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二章 キャリアウォーマン

 大都市・大阪は活気に満ちていた。積み重なる車の排気音、響き渡る雑踏、どこからも聞こえる話し声。都市さながらの音が溢れていた。

 それでも東京とはどこか違う印象を持った。先入観やイメージによるものかもしれないが、どこか人情味のある混雑という感じがある。明るい表情の人たちが気持ち多いように思った。

 とりとめないことに意識を持ちつつ足を早めた。約束の時間が近づいている上に、想像以上に街が入り組んでいて若干迷ってしまった。おまけに今日会うやつは時間にうるさく、待たせてしまうと特に不機嫌になってしまうから、なおさら気が急いていた。学生時代に大幅に遅れてしまい、かなりどやされた記憶が今も鮮烈に刻まれている。

 果たして待ち合わせ場所にたどり着いたら、お目当ての人物はいた。ピンクのイヤホンで音楽を聞きつつ、眉間にシワを寄せて黒いアンドロイドを眺めていた。機嫌が悪いのか時折ベリーショートの髪をかきむしっていた。ジャケットに白いシャツ、ジーンズという軽快な服装をしただけに、苛立ちが浮き彫りになっていた。

 近づいてきた俺に気づいて顔を上げても、しかめっ面は変わらなかった。ヤバッ。遅刻してしまったか。

「や、やあ。夢子。ま、待たせたな。すまない」

 ぎこちなく口角を上げ、震えながら手を上げた。久しぶりに会う人間かつ待たせた疑惑でかなり緊張してしまった。

 先方はスウと目を細めて俺を見た。一言も発さず、微動だにしなかった。うわっ。めっちゃくちゃ怒ってる?

 手の平に汗が滲み出し、なんと言い訳しようかあたふたとし出したら、

「ぷっ」

 と夢子は吹き出し、

「あははは!」

 と、腹を抱えかねない勢いで笑いだした。

「時間通りに来てるんだから堂々としてろよ! なにキョドってんだよ! もっと自分に自信を持てよ!」

 無駄に偉そうなお言葉をのたまっていた。どうやらコイツにいっぱい食らわされたようである。こちらが仏頂面になると、またアハハと笑って、

「ごめんごめん! 気を悪くするなって」

 それからフッと顔を和らげて、

「久しぶりだな。元気だったか?」

 それなりに長い友人に見せるような笑顔を作り出した。イタズラめいた歓待に内心あきれつつも、

「ああ。お前も元気だったか?」

 と口にした。たぶん、目の前のやつと同じような表情をしていたと思う。



 窓から見下ろす景色には大都市らしく高いビルがそびえ立っていた。数年前に話題になったあべのハルカスや天王寺動物園が見えていた。おっと。たしかあっちの方にうちの支社があったっけ。

「大阪に来たらとりあえずここだろ」

 というおすすめに従って、俺と夢子は通天閣に登っていた。同じような考えの人たちが多いのか、多くの観光客で賑わっていた。記念撮影の呼び込みの声が響き渡るなど、スカイツリーとは異なる種類の活気がある。隣の学生グループから、

「うっわ。下の車ちっさ!」

 という声が聞こえた。彼らは手すりから見を乗り出して、地上世界を見下ろしていた。興味本位で真似してみると、米粒サイズの人や車が動き回っていた。たしかに小さいな。

 ここから落ちたら一瞬で死ぬんだろうな。そんなことが頭に浮かぶと、次々と場面が展開していった。突然周りのガラスが割れ、自分が地面に吸い込まれていく。今まで感じたことのない強烈な痛みが身体中に駆け回る。観光客が次々と悲鳴をあげていく。

