17. 大変元気がよろしい
変化があったのは五日目だった。
それまでは雲が太陽を遮った日はあるものの、安定した天候に恵まれ、渓流は一定の水流を保っていた。その日も薄く途切れ途切れに白い雲が流れているだけで、上流の空にも重い雲の気配はなかったが、急に水量が増え、流れが速くなった気がして、ヴェラは漠然と全体を映していた目の焦点を眼下に合わせた。ヴェラは長らく野にあった為、環境のちょっとした変化にも敏感であった。毎日見ているのだから違和感は確かだとは思うが、それが魔女に関わる事象かは判断できない。
「お休みのところすみません」
そっとイクセルに声をかける。交代時間にはまだ大分早いが、イクセルの目はすんなりと開き、ヴェラの方向に首を回した。下瞼で何度か瞬きをするのは、眠気を飛ばそうとしているのか話を促しているのか、ヴェラには判らないのだが、起きたのだから用件を告げる。
「朝から上流の方にも雨の気配はなかったのですが、水量が急に増えたんです。来ますか?」
イクセルは眼下から上流の方向へとゆっくり首を巡らせる。ヴェラがその目線を追った先で、小さな何かが水飛沫をあげて跳ねたように見えた。イクセルが背後を振り向き、ホッホと短く鳴いた。
「来たか」
テーブルを囲んでいたアーベルと研究者達が立ち上がり、それを受けてシモンがヴェラに歩み寄った。魔女に接触を試みるのはシモンとヴェラの二名だけだ。皆から離れ一番下の観測場所まで下りる。接触を図る方法は簡単だ。ただ呼び掛ける。結界を張っているだけで既に刺激になっているだろうから、特別なことをして、機嫌を損ねる可能性を増やすこともないという結論だった。
上流の方では川が逆流し、渦巻いて弾けるなど、常ならぬ光景が繰り広げられている。その異質な水の動きが徐々に下り、観測場所に近付いてきた。シモンがタイミングを測っている間に、水面が盛り上がり、二つの水柱が縺れるようにして天に向けて登る。その捻れた水柱が色付いて大樹の形をとった。それは更にもりもりと背丈を伸ばすと、急に折れ曲がってヴェラを覗き込んだ。葉の一つ一つに目があって、それらが文字通り覗き込んだのだ。
あまりのことに硬直して、ヴェラは瞬きひとつできなかった。シモンは咄嗟にヴェラを引き寄せ、抱き込み、結界を張る。
「お、初にお目にかかる、魔女よ。……いや、すまない、貴女を言い表す言葉が判らないので、我々は魔女と呼んでいるのだが」
完全に後手に回り、シモンの声には動揺が表れていた。好き勝手な方向に視線を暴れさせた目玉達が、弾けて液化した。遅れて折れ曲がった大樹も液化する。その全てが半球状の結界に降りかかり、重みのある音がしたかと思うと、じわりと結界の表面が溶けて水蒸気が上がった。
「何だ……? 熱…?」
シモンは薄くなった結界を補強し熱耐性を付与したが、今度は表面から柔軟性が失われ、乾いたようにひび割れる。硝子が割れるように粉々になる結界の内側にまた結界を張り直すが、次々水質が変化して切りがない。
「っく……! 待ってくれ、貴女に対して害意はない! 少し話を聞かせて欲しいだけだ!」
魔女なら言葉は通じる筈だと、シモンは不定形な何者かに訴えかける。
「妙なななななあ気配がするるるんだああよぉ」
水が撓んだ声で喋る。興味をそそられて寄ってきただけのような物言いだ。
「妙?」
「何かぁあ変んんぅ。その女ぁ」
水質変化が止み、結界に沿って目まぐるしく巡り出す。目はないのに、様々な角度から覗かれているかのような錯覚が肌をざわつかせた。
「この人は少し、呪われてしまっている。それのことかな」
「そううねぇ。変んんんねぇ。半端なあ生き物だねねねねぇ。変な生き物だあわぁちょっとおう齧らせてぇ」
「それはやめて欲しい。人間はちょっとしたことで壊れてしまうから」
不満そうに水が渦巻く。
「あの。私の状態が判るのですね……? 私の元は人間で合っていますか」
そっと口を開いたヴェラの問いに、シモンが微かに疑問を浮かべ、ちらりとヴェラを見る。
「判んんんないからぁ齧ららあせてぇ」
水は強請るように結界のあちこちでぴちゃぴちゃ跳ねる。
「噛めば判るのですか」
「たぶーん」
「シモン様」
ヴェラはシモンを見上げた。シモンは眉を顰める。
「駄目だよ。結界が壊れた。どうなるか判らない」
「齧るだけええだよぉ齧るだあけぇ」
焦れるように跳ねる水が、激しさを増した。
「シモン様、甘噛み程度なら」
「ヴェラ。本当に駄目だ。齧るの意味が僕達と同じかも判らない」
同じでも、齧るとは痛みや欠損を想像させる言葉だ。シモンの顔はいつになく険しく、声もヴェラに向けるものとしては想像もつかなかったほどに厳しい。
「同じ同じぃ。ちょっとだあけぇ。齧ったららあ返すからぁ」
水は今や苛立ったように結界を打ち付けている。液体の筈なのに、鈍器で殴りつけているかのような音になっている。
「大丈夫、こうなったら根比べだ」
シモンは身を竦めたヴェラを抱き締める腕の力を強め、結界を分厚くする。
「でも……」
ヴェラも知りたいが、水も引いてはくれない気配がある。シモンと激しさがいや増す水を交互に見る視界の端に、ヴェラは自分の金髪を捉えた。
「髪、なら。大丈夫なのでは」
「髪! いいいいよぉちょおおおうだぁい」
シモンが何か言う前に水が盛大に渦巻いた。
「毛先だけ。少しだけ切って渡すなら」
シモンは渋々了承し、ヴェラの髪紐でほんの数本、毛先を縛った。魔術で切り取ったその束を結界の直ぐ手前に置き、それが外に出るように結界を縮める。
「それでどうか、教えてください」
ヴェラが言い終わる前に、毛束は水に呑み込まれていた。




