ゴールドマラソン(短編 26)
陸上競技場のトラック。
マラソンランナーたちはスタートの号砲を待つばかりとなっていた。
「本日は、往年の名ランナー、マスダさんをお招きして、第一中継車からの実況生中継になります。マスダさん、本日はよろしくお願いします」
アナウンサーが解説者マスダ女史を紹介する。
「はい、どうもこちらこそ。選手のみなさん、今日のレースはぜひ完走してほしいですね」
マスダのキンキンとした音声がテレビ中継のマイクを通してひびいた。
「ではレースの前に、ゴールドマラソンについて説明を。まず参加資格ですが……」
アナウンサーが解説を始める。
百歳以上の選手のみが参加する男女混合レース。今ではオリンピック正式種目になっており、今大会はその選手選考もかねていた。
ちなみに、六十歳以下がアイアンマラソン。六十歳を超えると二十歳ごとに、ブロンズ、シルバーと区分される。
本日のゴールドマラソンには百名あまりのランナーが参加しており、うち七名が招待選手で、いずれも過去に実績のある名ランナーだった。
男性選手では、セコ、ナカヤマ、ソウ兄弟と、そうそうたる顔ぶれ。国外からは、ローマと東京オリンピックを連覇したエチオピアのアベベ。女性選手ではタカハシ、ノグチと、両名とも過去のオリンピック金メダリストである。
スタートの号砲が鳴った。
ランナーたちは、まずトラックを一周してから競技場を出る。
「マスダさん。いよいよスタートしましたね」
「こうして走る姿を見ていると、わたしも一緒に走りたくなりますわ」
「マスダさんは、どうしてマラソンをおやめに?」
「高血圧、糖尿病、リウマチ、まあ、いろいろありまして……」
「おやっ、どうしたんでしょう?」
アナウンサーがグランドを指さした。
スタートライン付近に、まだ十名ほどのランナーが残っている。
ボーと立っている者。
座って芝をむしっている者。
はたまた寝そべっている者さえいる。
競技係員がしきりに声をかけるも、一人として走り出そうとする気配がない。
「あの選手たち、スタートを待つうちに走ることを忘れてしまったんですよ」
マスダが笑顔で解説した。
先頭の集団がトラックを周回し、競技場のゲートを抜け出た。それに後続のランナーたちが続く。
スタートして五分。
十名ほどのランナーが、いまだにトラックをまわり続けている。二周、三周、四周と……。
「ゲートがわからないのでは?」
「そうなんです。ゴールドマラソンではよくあることなんですのよ」
なにしろ百歳を超えている。痴呆のひどいランナーにはちょくちょくあることらしい。
運よくというか、競技場を出発したランナー。ややもするとコースをはずれてしまう。誘導員の指示をやたらと受けながら走っていた。
沿道にあふれる老若男女。大勢の者が小旗を打ち振り、選手たちに大きな声援を送っている。
コースを先導するオートバイ。
ランナーを誘導するオートバイ。
最後尾のうしろを走るオートバイ。
さらに……。
へたったランナーを救う救急車。
こぼれたランナーを拾う関係車両。
逃げるランナーを捕まえるパトカー。
あちこち、なんともにぎやかであった。
「あっ! いま三人ほどコンビニに入りました。トイレでしょうか?」
アナウンサーがマスダに質問をふる。
「そうかもしれませんね。でも過去のレースでは、ジュースやお菓子のタダ食い。そんなことがたくさんあったんですよ」
マスダはマラソン解説のベテラン、異常事態の発生にものんびり笑って答えた。
「招待選手の七名はトップ集団に残っています。さすがですね」
「完走率が五パーセントを超えるよう、みなさんで祈りましょうね」
とにかくマラソンのはずだが……ここにきて、すでになにがなんだかわからなくなっていた。
五キロ地点。
アベベが先頭集団を引っ張っていた。