 そんな死に方を想像していると手が震え始めた。これは不味いと思って気を紛らわそうとした瞬間に腕を掴まれた。

「おい。大丈夫か?」

 怪訝な顔をした夢子がいた。これはイカンイカン。

「大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけだ」

「そっか? ならいいけど」

 友人は心配げな顔をしていた。話を流すために、

「夢子。最近、仕事はどう? まだ新聞記者を続けてる? たしか地域欄担当だったよな?」

 関係のないことを聞いてみた。

「ああ? ハゲオヤジを殴りてえ感じ」

 ころっと俺のことは忘れて、過激なセリフを吐き捨てた。おいおい物騒だな。

「ハゲオヤジが聞いてるかもしれないぞ」

「ああ? 知るかよ」

 髪を軽くかきむしりながら続けた。

「かわいいだけの先輩をちやほやするわ、俺がスマホやパソコン苦手なのをイジるわ、挙げ句の果てに『夢子ちゃんの言葉ってきたないね』と口にするわ。まじでウゼえ」

 お、おう。学生の憧れの新聞記者になっても、苦労することあるんだな。てか、言葉遣いはかなり汚れていると思うぞ。いまどき男でもそこまで壊してないかと。

「ま、それでも悪くわないわな。わりかし給料もらえるし、取材先で外を歩き回れるしな。社内でチコチコ仕事していたら気が狂いそうになるわ」

 そしてニヤッと笑った。そこにはどこかタフさのある表情をしていた。コイツは張り合いのある生活を送っているようだ。

「オメエはどうなんだ? 武美とすることしているか? ちゃんと満足させてるか?」

 真っ昼間に何ぶっこんでんだよ、こいつは。中学生か。

「黙秘する」

「ちぇっ。つまんねえな」

 そうして夢子は黙った。僕もなんて言えばいいか言葉を探した。そうして、お互い気まずくなるような沈黙が数秒続いた。

「……実は最近ちょいと参ってる」

「へえ?」

 向こうは続きを待っているようだ。とはいっても、本当のことを言うのも憚れるな。

「……仕事がうまくいかなくて」

 当たり障りのないことをいった。まんざら嘘でもないし。

「何でうまくいかないんだ?」

 深堀りしてきたよ。まあ、仕事がらそうなるか。回答を頭の中でひねっていると、

「……武美との運動は程々にしたほうがいいぞ」

「ちげえよ! メンタル面の方だよ!」

 思わずノリツッコミをしてしまった。

「メンタル? お前、そんなにナイーブな神経してたっけ?」

 もう一段踏み込まれた。もう隠すのもバカバカしくなって、

「急に『死』が怖くなったんだよ。特に病気にもなってねえのに。自分が将来死ぬことを考えると、身体が震えたり気詰まりになって。仕事で何度もミスっちまって。それで気晴らしも兼ねて大阪に来た」

 まだ会社にも武美にも話していないことを、いつの間にか口にしていた。突拍子もないことに対しても女友達は茶化さず、口を挟まず、淡々とした表情で耳を傾けていた。

「……そっか。大変だな」

「……ああ。大変だな」

 再びふたりとも何も発さない状態になった。今度は成るべくして成ったという気持ちになったので、無理になにか言おうとしなかった。

 急に通天閣のざわめきが大きくなった気がした。耳の奥にざらざらした音が響いた。反射的に自分の耳を抑えた。

 夢子はエレベータの方に歩き始め、

「……出るか」

 ポツリと呟いた。

「……ああ」

 俺も異論は唱えなかった。二人してゆったりとしたペースで出口に向かった。もうすでに通天閣を登ったときの高揚感はなかった。大阪の賑やかさに対して、どこか壁のようなものを感じた。



 街道に出て外の風にあたると、多少はすっきりした心持ちになれた。人通りは少なく、どこかの修学旅行生が記念写真を撮っているのが目立つ程度だった。俺たちはあてもなくフラフラと歩いていた。

「……中、どっか行きたいとこあるか?」

「うーん」

 ぶっちゃけ今回の旅は友人に会うのが目的なので、観光することを全くといっていいほど考えていなかった。ので、夢子に聞かれて途方に暮れた。礼儀的にしばしば思案している素振りを見せ、

