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続・永遠の蛙  作者: 十々木 とと
本編
12/37

12. 触れてほしくはないのです


 少し頭を休める必要がありそうだと、アーベルがその場をお開きにした。帰り際に今後もヴェラとの交流を求められ、シモンはそれを受け入れた。


「疑惑を放っておいて妙な行動に出られても困るからね」


 馬車の中でトールボリ家の三人だけになると、シモンは理由を話した。


「私は何をすればいいのでしょう」


 交流といっても、アーベルに妻はおらず、夫人同士の繋がりは築けない。研究にも、アーベルの期待するような魔女として参加できるわけではないのだ。


「特別なことはしなくていいよ。世間話をするだけでいい。魔女には人間の倫理や理屈が通用しないと言っていただろう? 君と交流を持てば自然と信じられるんじゃないかな。あまり仲良くして欲しくはないけれど、仕方ない。地道にいくしかないね」


 気の進まない様子のシモンに、ヴェラは瞬く。


「シモン様は閣下のことがお嫌いなのですか」

「嫌いではないよ」


 シモンは噛み潰してはいけないものを歯の間に挟んでいるような顔をした。


「閣下は僕が今、一番必要としている繋がりを持っている。彼自身、有能だ」


 では何故、とでも問うようなヴェラの目に行き当たって、シモンは息を吐き出した。


「意図ははっきりしないけど、君を口説いているのを見てしまったからね。心配なんだよ」


 真っ直ぐなヴェラの目を見ていられなくなったシモンは、窓の外へと目線を逃す。


「………小さい男だろう」


 恥じるような小さな声に、ヴェラはまた何度も瞬いた。


「自然の摂理では? 雄は自分の子孫を残す為に、それはもう必死に他の雄を蹴落とし、雌を死守するものです」


 ヴェラはそれを身をもって経験している。人間の考える器の大きさなど、繁殖には何の役にも立たないのだ。ヴェラの気持ちすらお構いなしの、仁義なき戦いであった。


「あ、うん。それは……そうかな? そう、だね…?」


 シモンの中で価値観の玉突き事故が起こり、ちっぽけなプライドの意義が行方不明になった。


「そうすると、僕は野生の世界では随分と寛容な男になるんだね」

「子孫を残せないと思います」


 ヴェラは頷く。


「……若様。疑惑が晴れにくい気がします」


 二人の向かいで黙って聞いていたベルントが、沈痛な面持ちでぽつりと言った。





 シモンがハンネスと会談を重ねれば、ヴェラとアーベルの交流も同じように重ねられる。より専門的なことや実践的なことに話が及ぶと、アーベルとヴェラは席を外し、庭に出てアルブ茶で一服する流れが定番になっていた。同行しているセルマが必ずヴェラの背後に控えていて、時折イクセルも加わるので、二人きりになることはない。

 ヴェラはベルントの助言により、蛙として野にあった頃のことを話して聞かせていた。人間として多少不自然なのは、蛙生が長かったからだと理解してもらうためだ。おかげでアーベルはシモン並みにヴェラに詳しくなり、シモンは面白くない。アーベルが事あるごとにシモンの隠しきれていない嫉妬をつつき揶揄うので、なしくずし的に気安くなり、名前で呼び合うようにまでなっていた。夫人も、というのでヴェラもそうさせてもらっている。一方でアーベルがヴェラを名で呼ばないのは、シモンへの配慮のようだった。


「アーベル様。そろそろ疑惑は晴れましたか」

「そんなに素直に訊いてしまったら駄目だよ。目的が見え見えで躱しやすい。そもそも貴女が話す内容の意図が判りきってしまっているから、今更だけどね」


 アーベルは会話を楽しみながら、話術指導も交える親切ぶりだ。


「では、どうしたらいいのでしょう」


 ヴェラ自身は疑惑をそれ程気に病んではいない。誤解など、意思疎通ができずこちらの都合は一切通らなかった蛙生と、大して変わらない。ただ実害がありそうで、シモンも困るようだから晴らした方がいいと判断しているだけだ。熱が全く入っていないヴェラの内情は、表情が乏しくとも察しているのだろう、アーベルは可笑しそうに眼差しを緩める。


「貴女は不思議な人だね。老練した者のように泰然としているのに、全くの無垢なものも想起させる」


 アーベルの細めた双眸に、艶めいたものが乗った。


「シモン君より先に出会えていたら、貴女は私のところに落ちてきてくれたのかな」


 ヴェラは言葉の意味を考える間を要したが、アーベルの様子とシモンを引き合いに出したことから、これはおそらく、口説いていると判断した。となれば答えは明白だ。


「アーベル様は魅力的な方だと思います。普通に出会っていたのなら、そういったこともあったかもしれません。でも。私とアーベル様では、普通の出会いは有り得ないのです。シモン様の前に出会うことも不可能でした。だって、アーベル様には野鳥から餌を奪う発想も、蛙に接吻の発想もないでしょう」