十名ほどの集団には、セコ、ナカヤマ、ソウ兄弟、タカハシ、ノグチの招待選手全員が残っている。
だが残念なことに……。
すでにこの時点で、一般参加のおよそ半数以上の選手が棄権や失格でレースから脱落していた。
逆走する者。
横道にそれる者。
コンビニに立ち寄る者。
はたまた沿道の声援に加わる者。
とにかくそれぞれが、さまざまなことで脱落していたのであった。
「一般参加ではありますが、地元のニシムラ選手にはぜひともがんばってほしいですね」
ニシムラの顔と胸のゼッケン番号がアップでモニターに映し出される。
「はい。彼は七十八年前、このコースのアイアンマラソンで優勝してるんですよ。ふだんからこのコースで練習をしている、そんな話を聞いています。ぜひ、優勝争いに加わってほしですね」
ニシムラの顔には大粒の汗が浮いている。百五歳の老体を、必死に前へ前へと走らせていた。
スタートして十キロ。
ランナーたちは海岸通りを走るようになった。強い海風がランナーたちを苦しめる。
「二時間を切っています。なかなかいいタイムじゃないですか?」
「オリンピック参加標準タイムの十時間、十分クリアできるタイムです」
「情報によりますと、ランナーが三十名を切ったそうです。ずいぶん減りましたね」
「ゴールドマラソンはこんなものなんですよ」
マスダはいたって冷静である。
「マスダさん。さきほどからソウ兄弟の姿が見えませんね」
「ええ、わたしも気になっていたんですが……二人とも先頭集団にはいませんね」
「第二中継車に確認しましたが、後方にも姿が見えないそうです。ですが、棄権という情報もありません」
「二人そろって、どうしたんでしょうね?」
ソウ兄弟が行方不明となった。どこで、なにをしているのだろうか。
「あっ、アベベ選手が!」
アナウンサーが声をあげた。
アベベが走るのをやめた。対向車線を横断し、さらに歩道を越え、海に向かって立ち、防波堤で立ちションを始める。
「おっ、セコ選手も」
続いてセコも、アベベのとなりに並んだ。負けじと立ちションをする。
「あの二人、コースにもどれますか?」
「どうでしょう、とても心配ですね」
結局……。
両名ともコースにもどることはなかった。
アベベは波を見ていた。
セコはカモメを見ていた。
ここで、アベベとセコは脱落。
「過去に二人とも、アイアンマラソンでは二時間十分を切る好タイムを出してるんです。今回の脱落、とてもくやまれますね」
マスダがくちびるをかみしめる。
「残った選手には、なんとか最後までがんばってほしいものです」
「期待しましょうね。ナカヤマ、それに女性ではタカハシ、ノグチといった、すごい選手がまだ残っていますので」
「たったいま、ソウ兄弟の居場所がわかりました。二人そろって、海辺の水族館でイルカショーを見ているそうです」
「あの二人、練習もずっと一緒でしたからね」
マスダは、なるほどと大きくうなずいた。
ここで、ソウ兄弟は脱落。
十キロを過ぎたところで……。
残念ながら七名の招待選手のうち、すでに四人の選手がレースから脱落していた。
十五キロ手前。
そこには折り返し地点があった。いったんここでユーターンし、来たコースを逆に走ることになる。
先頭集団はしぼられ、このときわずか四人となっていた。
先頭がナカヤマ。
続いてタカハシ、ノグチの女性選手二人。
少し遅れて一般参加のニシムラ。
第二集団以下は、第一中継車からは見えない。はるか後方を走っていた。
「ニシムラ選手、がんばってますね。ふだんはやさしいおじいちゃんで、魚釣りが大好きだそうですよ」
マスダがニシムラの趣味を紹介した。
「あっ!」
アナウンサーが身を乗り出した。
誘導員の制止を振り切り……。
先頭のナカヤマが折り返し地点を走り抜けてしまった。コースをはずれて、そのまま一人だけ先へ先へと走っていく。
ここで、ナカヤマは脱落。
