西宮春子の夢
雨音だった。
西宮春子が聞いたのは、最初はそんな日常的な音であった。ごく普通の雨音が耳を掠ったかと思うと、それに合わせるように湯が沸いた。
水蒸気を吐き出すやかんを見、よくまあこう勢いよく吐き出すようだと思う。だがその勢いは語り切れないほどの窮屈さをやかんが訴えているともとれる。水蒸気を溜め込めなくなり吐き出してしまうやかんに、春子は同情を憶えないでもない。だがそれと春子がやかんを酷使することは全く別の話だ。いくらやかんが泣き喚こうと、狭い六畳間に備え付けられた台所の焜炉を酷使しやかんを焦がさなければ生活していけない。それが一般庶民というものであり、かつ西宮春子の生き方というものであった。
やかんが泡を吹き、だいたいこんなおんぼろアパートが存在するから悪いんだ、と西宮春子と同時刻に音野真紀も溜息を吐いていた。アパート2階の六畳間で、まさか下の階の住人も現時刻に同じことを思って溜息を吐いているとはつゆほどもしらずに。
そもそも真紀というのは順風満帆な生活を送っていたはずだった。朝起きれば珈琲を三カップ分作り、夫と子供を起こしたのちつくりおいていたオカズを出す。子供も無事高校入試に受かり、夫もいい仕事をしており自分も豪邸とまではいかないがそこそこにいい家に住んでいた。家事は大変ではあるが自分はシアワセな生活をおくっているという自負があった。―――筈だったのだ。
それが全て夢だったなどいくつになろうが信じられない。『ユメ』とはいくつかの意味で使うが、これはそのままの意味で『朝起きたら忘れている』なんてこともよくある類の『ユメ』だ。
つまり音野真紀は朝起きたら『ああ全て夢だったのか』と狭い六畳間を見て呆けていた。それが数年前の春当たりのことであり、今はもう蒸し暑さが畳に充満し、嫌な臭いがする季節となっている。あれから何年たったかなど『夢から覚めて幾周年記念』などのパーティーでも行わない限り覚えられるものでもないが、自分が夢の中で32まで生きていたことは流石に覚えている。それで現在が31なので、そろそろ『あれは夢だった』となる、ということもなく相変わらず今の現実を疑う日々を送るばかりだ。
「取り敢えず、人参かなあ」
真紀はやかんの悲鳴にこたえ火を消す。畳に寝転がった体勢から起き上がって火を消しによろよろ歩くというのもなかなかに億劫だったが、こればかりは仕方ない。昔の真紀――つまりは『ユメ』の篠田真紀だった頃は火を使っているときに寝転がるなど決してしなかったのだが、今と昔では考え方も根本的に違う。火事になればそれもそれでいいだろうと思っている。
「いやでも大根のほうが……」
真紀は現在、昼食の献立のプラス・ワンを考えている。
なにがいいか。人参を添えるか、大根をおろすか。両方は面倒がくさいが、何か添えねば肉を食べる気は起きない。ご飯の上に乗っけてそのままたれでもいいが、たれはあいにくきれている。
『いやあやっぱりこのタレがサイコウですよねえ。H町に来てこれを食べない手はないですよお』
なんということか、スマホで流しているラジオからもそんな声が聴こえてきた。
「タレがなくても腕次第でいけますけど?」
ラジオに対して好戦的に煽ってみるが、返答などあるはずもない。なんだか自分が高校生以下のような気がして、少し言動を後悔する。が、ラジオは消した。
「やっぱり人参でいこうかな」
真紀は腰くらいまでの大きさの冷蔵庫を開き、オレンジ色のその野菜を手に取った。まだ腐ってはいないようだ。その約三分の一を俎板の上で切り落とすと、余った部分は袋にも入れずそのまま冷蔵庫にしまう。俎板の上に残った人参を濯ぐと、泥や何故か白い物体がでてくる。ある程度濯げば水を止め、俎板の上で輪切りにする。包丁がトントントンと馬の足音のように歌った。別に真紀は包丁の音が嫌いなわけではないが、どうも好きにはなれない。包丁は私に使われて楽しいのだろうか、と真紀は不意に疑問を抱くことがある。
人参を切り終わると、湯を急須に注いで茶を出す。とぽとぽと注いでみるが、少し早かったのか色は薄い。それを口にして「これは湯だ」と眉を顰め、作業に戻る。
そのときだった。
ラジオが起動した。
『6月24日に、N町の住宅街の家で、高校生と見られる青年と男性の計二人の遺体が見つかった事件で、犯人がN町住在・無職の伊藤忠彦さんだったということが判明しました。被害者の男性――篠田賢司氏は大手H会社の社長を務めており――』
「………」
真紀は眉を顰めた。
H会社の社長の篠田賢司。この名を忘れるはずがない。彼こそが昔の音野真紀の、夫であったのだから。
真紀は包丁が手から離れてゆくのを感じた。だが包丁は何の音も立てなかった。真紀の理解も追いつかなかった。
死んだ? 誰が? なんで? もともと実在していたの、その人は?