「なるほど。私がこうして口説けるのも、シモン君のお陰ということだね。だからといって、私が引かねばならない理由にはならないよ?」


 ヴェラは困惑した。訊きたかったことには答えた筈だ。アーベルがヴェラを口説くのは今に始まったことではないが、ヴェラの返答に満足してもらえたことは一度もない。繁殖期の雄に匹敵する果てしなさを感じた。払っても払っても次がある。今までのヴェラであれば諦めていた。抵抗を諦めてなるべく動かず、体力を温存し圧死すれすれの細い息を繋いで、長時間耐え忍べば事象から抜け出せた。人間には繁殖期のような明確な区切りはないが、最長でも寿命がくれば終わる話でもある。だが今はそんなに悠長に構えていられないのだ。もしヴェラの時間が今まで通りだったとしても、アーベルの寿命分、シモンに心労をかけるということになる。

 家庭教師や義母、養母からの対人の教えを片っ端から思い起こす。まともに応対しようとするから延々と続くのではないか。話の角度を変えるのだ。裏を読めと言われていたことを思い出して、ヴェラを口説く目的は、シモンからヴェラを引き離すことではないかと考えた。


「アーベル様、シモン様は悪巧みはしていません」

「判っているよ。何を企むにしても、魔女の力を借りずとも十分に事を起こせるだろうからね」


 ヴェラが何を言わんとしているのかを瞬時に理解したアーベルによって、あっさりと読み間違えが判明する。ヴェラは黙した。紳士とは困っている婦女子に優しいものだと教わったのだが、ひょっとしたらヴェラは婦女子に数えられていないのではと思い至った。何故なら魔女疑惑は晴れておらず、その実体は半分蛙なのだ。それならば手を緩めてもらえなくても仕方がないと納得して、ヴェラは諦めた。


「夫人。……嗚呼、こういう時、名を呼べないのはどうにももどかしいね」


 アーベルは切ないように笑みを薄れさせた。


「今の名はシモン君が付けたのだと言っていたね。本当の名前は何ていうの」

「忘れてしまったのです。ですからシモン様にいただいた名前を、そのまま使っています」

「では、思い出したら私に教えて欲しいな」


 ヴェラは首を振る。


「必要ではないから、忘れてしまったのだと思うのです」


 教えたくないのではない。思い出そうと思わないのだ。


「親からもらった名を?」

「はい。もう誰も呼ぶ者もいない名前なので」


 シモンが愛しさを込めて付けた名があるのだから、ヴェラには十分だった。名前をもらった時の喜びは今でも思い出せる。蛙でしかなかったヴェラが、個として認められた瞬間だ。


「幸せではなかったのかい」


 アーベルの気遣わしげな眼差しは、ヴェラを少し、落ち着かない気分にさせる。


「そうであるなら聞き流して欲しいんだけど、名前を呼ぶ声に宿る温かさや愛情といったものは、要不要で忘れるものではないのではないかな」


 そんなことは考えたこともなかった。ヴェラは今まで、人生を無理に思い出そうとしたことはなかった。思い出しても辛いだけだったからだ。あまり覚えていないから確とは言えないが、それは人生が辛かったということではなかったように思う。もう人間には戻れないと思っていたのだ。失くしたものを数えることに、耐えられなかったからではなかったか。嘆き、錯乱していた時期がどれ程かは判らないが、平静を取り戻した時には殆ど覚えていなかった。そして今となれば、ヴェラの人生を覚えている者はもう誰もいないのだから、それこそ思い出す意味のない事だ。


 ────本当にそうだろうか。


 改めて考えると、わからなくなる。ヴェラの瞳が揺れた。

 産み育てた人間が愛情を注いでいてくれていたのなら、これは、忘れ去っていることは薄情で、とても酷いことをしていることにはなるまいか。

 だが生きていく上では必要のないことなのだ。今、目の前にあるものを、今愛情を注いでくれている人を大事に、守れれば、それで良いはずだ。もしかしたら突然姿を消したヴェラを心配して、探してくれていた人がいたかもしれない。その寿命が尽きるまで、気にかけてくれていた人がいたかもしれない。だが、それでも。もういない存在に対して、ヴェラは何の影響も及ぼすことができないのだ。

 鼓動が早くなり、どくどくと脈打つ音がヴェラの鼓膜を打ってでもいるように感じる。呼吸が浅くなり、ヴェラは喘いだ。


「夫人? 大丈夫かい」


 アーベルが立ち上がり、ヴェラの傍に屈み込む。セルマも慌てて近寄り、前傾するヴェラの背をさする。


「若奥様!?」

「夫人!」


 気遣う声に反応することもできないまま、ヴェラの視界は暗転した。






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