「ターンは、ゴールドマラソンの難関のひとつなんです。ナカヤマ選手、このレースにかけていただけにとっても残念ですわ」
「マスダさん。優勝は先頭集団の三人にしぼられたのではないでしょうか?」
「ですね。でも、これからですよ。ほかの選手もあきらめず、最後までがんばってほしいですわ」
「残りの選手ですが、最後の十五番目の選手が十キロ地点を通過したそうです」
「十五名ですか……。完走率五パーセント、かなりむずかしくなりましたね」
「完走するために、現役時代のマスダさんはどういった練習を?」
「わたしの場合、欠かさず毎日、漢字の書き取りと算数の九九をやってたんです。ここが一番だいじですからね」
マスダが人差し指で、頭の横っつらをツンツンとさしてみせた。
「本日のレースで、完走できそうな選手はだれでしょうか?」
「やはり先頭集団の三人ですね。とくにニシムラ選手が有利なのでは。彼は、このコースを知りつくしているでしょうから」
「あっ、そのニシムラ選手。どうしたんでしょう、コースをはずれ、海の方へと走っています。やはり立ちションでしょうか?」
アナウンサーが振り返り、ニシムラの向かった海岸へと目をやった。
防波堤には数人の釣り人がいた。
その釣り人のそばで……。
ニシムラは大好きな釣り見学を始めた。
ここで、ニシムラは脱落。
レースは女性選手二人の一騎打ちとなった。
タカハシが一歩前を走る。
それに引き離されぬよう、ノグチは顔をゆがめ必死に追っていた。
ときおり。
タカハシは走るペースを変え、ノグチにゆさぶりをかけた。だがノグチも、顔をゆがめ必死にくらいついている。
「タカハシさん、まだ余裕がありますね。彼女、レース前に、絶好調だって話してたんですよ」
「ノグチ選手、ちょっと苦しくなりましたか?」
「でも、まだわかりませんよ。彼女、ぜったいオリンピックに出場するんだって、ケガを乗り越えて練習してきましたからね」
「優勝はこの二人のどちらか。それはまちがいないようですね」
「はい、断言していいと思います。女性のわたしとしては、二人のがんばり、とってもうれしいですわ」
しばらくの間……。
タカハシとノグチの併走が続いた。
二十キロ地点。
「いま、二十キロを通過しました。正式タイムは四時間十五分五十一秒です」
「いいタイムです。やはりこうして、二人で競り合ってるからなんですよ。このままゴールまで、ぜひ競り合いを続けてほしいですね」
マスダの期待にこたえるように……。
タカハシとノグチは肩を並べて走り続けた。
給水所が近づいた。
まずタカハシが、自分のドリンクボトルを手に取った。続いてノグチが……。
マイボトルをつかんだ瞬間。
タカハシはサングラスを道路脇に投げ捨て、そこで一気にスパートをかけた。五メートル……十メートルと、みるみるノグチとの差を広げていく。
「ノグチ選手、ここは苦しいでしょうが、離されないよう追ってほしいですね。彼女には、それだけの実力と根性がありますから」
マスダが話している間にも……。
二人の差はますます広がり、三十メートル以上となった。なおも差は広がっていく。
それから三分後。
ノグチは走るのをやめてしまった。路上に座りこんで、金魚のように口をパクパクさせている。
「心配ですね、ノグチ選手」
「だいじょうぶですわ。彼女、これまで何度も、大きな試練を乗り越えてきましたからね」
マスダの応援もむなしく、それからすぐにノグチはその場で気を失ってしまった。
ここで、ノグチは脱落。
ついにタカハシの独走状態となった。
「タカハシ選手、ペースが速いようですが、最後までだいじょうぶでしょうか?」
「彼女、オリンピック参加標準タイムを意識して走ってるんだと思いますよ。彼女の目標は、あくまでもオリンピック出場ですからね」
