13. その男、中毒患者につき
客室に運ばれたヴェラは、その日のうちに意識を取り戻した。アーベルの呼んだ医者の診察を受け、心因性のものと診断されて、動かしても問題はないだろうと帰宅する。
翌日アーベルから見舞いの先触れがあった。アーベルに会わせたくないシモンは、もう少し大事をと渋ったが、ヴェラは危害を加えられたわけではないのだからと、身支度を整え応接室でアーベルを迎える。
「あれから問題はないかい」
「はい。お花をありがとうございます。お部屋に飾らせていただきます」
ヴェラはセルマに渡った花束を目線で示した。アーベルは表情を曇らせる。
「すまない。私が意地の悪いことを訊いたからなのだろう」
「それは故意ということでよろしいですか」
ヴェラの隣にぴたりと寄り添うシモンが、冷ややかな声を放つ。
「魔女の前提だったんだ」
人生など初めから存在しない前提で、そこから探ろうとしたのだ。ヴェラを追い詰める意図ではなかったのだと、アーベルは正直に白状した。シモンは大きな溜め息をつく。視線は永久凍土のように凍てついたままだ。
「それで? 魔女の確信は得られたのですか?」
「いや……そうでない方に傾いている」
ヴェラが人生を語れないのは、覚えていないからだ。そしてそれを思い出すことには負担がかかる。そう思える状況を目の当たりにしてしまえば、アーベルも強くは出られない。アーベルは冷徹にはなれても、冷酷なわけではなかった。
「ヴェラは永い間、呪いに耐えてきたのです。たった一人で、頼る者もなく、身に迫る危険を回避する術もなく。心細いなどという、生ぬるいものではなかったでしょう。その心情は、生まれ落ちたその時の姿のまま、安穏と暮らせていた僕達が想像し得るものではないでしょう。どれだけ辛く、苦しかったか。誰よりも、一番、最も近くにいる僕でさえ理解しきれていません。だから僕の言葉では言い表せませんが、そこから漸くヴェラは今、本来の、人間として、人間らしい生を歩みだしているところなのです」
シモンの語り口は冷静だが、静かな怒りがその奥に横たわっている。アーベルは神妙な面持ちで耳を傾けていた。
「ヴェラは今、幸せだと言ってくれています。それを僕は何に優先してでも守る。仮令貴方が相手であろうとも、関係ありません。僕の大事なヴェラを壊すようなことは勿論、惑わすのもやめていただきたい」
「うん、それは……いや、それは……?」
アーベルは反省の意を述べようとして、思い止まった。シモンは明らかに別件の、口説いていることに対しての苦情も付け加えた。
「やめていただきたい」
シモンは威圧を隠すこともなく繰り返した。格上に対する態度ではない。
「……本件に関しては本当にすまなかったと思っている。貴女の負担を顧みない、非情な行いをしてしまったことを、心からお詫びする」
アーベルは少々気圧されながらもシモンから視線を外して、謝るべきところをヴェラに謝った。
「私もあんなことになるとは思っていなかったので……却ってご迷惑をおかけしました」
ヴェラは宥めるようにそっとシモンの手に手を添えて、謝罪を受け入れた。
ヴェラは感情のいくつかは、ほぼほぼ死んでいると思っていた。だから自分の身体が起こした激しい反応に驚きはしたが、アーベルに対しての怒りはない。害意からのものではなく、捕食しようとしたわけでもないのだから、特に思うところはないのだ。疑惑が薄れたのなら、怪我の功名というもの。
「お詫びと言ってはなんだけど、夫人とファルンバリ公領に羽を伸ばしに来ないかい。近々領都でアルブ祭があるんだ。花の溢れる、ご婦人方に人気のお祭りなんだよ。夫人も気に入ると思う」
シモンは高まっていた感情を逃すように息を吐き出した。
「折角ですが、今年の秋は自領でゆっくり過ごす予定なんです」
ヴェラが許したので、シモンもそれ以上蟠りを残すようなことはしないが、同じのんびり過ごすなら地元で十分と判断した。
「そうか、残念だな。定期的に魔女の目撃情報がある場所があるんだよ。現地調査、都合つけてもいいと思ったんだけどね」
「行きましょう」
シモンは一転して目を鋭く光らせ、アーベルは微笑んだ。
それからヴェラがアーベルの元に訪れることはなくなったが、シモンは会談を重ね、現地調査の計画も詰められた。
ファルンバリ公領は岩山が多く、主食になる小麦の耕作に向く土地が少ない。アーベルが遥か西方の地の荒野で育つ蔓植物アルブを持ち込んで、この地で育ちやすいように品種改良をし、特産にした。魔女研究で各地の情報を集める過程で見つけたのだということだ。
領都ナルグは、アルブ祭に合わせて八重咲きのアルブの花で飾り付けられ、街全体が華やいでいた。アーベルの屋敷に向かうべくヴェラ達が馬車で通過した時、既に彩り豊かで目を楽しませたが、アルブ祭当日はアルブの花で着飾った人々が通りを行き交い、更なる花で溢れている。
ヴェラは公爵家の使用人達の手によって、お下げにした金髪にアルブの花を編みこまれ、アルブの刺繍が施された平民の晴れ着を着て街に出ていた。生まれ持った気品などというものに縁の無いヴェラには、お忍びの貴族といった空気はなく、シモンも平民の服を着てしまえば着飾った女性達の華やかさに埋もれてしまう。同じく平民の服を着たベルント、ヴェラと同じような装いをしたセルマ、アーベルとその従者モルテンの一行の中で、アーベルだけが素性を隠しきれておらず、領主様、と所々で囁かれている。