「……道頓堀かな」

 と提案した。

「……オメエな、いま適当に思いついて言ってるだろ」

 バレたか。数秒言い訳を考え、

「まあまあ、あんなにテレビで出てるんだ。俺だって見たくなるさ。行こうぜ行こうぜ」

 と伝えた。

「……ったく」

 しぶしぶという効果音を頭の上に乗せながらも案内しだした。なんだかんだ面倒見とノリの良い夢子ちゃんである。

 しかし、十歩くらい歩いたあたり突然止まりだした。合わせて俺も足をストップさせた。

「なんだ? どうした?」

 前方に目を向けると、人々がざわついていた。話し声に耳を傾けてみると、

『おいおい。あれなんだ?』

『なんであんなのがいるんだ?』

『どっかから逃げてきたのか?』

 うーん。なんか得体のしれないものがいるらしいな。とはいえ、変に巻き込まれるのも嫌だしな。触らぬ神に祟りなしだ。気にせず通りすぎるのが一番。

 ということを俺の連れは考えていない様子が見られる。アメフト選手張りに野次馬の山をかき分けていった。慌てて俺もアイツのあとを追っていった。かなりの人がいて中々前に進めなかった。よくこんなのをすり抜けてられたな。

 人混みの前に出てると、ピンク色の大きな鳥がいて、五月の風を涼しそうに受けていた。……あれってフラミンゴだよな? 日本に生息していたっけ?

 じっと見ていたらバッチリと目があってしまった。先方が首を軽く下げたので、こちらも思わず会釈してしまった。……何やってんだ。

 夢子は新聞記者らしくこの状況をすばやく手帳にメモを取っていた。

「……五月X日十五時十分。……通天閣付近にて。……毎朝新聞の記者望月夢子が。……路上を歩いているピンク色をした鳥を発見。……プライベートで外出したところ偶然目撃した。……外見からはフラミンゴと想定される。……動物園から逃げたものか。……付近に飼育員は見られず」

 ブツブツ言いつつ、現状を把握していった。パッパッパっとメモを取ったらカバンにしまい、代わりにキヤノンの小型デジタルカメラを取り出して被写体に向けた。その動きに全く無駄がなく、いかにもプロというオーラが合った。へえ。コイツもちゃんと仕事をしているんだな。

 と、感心できたのも束の間だった。電源を押しつつサッと構え、絵になる構図で写真を撮る。ということをしようとしていたと思われるが、いきなり夢子は舌打ちしながらボタンを連打し始めた。横から覗き込んでみると画面にバッテリーがない旨が表されていた。

「ああ、もう!」

 軽く髪をむしったあと、電池電池と言いつつ荷物をあさり始めた。災難だったなあと思い眺めていると、一向に見つかる気配がない。どんどんガサゴソの音が大きくなっていく。「お前、バッテリー忘れた?」

 口にした瞬間、やぶ蛇だと気づいたが時すでに遅し。クワッと見開いた目を無言で俺に見せた。こっちは静かに二三歩ほどツツッと下がった。

「中よお、最近のスマホは性能いいんだよ。カメラなんて使わなくたっていい写真取れるんだよ。俺を侮るなよ」

 半ギレで八つ当たりをして、ポケットからスマホを取り出した。そして電源をポチッと押したところで固まった。画面は真っ黒いままだった。何度やっても変わらず、十秒くらい長押ししても解消されなかった。弱り目に祟り目とはまさにこのことだな。

 さすがの夢子も打ちのめされたのか、肩をがっくりと落として精彩を欠いた表情になった。目もわずかにうるみ始めた。

「……あんなにバッテリーあったのに。……なんで動いてくれないんだ。……どうして俺を拒絶するんだ」

 これはこれは。IT音痴をイジられるのもわかる気がする。

「……ここまで頑張ってきたのにどうしてかな。……なんでなのかな。……俺って記者に向いてないのかな。……辞めようかな」

 痛々しいまでに落ち込んでいた。そう言えばコイツって打たれ弱い部分があったな。はあ、と内心ため息をつき、

「ちょっと貸して」

「えっ?」

 多少強引にスマホを手にとった。ボタンを二三度軽く押しても画面に変化はなし。五秒くらい長押ししても変化なし。バッテリーの消費量を全然気にしている素振りがなかったら、十分にあると推測される。

「となると」

 ボタンを五秒十秒ではなく一分ぐらい押し続けた。すると画面に隣国の製造会社名が浮かび上がった。どうやらスマホ内部のプロセスがハングったのが原因で、画面がフリーズしていたようだ。