「いま入った情報では、脱落者が続出して、後方のランナーは一人になったそうです」
「だれでしょうね?」
マスダが首をひねる。
「とりあえずここで、いったん第二中継車に中継をバトンします」
さて、第二中継車。
タカハシから遅れること、およそ三キロ。ゼッケン99番が走っていた。
大会資料によると……。
氏名はコバヤシケイスケ (自称バンビ)。
性別は男、年齢は百歳。
今回のレースが初マラソン。
趣味は朝夕の晩酌、読書、パチンコ、カラオケ、マジック、テニス、卓球、ジョギング、囲碁、露天風呂巡り、家事手伝い、短歌、童話創作などなど……やたらと自己申告してあった。超高齢者にしては趣味が山ほどある。
コバヤシはたんたんと走っていた。
沿道の声援には笑顔でピースサインを返す。さらには若い娘らに手を振るなど、その走りは余裕しゃくしゃくである。
「おじいちゃん、がんばってー」
「ステキよー、おじいちゃーん」
女子高校生の黄色い声援が飛ぶ。
これに力をもらったのか、ただたんに年寄りの色ボケなのか……。コバヤシの走るペースが、がぜん上った。自称バンビのごとき、ピョンピョンとはねるように走り始めた。
中継車を追い抜き、さらには先導バイクをも追い越した。
コバヤシは速かった。
とにかく速かった。
すごく速かった。
こちらは第一中継車。
ゴールの陸上競技場ゲートまで、あと残るはわずか三キロばかり。
「三百メートルほど後方に、ランナーの姿が見えました。コバヤシ選手ですね」
アナウンサーが後方を見て言った。
99番のゼッケンが、すさまじいピッチで追い上げてくる。予期せぬ展開となり、ここでレースは一気に盛り上がってきた。
「コバヤシ選手はまったくの無名ランナーです。しかも今回が初マラソンだそうです」
「すごいことになりましたね。これぞゴールドマラソンですわ」
マスダも興奮をおさえられずにいる。
タカハシはペースが落ちていた。百五歳という年齢に加え、ノグチとのカケヒキで体力をしこたま消耗していたのだ。
「この中継車からも、コバヤシ選手の姿がはっきり見えるようになりました。タカハシ選手との差は、もう百メートルないのでは……」
「八十メートルぐらいですね。それにしてもコバヤシ選手の追い上げ、みごとですわ」
「どうでしょう、マスダさん。コバヤシ選手、追いつくんじゃないでしょうか?」
「このままのペースであれば、それも十分に可能だと思いますよ」
「どちらかが優勝するとして、オリンピック参加標準タイムの方はどうでしょう?」
「微妙ですね。タカハシ選手、ずいぶんペースが落ちましたから」
「できれば二人ともクリアして、二人でオリンピックに行ってもらいたいですね」
「はい。ぜひそうなるよう、みなさん祈りましょう」
マスダは胸の前で手を合わせた。
陸上競技場が見え、ゴールまであと一キロほど。
コバヤシは、ついにタカハシをとらえた。そのまま一気に抜き去る。
その背中を必死に追うタカハシ。だが消耗し切った体力。口からアワを噴いて、フラフラと路上にくずれ落ちてしまった。
ここで、タカハシは脱落。
レースは、ついにコバヤシを残すだけとなった。あとはオリンピック出場をかけ、参加標準タイムをクリアするのみである。
だれもかれも祈った。
沿道で声援を送る者たち。
テレビの前で応援をする者たち。
日本全国民が手を合わせ祈った。いままさに誕生しようとしている、ゴールドマラソン界のニューヒーロー、コバヤシの完走を……。
だが、コバヤシは期待をみごとに裏切る。
三台のオートバイを振り切り、五台のパトカーをかわし、十人の誘導員をはね飛ばし、競技場の前をすんなり通過した。
コバヤシは、まっすぐ、まっすぐ、走り続けた。もくもくと走り続けた。
――晩ごはん、カレーだったらいいな。
そんなことを考えながら……。
愛妻の待つ我が家へ向かって、ひたすら走り続けたのだった。