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一章 旅立ち

 人は死を待って暮らしている。同時に人は死を待っていることを忘れながら暮らしている。死のことを考えないで暮らしているから、平常心で学校に行けるし、仕事に取り組めるし、誰かを好きになれる。よくできたシステムだ。

 このシステムの問題点は一つあり、心理的にでも死が身近に迫るとあっさり解除されてしまうところにある。死に関する映画を観る、親しい人が亡くなる、そして重い病気にかかる。そうするとこれまでのツケを払わされるように、抜き差しならない問いかけを突きつけられる。それは生存への不安感を強く揺さぶるものだ。

 なんでこんなことを長々と言っているのかというと、俺はひょんなことから死が怖くなり、鬱々と考えてしまうことが増えたからだ。それも特に重病になってもいなのにだ。この恐怖はときに耐え難く、ふさぎ込んでしまうことも多々ある。

 加納中。男性。二十八歳。職業はシステムエンジニア。妻帯者。健康診断ではいつも結果良好であったため、死とは無縁の生活を送っていた。



 さて、ことの発端というと実は結婚が契機だった。大学の同級生の四条武美と社会人三年目に付き合いだした。客観的に見ても恵まれた青春だったと思う。妻は人当たりもよく、ほんわかした雰囲気だったので、一緒にいて居心地がよかった。俺らは人並み以上に仲が良かった方かと。そんな距離感で、付き合って三年目にプロポーズをした。

 そのときの充実感は今でも時折思い出す。これから武美と暮らしていることを実感した。同時に結婚するという人生の目標を達成し、急速に人生が凝結した感覚を抱いた。ある種の満足感を持ち、あとは死ぬだけという考えがチラッと頭に浮かんだ。その瞬間から、死とはなんだろうと気になりだした。

 他の生物に転生するのか? 前に犬や猫だった記憶ないからピンとこなかった。天国に行くのか? 天国とはどこにあるか見当もつかないから同じくピンとこなかった。無なのかな? 個人的には一番それが近いと感じた。

 自分はキリスト教やイスラム教といった一神教を信じていないし、仏教徒といっても他人事のような響きを覚える。というと無神論ということになるのか。そうすると人生が終わったら「永遠の無」が続くという考えに行き着くのも、あっている気がした。

 では、「永遠の無」って何か? 何も意識しないのがずっと続くってことか? 百年もしくは千年とか続くことか? それとも「死んだ」という意識が永遠に続くってことか? 細かいことを考えるとジワジワ恐怖を覚えてきた。

 考えなくてもいいのに、一度考えてしまうと歯止めが利かなかくなった。夜眠る前にはもちろん、妻とカレーライスを食べているとき、一人で最近の映画を観ているとき、職場でプログラミンをしているとき。ふとした瞬間に死の恐怖がぽっかりと顔を出した。そしてあてのない不安を抱き続けていた。これが心の内だけだったらそこまで問題はなかった。厄介なことに仕事にも差し支えが出てしまった。

 あるときには、永遠の無におびえて身体中が震えてしまい、誤って押してはいけないボタンを押してしまう。それで試験機器の異常動作を起こしてしまい、職場中に大わらわ。

 あるときには、ヒヤッとした恐怖に対して、言葉を失ってしまう。それがお客様への報告中だったから、周りにどよめきが行き交う。幸いにもリーダーが代わりに報告してくれて、なんとか回避。

 あるときには、ふと百年・二百年の無ということを意識する、ということを意識してしまい、思考のループに陥ってしまった。これが一番やばい。全身から血の気がスウと引いていき、冷たい汗がタラタラと流れ出した。

「中先輩、大丈夫ですか?」

 と後輩に気を使われるほど、やばいように見えたようだ。慌ててトイレに駆け込んで鏡を見てみると、死んだような顔をしていた。死を怖がってそのまま死んでしまうなんて、本末転倒もいいところだ。

 その他、大なり小なりのポカをやらかしてしまって「これはヤバイ」と思っているところへ、課長からの呼び出しがあった。思い当たる節は多々あったので、暗澹たる気分を持ちつつ、ミーティングルームへと入った。

「申し訳ございません! 気を引き締めて取り掛かりますから、チャンスをください!」

 上司を目にした瞬間、こちらから謝罪を口にした。ここ最近の自分の不手際と焦りからつい言ってしまった形だ。

「結婚したばかりなので、まだ仕事をやめるわけにはいかないんです!」

 新婚で会社をクビになるのはあまりにもあまりにもだ。次はなんとか見つかるかもしれないが、妻の給料と失業手当だけで生活をするのは苦しいものがある。せっかく始めた新生活をここでぶち壊すわけには行かない。