手から感覚が抜けていくと同時に、頭のどこかで「当然だ」と呟く声がした。「彼が殺されるのを、私は見てた」
湯が沸いた。はっ、と目を見開くと畳が視界の約7割をうめる。
『私はこの前H町に行きましてね。そこで肉屋さんをめぐってみたのですが
肉屋さんですか? タナカさんは肉とは縁遠いと思っていましたが』
ラジオから聴こえる声は、確かにいつもの二人組だった。話のテンポが丁度よく、そして真紀はこの続きを知っていた。
『そこである店に入ってみたんですよ。一言さんお断りという雰囲気がしたんですがね、いい匂いがしたものでつい
ほう。で、味はどうだったんですか?
いやあやっぱり美味しいかったですよ。なんといってもタレでした
タレ?
はい。肉の上にかかっていたんですがね―――、
いやあやっぱりこのタレがサイコウですよねえ。H町に来てこれを食べない手はないですよお』
やっぱりだ。真紀はスマホに手を伸ばすが、うまくスマホを握れない。それでもなんとか震える画面を操作してラジオを消す。
完全な沈黙が満ちた。それを確認すると、真紀は立ち上がった。
真紀は一刻も早く何かから逃げ出したかった。何かとは、ラジオかもしれないし、この部屋かもしれない。ただ一目散にドアまで駆けて外へと転がりでる。後ろでドアが閉まる重く鈍い音がしたのにも気づかず、ただ階段を転がり落ちた。
気づけば、真紀はアパートの一階――ポストの前で膝を抱えていた。
真紀としてはここから一刻も早く逃げ出したかったが、その勇気はなかった。
「どうしたんですか?」
背後から声が掛かった。真紀は近所づきあいはそこそこに行っていたので、それが誰かは考えればわかるはずだったが、考えるのが億劫だったので先に振り返った。
「ああ、春子さん」
真紀は毎回のことながら春子の姿に目を見開いた。
彼女は美しかった。すらりとした体に青いワンピースをまとい、落ち着いた枯葉色のカーディガンをかけ、漆黒の髪を揺らす。体は痩せ細っていたが、頼りない体の中で目だけはどこか底光りし、落ち着いた顔立ちの中で桜色の唇が柔らかく微笑みの形を作っていた。その姿はどこか異質でもあった。見るものに、この世にあってよいのかと思わせる。
「どうも何か悩んでいるようじゃあないですか」
春子は優しく問いかけるように言葉を紡ぐ。
「いえ、夢を見たの」
「ユメ?」
真紀は逡巡する。
「はい。存在しないはずの夫と息子が死んだことを知る夢。でも夢よ。現実なんかじゃない」
それをきくと、春子はどこかいたわるような視線を宙に向け、また真紀を見るとその場で回って一礼した。
そう思った時には、彼女はまた階段を上がっていた。小さな子供の笑い声が外から溢れ出ている。
『あのねあのね。あなたにだけはおしえてあげる』
真紀は、はっと外を見た。子供の声に交じり確かに異質な声が聴こえる。
白一色のケシキの中に、確かに一つ異質があった。
それは古いラジカセの形をしていた。
『あのねあのね。あなたにだけはおしえてあげる』
だが真紀は知っていた。
これは人形だ。
『わたしが、しのだのふたりをころしたの』
そう思うと、確かにラジオから浮かぶ影が見えた。ニンギョウは、昔と変わらず得体のしれない奇妙な笑い声を立てていた。
篠田真紀は32歳だった。
真紀は毎日 シアワセ な暮しを送っていた。
そう、それはそれは絵に描いたようなシアワセだった。
「ユイちゃん、今度お茶しに行っていぃい? 久しぶりにさ、同窓会にも顔を出そうと思って」
『ばあか、いまどんだけ忙しいと思ってんの。たっくもお、コンサートまであと一か月もないんだよ?』
「ユイちゃんはピアノうまいもんねえ。せっかくだし、コンサートも見に行こうかなあ」
真紀はすべての部屋に掃除機をかけ終えると、洗い物をしながら疲れを紛らわせるように電話をしていた。
『そういえばさ』
と、ユイちゃんは変に声を静めたかと思うと、
『あんたんとこの賢司さん、さ』
「あっ、ごめん。なんか電波が悪いみたい」
私は強引に電話を切り、沈黙したガラケーを見て顔を顰める。
「賢司さんのばか……」
といっても、涙は出なかった。
なれっこになってしまったからかもしれない。
「にんじんだいこん刻みますぅ、あとはあお肉ぅお肉ぅ」