 夢子はスマホが使えるようになる状況を、目を丸くしながら見ていた。

「ほらよ」

 そう言って持ち主に返した。

「……サンキュ」

 ぶっきらぼうに礼を行って、再び仕事に入った。手にとったスマホでパシャパシャと撮影した。写っている画像は素人目にもキマったアングルに見受けられた。

「あ、悪い。ちょっと仕事させてくれ」

 今更思い出したように加えた。

「どうぞどうぞ。こっちは見学させてもらうよ」

「すまないな」

 友人はまた記者の仕事に取りかかった。ノートPCを開いてキーボードを打ち始め、並行して誰かとスマホで電話していた。

「ええ……。ちょうど現場にいます……。はい……。写真も撮りました……。ええ……。原稿もちょうど書いてるところです……。はい、梢先輩の手は煩わせません……。失礼ですね、私だってやるときはやるんですよ……。まあ、ちょっと友人と一緒にいますが……」

 話している間はずっと文字を打つのをやめなかった。北斗の拳のごとく指打ちではなく、片手でちゃんとタッチタイピングをしていた。そして現場に進展があったら都度カメラを向けていた。

 おお。情報技術に弱いのを除いたら、デキる女オーラが出てるぞ。父ちゃん嬉しいぞ。もう俺から言うことは何もないな。温かい目をして眺めていると、

「中……。Wifiつながらない……。助けてくれ……」

 すがるような目をしてお知恵を拝借してきた。やっぱり父ちゃん心配だぞ。



 その後も夢子記者の奮闘は続いた。やれメールを送信できない、やれマウスが動かない、やれキーボードを押すと変な画面が出る。四苦八苦しつつも原稿を仕上げていった。

 いくばくかの時間が過ぎたあと。ベンチに座っている俺らの前に一人の女性が近づいてきた。

「ごめーん。夢子ちゃん。遅くなっちゃった~」

 バッチリ決めたメイク、規則ギリギリに染めた髪、お金をかけてそうなブルーニット、という随分ハデな方だった。こんな新聞記者もいるんだな。

「大丈夫です。梢先輩が来られる前に私の方である程度は書いたので」

 そう言ってパソコンのディスプレイを女性の方に見せた。

「夢子ちゃん、これ裏とった?」

「まだです。落ち着いてから聞き込みに入る必要あるかと」

「この段落で職員が捕獲した、ってあるけど写真ある~?」

「はい。私のスマホに収めました。後ほど転送します」

「フラミンゴちゃんは通行人に怪我させなかった?」

「一応、私がここに来てからはございませんでした。こちらも裏を取る必要があります」

 夢子は質問に対して一つひとつ理路整然と答えていた。先輩記者はウンウンうなずき、たまに原稿の修正を指示していた。先方の表情を見るに悪い出来ではなさそうだ。手伝った甲斐があったもんだ。