 怒涛の勢いで口にしている間、相手は何も口を挟まなかった。ふと課長の方に顔を向けると、保育士のような優しい顔をしていた。

「中君。まずクビじゃないから落ち着こうか。今まで頑張ってきたから焦んなくていいよ」

 ゆっくりと諭された。顔がほてるのを感じつつも、こっそりと息を整えた。俺が正常に戻るのを見届けた後、

「とはいえ。ここ最近ちょっと変な感じがするよね。なんかあった?」

 原因を聞いてきた。正直に答えたいのは山々だが、

『死が怖くなって』

 なんて口にするのも躊躇してしまう。なんて返そうかと逡巡していると、

「いや。無理に回答しなくていいよ。人生いろいろだし」

 そういって手元のタブレットに目をやり、

「中君って有給かなり余ってるよね?」

 脈絡もなく訪ねてきた。先方の意図を測りかねたが、

「ええ……。たしか三十九日ほど余っていますが……」

 入社してからエンジニアらしく馬車馬のように働き、全然使う暇などなかった。気づけばあと少しで消滅という段階にまで来ていた。

「もうすぐ今の仕事が一区切りになると思うけど、その後一ヶ月くらい休まない?」

 へ?

「もちろん、次のプロジェクトの目処は既についてるよ。とはいえ最初はお勉強の時間が多いと思うんだ。だったら、バカンスを取って心をリフレッシュさせるのもいいかな、って思って」

 どうやら課長はメンタルを病んでミスが連発していると想定しているようだ。いや、精神面に該当するのであながち外れてはいないが。

「はあ……。まあ……」

 同僚たちも働いている中、そんな理由で休んでしまって良いのか悩んでしまう。気の持ちようと言えばそれまでだし、そもそも一ヶ月のバカンスで解消されるのかも謎だ。俺の戸惑いを察知したのか、

「まあ。今すぐ決めてというわけでもないよ。家に帰って奥さんに相談するなりして、考えてもらえれば」

 まあ、そう言うなら。

「では……。お言葉に甘えて……」

 ひとまずこの場は即断せずに回答を留保した。確かに一人で考えても埒が明かない。帰宅したら武美にも相談するか。

 話はそれでおしまいという形で、課長はそそくさと部屋を出た。俺は一人になって仕事のことを考え始めた。途中、いつもの空虚感が押し寄せ、

『いつか何もかも終わるのに、そんな休み取って意味あるのか?』

 という、退廃的な考えが思い浮かんだ。左右に首を振って、じめじめした想像を振り払った。一ヶ月の休みという勤め人としては破格の待遇を前にしても、全く心は踊らなかった。どうせバカンスを取っても、答えの出ない課題に悩み続けるだけのような気もしていた。とはいえまずは武美に話してみるか。



「いいじゃん。休もうよ」

 帰宅して妻・武美に伝えたところ、ほんわかに賛同の意を示した。その際に軽くウェーブのかかった黒髪が揺れていた。

「あのなあ……。ゴールデンウィークや夏休みじゃないんだぞ……」

 周りが働いている中、一人休むのは非常に具合が悪い。しかもそれが病気でもなんでもないのにだ。

「有給はサラリーマンの権利だよ。思いっきりパアと使おうよ。そうだよ、今こそ中が有給消化文化を作ろうよ」

 ゆっくりとした動きで拳を上げていた。俺よりも遥かにポジティブにとらえていた。やれやれ、こんな反応をされちゃ断れないわな。ふう、と軽く息を吐き、

「そうだな……。じゃあ、今まで頑張ったから少し落ち着こうかな……」

「ホント? よかった」

 妻は自分ごとのように喜んだ。それを見てこっちも安らいだ。いずれこの世を去ることになっても、コイツと結婚したことは少なくとも後悔はしないだろうな。

「じゃあ。旅行とかに行ってきたら? 私は今月忙しくて付き合えないけど、気晴らしになると思うよ」

 旅か。いいな。ここのところ全く外に出られていないから、ちょっと興味を引かれた。となると一体どこがいいか?

「そうだ。せっかくだから夢子に朋代、迅助と会ってきたら? みんなバラバラの町に行って全然会えないし」

 武美は大学時代の同級生の名前を口にした。語学のクラスやら共通の授業やらで何となく仲良くなったメンツで、学校近くの居酒屋に行ったり、旅行に行ったりしてよくつるんでいた。就職して彼奴等は地方に行って顔を合わせることもなかった。

 俺らの結婚式にも顔を出さなかったくらい疎遠になっていたが、長期休みで顔を見せに行くのも悪くはないと思った。適度に冷めた関係で、適度に打ち解けたやつとつるむのがちょうどいいかもしれないな。

「おっし。じゃあ久々に顔を見せてやるか。ノロケ話をぶちまけてくるわ!」

「……え。……やめてよね」

 武美は冷たい目をしつつボソっと呟いた。いやいや、そこまで引かないでください冗談です冗談です。

「もう。じゃあ、みんなによろしく言っといてね」

 こうして俺の予定は旅行兼顔見世ツアーと決まった。なんだかんだで少しは楽しみになってきた。どうせだったら、「死」というものに考えを巡らせながら廻るかな。そうして胸の内で旅程表を思い浮かべていた。まずは大阪でバリバリ働いている夢子かな。

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