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恐怖


 聖伐隊の、とある駐屯所。

 静かな、真っ白な部屋。狭いが、中にいるのは椅子に腰かけて本を読む一人の少女だけ。壁を埋め尽くす棚に飾られているのは、粉の入った沢山の小瓶。

 窓から差し込む光以外の光源がない部屋の扉が、二度ノックされた。


「ティアンナ様、マリオ様がお戻りです」


「通して頂戴」


 椅子に座っていた少女は、ティアンナだ。

 そして、扉を開けて入ってきたのは、杖をつき、体中に包帯を巻かれたマリオだ。

 あの戦いから、実に四日が経っていた。ティアンナは部下が全滅したと思っていたが、後にフィルミナの滝に向かった聖伐隊の隊員から、マリオだけが辛うじて生存しているのが発見されたのだ。

 必要最低限の治療が施されていたようで、ティアンナはそれを、ハーミスの甘さだと考えた。昔から魔物ですら治療していた相手だ、情が沸いたのだろうと。


「お帰りなさい、マリオ。あの戦いでヴィッツは死んだようだけど、貴方だけは無事で見つかったと聞いたの。貴方を呼んだのは、もう戦わせる為ではないのよ」


 ティアンナはゆっくりと椅子から立つと、マリオを跪かせ、彼の前に立つ。

 いつものように、洗脳で人を支配する為の儀式。『支配者』の務めだ。


「ハーミス達についての情報を、もう一度洗脳して引き出す為に呼んだのよ。さあ、もう一度私に近寄って、私の目を見て。そして、私の駒として最後の務めを果たしてね」


 二人の目が合う。洗脳の準備が完了し、あとはあの言葉をかけるだけ。


「『従え』」


 たった一言が、あらゆる人間や魔物を支配する。このスキルがあるからこそ、ティアンナは恐れも畏怖も知らず、支配者として悠々と生きて来られたのだ。

 誰も逆らえない、抗えない。これまでずっと、魔女ですらそうだった。


「――『条件』を達成しました」


「えっ?」


 だからこそ、こんな反応は初めてだった。

 ティアンナは一瞬、自分が幻聴にでも見舞われたのかと思ったが、違う。マリオはドロドロに濁った瞳で、意味不明の言葉を何度も繰り返している。しかも、手足がくっついていないかのような奇怪な動きを繰り返しながら。

 聖伐隊の隊員を呼ぼうとした。この異常者を引きずり出せと命令しようとした。


「条件を達成しました、条件を達成しました、条件を――」


 それよりも先に、彼女の視界を、火と、光と、轟音が覆った。

 マリオの体が僅かに膨らんだかと思うと、部屋中を巻き込む大爆発が起きたのだ。

 彼女の体は吹き飛ばされ、棚が破壊される。窓が割れて、美しく白い壁の塗料が剥がれ落ちる。その上から、全てを炎が舐め回し、煙が支配し尽くした。


 ――実はこの爆発、ハーミスが用意した『人体爆弾化装置』によるものである。

 人間に組み込むことで生体の一部となり、事前にセッティングした条件が達成されると、周辺を巻き込んだ大爆発を起こす。今回の場合は、ティアンナが接近する、或いはもう一度催眠を仕掛けるのを条件に設定し、発動した。十五万ウル。

 あまりに非人道的なこの兵器を使う為に、ハーミスはわざとマリオを治療し、戻って来られる状態にしたのだ。この外道ぶりには流石のクレアも引いたが、外道には外道をぶつけるのが一番良いのだと、意見が一致した。


 さて、部屋の中は完全に破壊され、椅子も、本も粉々に吹っ飛んだ。


「……な、に? なにが、おきた、の?」


 それでも、ティアンナは仰向けで、棚の下敷きになりながらも生きていた。

 尤も、生きているのと無事であることとの間には、天地の差があった。


「あ、あら……? わたしの、からだが? あしが、どこに、いったの?」


 消し炭塗れ、血塗れのティアンナが首を下に向けると、あるべきところに足がなかった。腰もなかった。腹から下が完全に消し飛び、内臓がまろび出ていた。なのに、突き刺すような痛みも、焼くような痛みもなかった。


