半を手中に収め大帝国を築いた王朝は、力と功績のある魔操者達を中心に要職を与え栄えていた。やがてそれらが王族に次ぐ支配階級、貴族と定められた。魔操者の能力は血で継がれることもあり世襲となり、高貴な血、魔操者の能力向上を求めた結果、濃くなりすぎた血により健康な子が産まれにくくなった。やがて平民の血を取り入れざるを得なくなる。時が下るにつれ薄まる血、いくつかの戦争や政変で帝国は分裂縮小、魔操者を名乗れる程の者は数を減らし、イエルタ王国ではトールボリ家が最後に残った魔操者を輩出できる血統だった。
今や国防の一角を担い、辺境伯と同等の発言力を持つトールボリ家の当主、セランデル伯は魔法伯と呼ばれ、繋がりを持ちたい家は後を絶たない。次期魔法伯であるシモンは、幼い頃から伴侶の座を狙う娘を送り込まれ、追いかけ回され、まだ精通もしていないのに寝所に連れ込まれたこともあり、すっかり異性が苦手になってしまった。同性といれば心安らかでいられるかといえば、それも違った。シモンが向けられる好意は血統の持つ旨味を見越した下心で、それにもうんざりせざるを得なかったのだ。
やがて次第に心を閉ざしてゆくシモンを父が見かねて、将来国防を担う者として行っていた王家との交流を中断し、領地療養をすることになった。豊かな田園風景、気取らない領民達。そこでは人の顔色を窺ったり気を張ったりする必要がなく、時間の流れが王都とは違って感じた。
森に入れば木々が日の光を遮り夏でも涼しく、鳥の囀りの他には葉擦れの音がする程度で、人の営みから隔絶した世界をシモンは直ぐに気に入った。案内の森番が、木の幹に残った肉食獣の爪痕で種族や大きさを言い当てたり、腐葉土に混じる糞や足跡、枝の折れ具合で獣の通り道を見つけたりするのが楽しくて、すっかり入り浸っていた。彩豊かな花や奇妙な生態を持つ植物、蝶は目を楽しませてくれる。羽虫の煩わしさはあるものの、川辺に出ると、せせらぎが沈んでいる心の表面を優しく撫でていってくれた。そこでシモンは出会ったのだ。この世で最も美しいと思える生き物と。
それははじめ、風景に溶け込んでいた。浅瀬のごつごつした岩の一部となって、静かに存在していた。水に濡れて赤茶色に光る岩肌に同化するその生き物は、とても小さく、シモンの親指程の大きさだった。森番が見つけて教えてくれたのだが、ぴくりとも動かないので、水飛沫の方に目をとられてしまって見つけるのに時間がかかった。よく見ると全く動いていないわけではない。扁平な口の裏側が、規則正しく小刻みに脈動している。まん丸な黒い瞳は途方もなく澄んでいた。思惑も欲もなく、ただ世界を受け入れているようなその佇まいに、シモンは魅入られた。
その時流れ落ちた涙の感情が、何だったのかは判らない。ただ、俗世の澱が洗い流されたかのように、身体が軽くなった。
それからシモンは蛙を探すことに夢中になり、そこで知り合った子供達と森に入り、野を駆け回り遊んだ。蛙を使った残酷な遊びを巡って喧嘩になったり、そこで身分差と、貴族として生まれた者の責任ある振る舞いを学んだりもした。その中の一人は、今も従者としてシモンの側にいる。一際身体能力に優れていたその子供は、仕込まれた武術も見る見るうちに習得し、本職の騎士にも引けを取らない立派な青年となっていた。
その従者、ベルントは今、鋭利な目を更に細くして主人をこき下ろしている。
「出会って間もない頃のやらかしを、今でも鮮明に思い出せますよ。大雨の後の濁流になった川を見て、蛙の為に水を綺麗にするんだって魔術ぶっ放しましたよね。もうね、あほかと。川の流れ変わっただけで何の解決にもなりゃしないわ近隣に大迷惑だわもうあほかと。こんなあほにおっきな力持たせちゃ駄目だろう神様と」
「仕方ないだろう、あの時は何も知らないお坊ちゃんだったんだよ。蛙達が死んでしまうと思って、慌てたんだ」
シモンは不貞腐れるが、この無礼を本気で咎めはしない。これで忠誠心はあり、人目があれば従者としての立場を弁えることのできる男であるので、大体のことは許していた。シモンは遠慮のないこの関係が心地よいのだ。
「今度はなんです。何も知らないお坊ちゃんは卒業したんじゃなかったんですか? 魔女を? 探す? あほですか。あほですね。あほが天外突破ですね」
魔女と魔操者は全く異なる存在だ。魔操者は生体エネルギーの一部を魔力とし、何かしらの超常現象に変換することができる人間のことを指すが、魔女は超常現象そのものとされている。よく判らないエネルギー、『魔力』でできたもの。女の姿のものが多く目撃されている為、魔女と呼ばれるようになった。魔女はそこここに存在していると言われており、人知の及ばないことが起これば魔女の仕業とされ、実際にその通りであることも多い。その存在は不定形で流動的。一度目にした姿を次も保っているとは限らない。だから目撃情報もまちまちで、いざ会おうと思ってもそう簡単に会えるものではないのだ。
