田中天狼のシリアスなコーチング
――結局、矢的先輩も撫子先輩も、春夏秋冬にクロールを教えるコーチとしては役に立たない事がハッキリし、消去法で、俺が彼女のコーチ役を引き受ける事になった(矢的先輩は、興味を失って、さっさと遠泳用レーンに泳ぎに行ってしまった)。
とはいえ、俺もそこまで水泳が得意な訳では無い。何とか25メートルを泳ぎ切れる程度だ。本来なら、他人に教えるのも烏滸がましいレベルなのだが、他のふたりの教えっぷりがあの体たらくなのでは致し方ない……。
俺は、遠い昔に通っていたスイミングスクールの先生の教え方を、記憶の奥から引っ張り出す。
「ええと……。じゃあ、取りあえずビート板を持って、バタ足の練習からしようか……?」
「分かった、シリウスくん……じゃなくて、分かりました、シリウス先生っ!」
「いや、先生じゃないし……何か恥ずかしいから、いつも通りでいいよ、春夏秋冬……」
「はい、シリウス先せ――じゃなくて、シリウスくん!」
「そうそう」
そんな調子で始まった『シリウス水泳教室』(何かカッコいいな、言葉の響きが)だが、ビート板でのバタ足練習までは実に順調だった。元陸上部の春夏秋冬は決して運動音痴ではなく、寧ろ飲み込みは頗る早かった。彼女はすぐに、ビート板を掴んだ状態ならば、スイスイ水面を泳げるようになった。
俺は、順調にバタ足をマスターした春夏秋冬に、今度は手での水の掻き方と息継ぎを教えようとしたのだが……。
――そこからが難関だった。
春夏秋冬は、水の掻き方に注意が向くあまり、バタ足が疎かになってスピードが落ちてしまったり、かといって、バタ足に気をつけると腕が止まったりしてしまい、更に、息継ぎの仕方も上手くいかない。息継ぎできなくて溺れかける事も数度……。
俺と撫子先輩が、水中で藻掻く春夏秋冬の脇で、様々なアドバイスを送り、彼女もその内容は理解しているのだが、実践が出来ず、
「もう無理だよぉ! あたしは泳げない運命なんだよ~」
終いには、ゴーグルの奥の瞳に一杯の涙を浮かべて、ベソをかいてしまった。
「――そんな事無いって。バタ足は出来てるんだから、あとは水かきと呼吸をうまく動きに連動できれば――」
「でも、全然浮かないじゃん! きっと、あたしの身体って筋肉が多いから、水に浮けない体質なんだよぉ、多分」
「いやぁ……そんな事は……」
「ほら、シリウスくん、触ってみてよ! カッチカチやぞ~!」
「へ? え――?」
俺が間の抜けた声を出す間もなく、春夏秋冬は、右手で俺の手首を掴んで、自分の左の二の腕に当てた。
「は――? ふえっ――?」
春夏秋冬の突然の行動に、俺は仰天し、目を白黒させながら、声にならない声を上げるのみだった。
「ほら、カチカチでしょ、あたしの腕! 筋肉ばっかりなの! だから水に浮かないのよ、多分っ!」
――いえ……すごく、モチモチです……。
俺は、掌に伝わる春夏秋冬の二の腕の柔らかな感触に、己の心臓が、工事現場のランマーかと聞きまごうばかりに大きな音で鳴りまくっているのを感じていた。
水に濡れてひんやりとした春夏秋冬の二の腕の感触は、自分の二の腕とは全く違う……ふにふにというかぷにぷにというか……許されるのならば、ずっと触っていたい。
女の子の腕なんか、触るのはもちろん初めて……なのに、どこか懐かしい――。
……あれ、そういえばよく言うよね……。
『女の子の二の腕の柔らかさは、おっぱ――
イカン! それ以上はイカン! それ以上考えたら、俺の理性が……ヤバいッ!
俺は、必死で落ち着こうと、心の中でうろ覚えでデタラメの般若心経を唱えつつ、深呼吸を――
「――あのさ、さっきから見てたんだけどよ……」
「ひゃ――ヒャイッ?」
――整えようとしていたところへ、突然背後から声をかけられて、確実に俺の心臓は一瞬止まった。
変な所から変な発音の悲鳴を上げながら、咄嗟に俺は、両腕を高く上げ、ホールドアップの姿勢を取る。
――違う! 俺は無実だ――!
「……何やってんの、オメエ?」
「いえっ! 誓って何もやってません! ブタ箱だけはご勘弁を――て、あれ?」
取りあえず、強く無罪を主張しながらかけられた声の方を振り向く。
が、そこには警棒と拳銃を構えた、恰幅の良いポリスメン――ではなく、
――黒い水泳キャップとゴーグルをかけ、身体にフィットした競泳用水着を着た背の高い女性が、ひとり立っていたのだった。