 それなりに時間が経った頃、

「ところで、夢子ちゃん。ひとりでちゃんとパソコン使えた?」

 おお。先輩も気にしている。本当にIT音痴だったんだな。

「……。……。……使えましたよ」

 嘘つき。

「夢子ちゃん、目が泳いでるよ」

 すぐバレてるし。

「……。……。……友人に手伝ってもらいました」

「よし。正直でよろしい」

 ニコニコうなずいた後、俺の方に身体を向けて、

「望月のご友人ですよね? 本日はウチの望月がご迷惑おかけしました」

 キレイに背を曲げた。

「いえいえ。夢子の活躍している姿を見れて楽しかったです」

「そう言っていただけると幸いです」

 そうしてまたニコっと笑った。うーん、この人かわいいなあ。上司が贔屓しているっていってたのこの人なんだろうな。わかる気がするなあ。

「……ごほんごほん」

 望月に顔を向けると冷たい目をして見ていた。

「……鼻のばしてんな。武美にチクるぞ」

 そんなご無体な。先輩記者は俺と夢子を交互に見て、

「それじゃ、状況もわかったことだし、社に戻ろうかな」

 といった。夢子の方もパソコンや手帳をカバンにしまい始め、

「俺も仕事が割り込んだからここで。案内できなくて悪かったな」

 まあ、しゃあねえか。新聞記者って忙しそうだし。適当にそこらの居酒屋を探すか。そんなことを思っていると、

「夢子ちゃん、何いってんの?」

 記者さんは『バカじゃねコイツ?』という表情をしつつ、

「もう。出社しなくていいに決まってるでしょ。ちゃんとお友だちを案内しなさい」

 保育園の先生みたいなことを口にした。

「え、でも。これから原稿を仕上げなきゃいけませんし。書いたのほとんど私ですし」

 なおも逡巡した姿を見せると、先輩は呆れたようなオーバーリアクションを取った後、スウという忍者のような動きでパソコンを抜き出した。慌てた夢子を横目でみつつ、

「はいはい。仕事道具は没収するから、プライベートを充実させなさい。これは業務命令です。ただでさえ職場に若い男がいないんだから、少しは潤ってきなさい」

 友人は不本意なオーラを撒き散らしながらも、

「……はい。ありがとうございます」

 渋々ながらも同意した。先輩記者は安心した表情を見せ、

「よかった。それじゃ、楽しい夜を過ごしてね」

 軽くウインクしつつ、先輩は雑踏の中に消えてった。俺たちはしばし何もせず突っ立っていた。いつの間にか空の雲はオレンジ色に染まり始めていた。

「ええと、じゃあ適当な居酒屋に案内してくれ」

「あいよ。まあ、繁華街の方に行くか」

 こうして俺らは夜の大阪に入り込んでいった。昼間とは異なる種類の騒がしさが街中に響き渡っていた。



 とある串カツ屋にて。人気店なのか老若男女が入り乱れていた。ときおり爆笑の声が響くあたり、大阪に来た感じがした。

 俺と夢子はパリパリの串カツと冷え冷えのハイボールを片手にくだを巻いていた。

「だからよお。男はすぐ上っ面の良い女になびくんだよお。たく。すぐ騙されるんだからなあ」

 相方はすでに顔を赤らめ、日々のホコリを吐き出すように話していた。

「そりゃそうだろー。ほわほわした子に癒やされたいだろう。世界の常識だろ」

 とはいえ、俺の方もそれなりに出来上がってた。妻が聞いていたらファールになるようなことを口にしていた。

「そうだよなあ。お前は武美に首ったけだったからなあ。言った俺がバカだったよ。ああ、バカだな。バカバカ」

「バカってゆうなよお。バカって言う方がバカなんだぞ。このバカバカ」

 もはや俺らは小学生レベルのことしか口にしていなかった。頭の中ではアホらしく思うよりも先に謎の快感に包まれていた。

「おいハゲ。黙れよ」

「うっせえブス」

 確か大学時代にもコイツとは語彙力低いことばかり言っていたっけ。俺らって全然成長してないな。まあ、どこか懐かし気持ちがあるのも否めないが。向かいに座っている同級生も使う言葉こそ汚いが、どこかくつろいでいる顔をしていた。

 そばにあるグラスをつかみ、茶色い液体をあおった。とはいえ、こんな安らいだ時間も死が近づくと全部なくなるんだろうな。夢子もいつかどこかで死ぬし、死期が近づき始めると、こんな日のことも忘れる。いったいこんな生に意味なんてあるのだろうか。

「どうした中? 武美が恋しくなったか?」

 友人は軽口を言ってきた。

「いや、お前と会う時間も死んだら終わりなんだろうなって」

 おいおい。俺ちゃん何を口にしてんだい。んなこと言ってもしょうがないだろ。空気読めよ。

 自分が辛気臭いことを口にしている自覚はあった。その証拠に夢子の表情がふと真顔になるのが見て取れた。

 それっきり友人は押し黙った。俺もなんか言ったほうが良いんだろうなと思いつつも、『別にいいや』という気持ちが押し勝って無言のままでいた。三十秒から一分くらいの沈黙が続いた後、友人は口を開いた。

「俺も似たようなことを思うことあるな」

 冗談も軽口も挟まずにぼそっと言った。

「へえ」

「意外だろ?」

 たしかに予想外という印象を受けた。コイツは死を合理的に考えて、合理的に受け入れるとイメージしていた。

「昔は死ぬのは別に怖くない、っていう気持ちだったな。どうせ無になるなら恐怖も何もかもなるから、気にするだけしかたがないだろ。ってな」

 過去の夢子は俺の想像した通りだった。考え方がコイツらしい。

「ただ働き始めてからだな。なんか気が変わった」

 ハイボールを口に含んで一呼吸置いた。

「三年目くらいまではなんともなかった。死に対して特別な気持ちもなかったし、まあ人間いずれ死ぬだろ、という淡白な考えだったな。葬式と仕事が重なったら普通に仕事を選ぶような人間だった。まあ、その。本当に葬式ブッチしたことあるし」