「それに、あたまもいたくて、なんで……っ!」


 あるのは、頭を締め付けるような痛みだけだった。

 肺に燃えカスが入ってくる不快感に耐えながら、存在しない下半身ではなく、頭痛の原因を探すほど狂乱したティアンナの視線の先に、倒れた棚が見えた。

 そして、その先にある、大量の割れた小瓶も。

 中身はない。宙に舞ったのだろう。だとすれば、空気を吸い込んだ時に――。


「け、けし……まさか、わたし、けしをすいこんで……!?」


 棚に飾ってあったのは、大量の『髑髏芥子』。

 それが入っていた、殆ど全ての小瓶が割れている。燃え尽きたのなら良いが、飛散したものを倒れている間に吸い込んでしまったとすれば、自分に何が起きるのか。


『――来い』


 果たして、答えは直ぐに出た。

 突然、世界が暗く染まった。夜になったのでも、視界を奪われたのでもない。絵の具で塗りつぶしたような闇に、完全に染まったのだ。しかも同時に、自分の体を、闇の中から突き出た腕が掴んだのだ。


「……っ!?」


 恐怖を感じないティアンナの額を、一筋の汗が伝う。黒い瞳が、大きく見開く。

 ずるりと、腕が増える。一本、二本、三本、もっと、もっと。

 顔に、手に、体に纏わりつく。どこかに連れて行こうとするかのようにへばりつく腕の正体は、たちまち明らかになった。


『お前も、来い。こっちに、来い』


 無数の顔が、ティアンナの前にあった。宙に浮くように、地面と平行になるように。

 いずれの顔にも、見覚えがあった。特務隊の少女、ヴィッツ、マリオ、聖伐隊の隊員。どこかで何の気なしに洗脳して玩具にした者までいる。

 それらが一様に、怨嗟の声を放っているのだ。


「――――――――ッ!」


 ティアンナは生まれて初めて、恐怖で絶叫した。

 死した者は帰ってこない。だから自分は支配者で居られたのだ。ならば、死した者が帰ってきたとすれば、自分の常識が崩れ去った今、自分を守る存在はない。

 幻覚か、現実か。

 彼女を掴んだ腕は、体をほじくり返す。内臓が掻き捨てられ、皮膚が千切られていく。自分という存在を粉微塵にしてしまうかのように、白い腕はティアンナを千切り、捨てて、千切り、捨ててを繰り返す。


「ん、ご、ご、おぎゅぎいいいいいいぎいいいいぎぎぎぎぎぎぎっぎ」


 声にならない声を上げる。その声が目障りだと思われたのか、舌を引き千切られる。


「ひゅひぇえええええ! ひゅぎぐ、ぐ、ぐうぐぐぐうううう」


 まだ喧しいと思われたのか、歯を引き抜かれる。怒り狂う白い顔を見たくないと目を瞑ると、無理矢理こじ開けられ、不要なのかと思われ、眼球をくり抜かれる。

 耳を引き千切られる。髪を抜かれる。それでもまだ、怨嗟の声は聞こえ続ける。


『お前も、来い』


 もう、やめて。

 ティアンナの懇願を聞く者など、誰もいなかった。


 爆発が発生してから少しして、ティアンナの遺骸が部屋から発見された。

 爆風で下半身を吹き飛ばされた彼女は、自ら目を抉り、耳を引き千切り、舌を抜き、内臓を掻き出したようだった。しかし何より目を引いたのは、その顔だった。


 一秒で、百年は老けたような顔。

 生まれて初めての恐怖を知った『支配者』は、二目と見られない形相で死んでいた。


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