尻屁関所問答(その偶然の虚しさ)
尻文字関所は都の南大門から尻毛街道を南に抜け、臀部山の中腹に差し掛かる、沢沿いの道にある。五年ほど前までは、屁国臭港と都を行き来する商人やら、奉公やらで随分と賑わっていたが、去年の春に、便の良い尻屁街道が海沿いを通ってからは、関所を訪れる人影はまばらである。
凍雲覆う真冬の夜半、関所役人が一人の男を伴って番所へ来た。男は欠町の魚屋の倅で、名を尻田と名乗った。悴け痩せたその姿に反し、乱髪の間から覗く眼はひたすらに鋭い。番士――名を下山尻次郎といった――は一目で尻田が常の旅人でないことを悟った
「魚屋の倅が、なぜこんな夜更けに此処を通ろうとするのだ」
尻次郎がそう問うと、尻田は一度唾を飲み込み、応えた。
「逃げ出してきたのです」
「金でも借りたか」
「いえ、尻掛けを見たのです」
尻掛けとは、悪事を身過ぎとする者たち――尻原と呼ばれる――の間で行われる、尻毛の取引のことをいった。尻毛は民の腐敗を招くものとして、政府によって持つことすら禁じられているが、心身荒び、慰めに尻毛を求めるものは後を絶たない。
「して、追われる身になったと」
「はい」と尻田は肯定の意を示した。
尻毛は禁制であるが故に、その取引を見たものは、暴力の犠牲になるが定めである。
「なぜ、奉行を頼らなかった」
尻次郎の言葉に、尻田は沈黙を返した。自らの問いが無慙であることを、尻次郎は知っていた。屁っ引き所の解体以降、都の奉行に尻原を御する力などあろうはずもない。
「どうか、此処を通ることを認めていただきたい」
尻田は額を地面につけ、しわがれた声で懇願をした。
決まりでは取り調べの上、奇きところがなければ、通行は認められる。しかし、それをしたところで尻田の窮境に変わりはない。
尻次郎は尻田の哀れに想いを巡らせた。ただ、つたがなかったばかりに、このありふれた町人は世人であることを奪われたのだ。尻次郎は関所の役人として、当たり前のように暮らしていけるというのに。
尻次郎は何と無しに空を見上げる。気づけば雲は散り、青月の冷えた光が夜の陰を静かに照らしていた。尻次郎は決意する。
「関を抜け麓の里についたら、尻棒大という男を頼れ。彼が海を渡る手はずを整えてくれるだろう」
「よろしいのですか」
側についていた役人が訝しげにそう訊いた。
「よい」
その後の尻田の行方は知れない。ただ、哀れな町人と番士の遣り取りは、離れた西の国でひそかに語り継がれている。