 おお。葬式に行かない程とは。俺はそこまでできないだろうな。

「そんな不良娘だったが。いつの日からか死ぬことを想像すると『ざらっ』とした感覚があってね。それが妙に落ち着かなくさせるんだよ」

 ざらっ、とした感覚か。

「で、俺らって会社人六年目だろ? だいぶ時間が経つ感覚が早くなった気がしないか。明らかに高校・大学の七年間と密度が違う気がするだろ。実は持っている寿命は思うより長くはないんじゃね、って考え始めるわけよ。そうすると不思議なことに『ざらっ』が強くなっていくわけよ」

 さっきよりも早いペースで夢子はアルコールを口に運んだ。顔は赤みを増したが、目ははっきりした色彩を帯びていた。

「気にしないようにすると、更に強くなっていく。悪循環だな。そんなとき仕事は楽だな。ただアホみたいに打ち込んでるだけで余計なこと気にしないし。クソな上司の悪態をついていればムカッ腹の方に頭が行くしな。ただただ無理やり忘れ去ろうとしてだけかもしれないが」

 もうグラスは空になっていたのに、まだ口に運んでいた。夢子は続けた。

「正直コッチもどこで落とし所をつけるのか探し中。だからお前の旅の助けにはならねえわな」

 そう言って自嘲気味に笑った。

「そんなことねえぞ」

 反射的に答えた。友人は若干眠たげな眼を俺に向けた。

「少なくとも俺だけじゃないんだというのはわかるからな。身近な誰かが同じことで悩んでいるだけでも気休めになる。とりあえず戻ったらアホみたいに仕事してみるわ」

 コイツに礼みたいなことを言うのは久しぶりだな。向こうも少し嬉しそうに笑った。

「そりゃよかった。だったら俺もまた少しは気が楽になるわな」

 さっきよりは和らいだ表情でいった。そろそろこの話は終わりだな。わざわざ続ける必要もあるまい。

「で、一ヶ月も休みあるんだって。これからどうするんだ?」

「他の奴らにも久しぶりに顔をみせようと思っている」

「お、迅助と朋代か。なついな。朋代に至ってはニューヨークだろ?」

「武美も行っていいと言っていた。俺は貯金をかなり作ったから、アメリカぐらいたまにはな」

「おいおい。すました顔で稼いでんな」

「いえいえ。記者様ほどではございません」

 あははとお互い爆笑した。何が面白いかはわかなかったが、なんか笑いたくなった。心持ち深夜のテンションが混じっていた。時計を見るとまさに夜の深まった時刻を示している。

「さあ、天下に終わらぬ宴はなしだ。そろそろお開きにしようぜ」

 人との飲み会は名残惜しいときに終わるのが一番だ。お互い今がちょうどそのときだと思い、俺もそれに従った。

「こんどは武美と来いよ」

「バカ。お前が東京に来いよ。結婚式にだって来なかったじゃねえか」

 新聞記者は『あ。確かに』という表情をした。ばつが悪そうに頬をポリポリと掻いた後、「じゃあ、今度は俺がそっちに行く番だな」

「おお。来い来い」

「そしたら朋代と迅助も巻き込んでやる」

「いいなそれ」

「おっしゃ。同窓会開催だ高い酒飲むぞ!」

「いえい!」

「ハシゴしまくるぞ!」

「いえい!」

「中のおごりだぞ!」

「嫌だよ!」

「乗り悪いな! おーいえ! おっさん、もう一杯だ!」

「終わらぬ宴はないんじゃねえのかよ!」

「バカ野郎。宴にはロスタイムってのがつきものなんだよ!」

「意味わかんねえが、とりあえず乾杯だ!」

 そして二人してグラスをぶつけ合った。結局、お互い心に抱えているモヤモヤを晴らすことはできなかった。引き続きシンキングタイムがあり、俺はウンウン唸ることになるし、夢子は『ざらっ』とした感覚を抱き続ける。それでも今日この日、大阪で旧友と飲んだハイボールは悪くなかった。

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