「どんなに似合わない強面の男も、花冠を頭に乗せて収穫を祝うんだよ」
見れば警備に当たっている制服の領兵達も、少し離れてついてきているアーベルの護衛達も、頭には花冠をのせていた。
「ほら、君達も」
アーベルは出店で購入した花冠をシモンに渡そうとしたが、手を止め、ヴェラを振り返った。
「最近では女性が意中の男性に花冠を作って渡すのが流行っているんだけど、やるかい」
ヴェラが返事をする前に、受け取ろうとしていたシモンの手がさっと引っ込んだ。期待の眼差しが頬に刺さるのを感じて、ヴェラは頷く。
「じゃあこれは君にあげよう」
花冠はベルントの頭に乗せられた。
「ここから好きな色のものを選ぶといい。来年は私に作ってくれると嬉しいな」
摘まれたままのアルブが生けられている隣の出店に案内しながら、アーベルはヴェラに言った。
「ないですから。来年は自領で仲睦まじくしてますから」
すかさずシモンが割り込む。シモンに聞こえるように言ったのだから、ヴェラに答えを求めたのではないものと判断して、ヴェラの意識は既にアルブ選びに移っていた。
選んだアルブは店主が茎を切り離して、切り口に花を長持ちさせる薬品を染み込ませ、茎の代わりに緑の布が巻かれた柔らかい針金を通してくれる。アルブの茎は硬くて、編むのには向かないのだ。アーベルの連れだからどこぞの令嬢と判断したのだろう、店主が編み方を教えようかと申し出たが、それは断った。ヴェラは花冠の作り方を知っている。トールボリ家の教育には含まれていなかったから、きっと忘れるくらい昔に作ったことがあるのだ。
アーベルは観光客のための作業場にヴェラ一同を案内すると、あまり大人数で場所を占拠しては迷惑だからと、席を外した。ヴェラは朧げな記憶を呼び起こしながら編み進む。それを隣に座ったシモンがじっと覗き込んでいた。その様子は浮き立っていて、アーベルから受け取ろうとしていた時の義務的な態度とはまるで違う。花冠が好きだというわけではないのはヴェラにも判って、少しくすぐったくなった。
「上手だね。好きな色を集めたの?」
ヴェラは黄色、薄卵色、橙色の同系色を選んで、三色の短いパターンを繰り返すように順番に編んでいた。
「いえ。シモン様は派手なお召し物を選ばないので……瞳の色と同系色がいいかと思ったのです」
「ヴェラ…僕のこと、ちゃんと見ているんだね」
シモンは感に堪えないというように口元を押さえた。
「ベルント。緑のアルブを買ってきて。別に男から渡したっていいよね」
「緑はありません」
「なんだって!? よ、よしそうか、色を変えればいいな」
「やめてください。そんな魔術使ったことないでしょ。成功してもいいことないのでやめてください」
「いいことしかないよ。ヴェラの体色の、瞳の色のアルブだよ? 何より美しいアルブがこの世に誕生するんだよ」
「ややこしいことになるんでやめてあげてください。品種改良成功したと勘違いさせるでしょう。あと体色。そういうとこだって言ったでしょうが」
ベルントは後半をヴェラに聞こえないように、声量を落としてシモンの耳元で囁いた。
「ヴェラを褒めて何が悪い」
シモンもぼそぼそと小声になる。
「順番。そういう細かいとこにも出てます。何興奮で悩み忘れてんですか」
シモンは唸った。
「仕方ないだろう、想いが溢れてしまうんだよ。緑のアルブの只中に潜んで、同化しようとするヴェラを想像してご覧よ。意識が遠のきそうな愛らしさだよ。うっ、駄目だ。隙間からひっそりと覗く丸い目が、呼吸困難になりそうなくらい可愛い。どこがいいかな、寝床に飾り付けたらどうだろう。あ、聞いてくれる? 眠る時ヴェラは、手足を体の下に、目を皮膚の中に仕舞って平たくなるんだけどね、これがまた可愛いんだ。平たいの可愛い……。平たいところからゆっくり盛り上がったつぶらな瞳と出会う瞬間なんて、一日が生まれ変わる瞬間に立ち会ったかのような心洗われる瞬間なんだよ。ああでも、アルブで飾ったらそれが見られなくなるな。いやいやでも、一生懸命前肢でアルブを掻き分けながら出てきて、おはようの合図に瞳孔を細められたらもう僕は……! 緑のアルブ…緑のアルブが欲しい……」
苦しげに胸元を押さえ、何某かの中毒患者のような様相を呈するシモンの脇腹を、ベルントが強めにどついた。本来は主にすべきことではないが、この患者を正気にするにはその程度の刺激は必要なのだ。
「若様、外ですよ」
シモンは脇腹を押さえて恨めしげにベルントを睨む。
「ベルントはまだ僕にとってのヴェラに出会えていないから、解らないんだろう。魔女を見つけたらベルントの最愛の女性を作ってもらおうか」
「いりませんよ。なんで自然に出会わないことになってるんですか」
「シモン様、できました」
ヴェラの声で、シモンとベルントはぴたりと口を閉じる。自作の花冠を持つヴェラを見て、シモンは相好を崩した。
この中毒患者を止めて欲しいというベルントの要望により、ヴェラが口添えをして、シモンは緑を諦め、ヴェラがシモンに選んだ三色に薄紅色を足した花冠を編んだ。
戻ってきたアーベルが花冠を頭に乗せ合う二人を見て、妬けるなぁと笑った。