幼い頃からの癖で、謎の歌を歌いながら台所で体を揺らしている。
そんな時にドアが開いてドタバタなにやら騒がしくなった。
「母ちゃんただいまあ。今度大会があんだけどさあ、俺人数合わせで呼ばれちゃって」
息子だった。息子の賢一郎がかばんを自分の部屋まで置きに行くと、そのまま転がるように台所までやってくる。
そして勝手にご飯をよそうと、その上に鮭、卵、海苔をかけてダイニングテーブルの籐椅子に腰掛ける。と、スプウンを忘れたことに気付いたのか、またキッチンのほうに来てスプウンをとるとにやりと笑った。
「やるからには優勝するから」
まったく、いつまでこの幼い笑顔が見れるのか、と真紀は小さく溜息を吐く。
「今度は何に呼ばれたの? サッカー、剣道、それとも囲碁? ああわかった、バレーでしょう?」
「いいや、水泳だよ。たく俺は根っからの文芸部だってのに」
いつまで呼ばれんだよ、と嘆く息子の顔には、しかし口元が嬉しそうだ。息子は幼い頃から文武両道で、なにもしていなくとも何でもできた。だがしかし海苔だけはどうも苦手で、それを克服しようと最近は積極的に食べては偶に吐く。
「そんなに嫌なら食べなくてもいいじゃないの。海苔は食べられなくてもそんなに困らないでしょ?」
「そんなことない。寿司だってかつ丼だってうどんだって海苔付きなんだ。修学旅行の時すごく困ったからな」
それを聞いた時、真紀はなんだかどうでもよくなって、はいはいそうですかと流した。
息子は籐椅子に座ると楽しそうに、まったく楽しそうに某丼をスプウンで掬っては口に運んでいる。真紀はラジオをつけるとニュースに耳を傾けた。すると、明日は今日よりも暑くなるでしょうと川城氏が喋り、息子が「あ」と叫んだ。
「ちょっと取ってくる」
そう言うと、息子は綺麗になったお茶碗をテーブルに音を立てて置き、急いで階段を上がっていった。
息子の姿が見えなくなると、急に寂しくなって包丁を握りなおした。そうしていると、なんだか偶に死にたくなる。
その日も死にたくなって、その時あのニンギョウに出会ったのだ。
『あのねあのね。あなたにだけはおしえてあげる』
ラジオからの奇妙な声に、真紀は眉を顰めるのも忘れてガラケーを振り返った。
『あのねあのね。わたしは、あなたのねがいをかなえるもの』
そのラジオからの声は、なんというかうつくしかった。一切の感情を感じさせないようで、計算されつくした慈悲の感情が見えるようだ。気味が悪い。
少女の声は語った。
『わたしは、あなたのねがいをかなえるの』
『あなたはしにたい。だからころしてあげる』
するとガラケーだと思っていたものは古びたラジカセに代わり、やがて小さな人形へと変わった。目が透き通るように青く、頬は赤く、髪は緩やかな波紋を描く。小さな口がどこか愉快気に奇妙な笑い声を立てる。美しいニンギョウは笑うだけではまだ物足りないのか、その場でネジが回るようにくるくると回った。
「私は知ってる。あなたを知っている。どうして忘れていたのだろう」
いつかと同じようにニンギョウはクルリくるりと回りながら、真紀は呆然としながら述べる。
「あなたは息子と夫を殺した、私はそれを見て愕然としてきいた。どうして私ではなく二人を殺したのか」
『だってわたしは――――だもの』
「当時もそう答えたよね」
真紀はどんどん自分が冷静になってゆくのをこわごわと感じていた。
そうしてどんどん自分の仮説に自信を持ってゆく。
「私はあの日初めてあなたに会って、数瞬後に私の前に息子と夫が死んでいたわ。そうして気づいたらここにいて、私は『ああユメだったのだ』と都合の悪いことは忘れて思った。……でも違う」
『だってわたしは――――だもの』
「思い出したの。私は高校生だったかもしれない。ラジオが好きな高校生。ある日、壊れたラジカセからあなたがでてきて、私はお願いしたのね」
息子も夫も春子さんも、想像上の産物だ。当たり前だ、半分不良のようだった自分から、あんなにいい息子が産まれてくるだろうか。ここはラジカセの中なのか、もしくはあの世というやつか。
『だってわたしは おんのまき だもの』
「どうか私を、苦しくしてください、と」
西宮春子は、窓からラジカセのニンギョウと音野真紀を眺めていた。
やかんが湯を噴き出し、雨音が耳につく。