「実際会った人間も呪いを受けた人間もいるのだから、見つけることは不可能じゃない」
「限りなく不可能に近い可能ですけどね。そんなことに時間費やすより、目の前の仕事こなしてください」
ベルントはシモンの目の前のテーブルに道路整備の計画書を置いた。当主たるセランデル伯爵は国境に張り巡らされた防護結界を点検補修すべく、各地を飛び回り領地を空けることも多い。その為領主代行を血族が務め、現在当主の従兄弟ヨエルがその役目を担っている。シモンも次期当主として、父の仕事を継ぐべく点検の同行と、領地経営の補佐を半々で行なっていた。
シモンは書類を脇に避けた。
「ベルント、聞いて。ヴェラは僕が蛙だけを愛していると思っているんだ」
「その通りでは」
「違うよ! 僕は人間のヴェラも愛してる!」
憤慨するシモンを、ベルントは興味の薄い目で見て書類を戻した。
「はいはい。これに目を通してください。難色を示してる周辺住人が幾人かいるのですが、穏便に進められるよう説得材料を」
「ベルント! これは由々しき事態だよ。僕の想いが届いていない!」
仕事はするとの意思表示に書類を手にし、シモンは訴えかける。ベルントは呆れた溜め息を落とした。
「魔女に会えば届くんですか?」
「変化の比率で誤解されているんだ。口付けると必ず人間にはなるけれど、蛙に戻るのは五回に一回くらいなんだよ。だからこれが愛の差じゃないと、魔女に証言してもらう」
ベルントは哀れむような眼差しになった。
「やめておいた方がいいと思います」
「どうして」
「若奥様の思っていることが裏付けられて、言い逃れができなくなります」
「何でそうなるんだ。僕はヴェラを丸ごと愛してる。証明できるよ」
「証明してどうするんですか」
「ヴェラにも僕を愛してもらいたい」
「嫌われているわけじゃないんでしょう?」
「僕の幸せを望んでくれている」
「十分じゃないですか。貴族の結婚なんて冷え切った関係もざらなんですから」
魔操者の血筋が絶えかけ、家の繁栄が主目的となった現在、貴族は基本的に政略結婚である。跡取りが生まれ、家を蔑ろにしなければ、恋愛を自由に楽しんでもそれ程問題にはならない。シモンもヴェラが現れなければ、どんなに抗っていてもいつかはそういった政略結婚をし、跡取りを儲けた後は没交渉の、よくある仮面夫婦になっていたことだろう。
「だからって妻の愛情を求めていけないわけじゃないだろう」
「日々誠実に向き合って口説けばいいじゃないですか。そっちのが確実ですよ」
「口説いてる。毎日口説いてる。でもどうしてか響いていないんだ」
「……私には何となく原因が解るような気がします」
「何だ」
「若様さっき蛙に戻るって言ってましたよ」
シモンは何を言わんとしているのか判らず、眉を顰めた。ベルントは吐息する。
「若奥様は人間です。それをあんた蛙に戻るって」
「あっ…。わ、解ってるよ! ちょっと言い間違えただけだよ!」
「説明するまで気付かなかったじゃないですか。それが答えですよ。若様の中じゃ、若奥様は擬人化した蛙なんですよ」
シモンはぐっと詰まった。
「出会った時は蛙だったんだ。僕は蛙のヴェラを愛した。それは間違えようのない事実だよ。だからそれに引きずられていることは否定できない。でも本当に、人間のヴェラだって愛しているんだ。そうでなければ、初夜だって終えられなかった筈だ。いくら僕だって、蛙に欲情するわけじゃない。あの日僕はヴェラの柔らか」
「真顔で何言おうとしてんですかあんた」
ベルントは容赦無く遮った。主人の閨事情になど通じたくはないのだ。
「まだありますよ。若様、女性に対する褒め言葉を磨くべきところを、蛙に対する褒め言葉を磨いてたでしょう」
「しょうがないだろう。あんなふにゃふにゃしてるくせに猛獣みたいな目をした変な臭いのする生き物、どう褒めろっていうんだ」
シモンは痛いところを衝かれて、苦虫を噛み潰したかのような顔になる。
「若奥様も人間になったら同じふにゃふにゃした生き物になったでしょうが。後変な臭いは香水か化粧です。多分」
ベルントは、蛙の方がふにゃふにゃしてるじゃないか、というのは胸の内にしまっておいた。逐一おかしなところを正していては、話が進まないのだ。シモンは不快そうに眉を顰める。
「同じじゃない。ヴェラは違う」
「どう違うんですか」
「柔らかくてしっとりしていてふかふかでいい匂いがする」
「………それは寝所の話ですか」
シモンは無言で片手に魔力を溜めた。
「待った待った! さっきは自分で言おうとしてたのになんですか!?」
「ヴェラで何を想像した」
「してませんよ! 自分の言葉選びどうにかしてください! そういうとこでしょ! だから若奥様にも通じないんですよ!」
「ふざけるな! なんでヴェラと感覚を共有している気でいるんだ!」
「え、嫉妬!? そういう嫉妬!? めちゃくちゃめんどくせえ!?」
元々シモンは癖のある人間だが、愛する存在を得て輪をかけて面倒な人間になった。シモンを一番近くで見てきた従者は、後にそう語ったという。