黒木瑠奈のシリアスな買い出し
「うげぇ……」
俺は、観客席裏の通路――コンコースを埋め尽くす光景を前に、思わずウンザリとした。
……見渡す限り、人の頭しか見えない。野球のキャップを被っている頭もチラホラと見えたが、北武ライオネルズの濃紺のキャップに混ざって、ロッチシーガルズの黒のキャップも意外と多かった。
「――見ろ、人がゴミのようだ……」
「え? 何か仰いました? ちょっと騒がしくて、ちょっと聞き取れなかったんですけど……」
「へ? あ……あぁ……と」
どこかの大佐を気取って、思わず口をついて出た呟きを聞き留められた俺は、頬が熱くなるのを感じながら、傍らを歩く黒木さんに、引き攣り笑いを向ける。
「な……何でもないよ。その……ば、売店はどこかなぁ~って……」
「あ、そうだったんですか」
俺の苦しい言い繕いを、黒木さんはあっさりと信じ、穏やかな笑みを浮かべた。
そんな彼女に、俺は「そ……そうそう……」と目を泳がせながら頷く。
そして、少し首を傾げながら、ニコニコと笑っている黒木さんに言った。
「つ、つうかさ、別に黒木さんはついてこなくても良かったのに。買い出しは、俺ひとりでも大丈夫だし……」
「あ……ひょっとして、ご迷惑でしたか?」
俺の言葉に、黒木さんは眼鏡の奥の目を大きく見開く。
そして、眉を八の字に下げると、シュンと肩を落とした。
「そ……そうですよね。春夏秋冬さんみたいな可愛い方と違って、私みたいな地味な女と一緒に歩くの、嫌ですよね……」
「あ……え? な、何で?」
何で、そこで春夏秋冬の名前が出てくるんだ? ――そう思いながらも、俺は慌てて首を横に振った。
「い、いや……! そんな事無いって! むしろ、たかがジュースの買い出しに黒木さんまで巻き込んじゃって、申し訳ないな――って」
「い……いえ。私が望んだ事ですから……」
「……え?」
「あ――!」
俺が何気なく聞き返すと、黒木さんは小さな叫び声を上げると、慌てて手で口元を押さえた。
そして、何故か顔を真っ赤にした黒木さんが、必死で首を横に振りながら言う。
「ち……違うんです! そ……そういう意味じゃなくって……その――せ、生徒会の人間なんで、私! だ、だから……!」
「お、おう……そうだね、うん」
彼女の剣幕に気圧されて、俺はコクコクと頷いた。……正直、黒木さんが何でこんなに焦っているのかがまるで分からないのだが、これはこれ以上掘り下げちゃいけない――そう感じた俺は、話題を転換しようとする。
「せ……せっかくだから、他に軽食も買っていこうか?」
「あ……はい! そ、そうですね!」
俺の問いかけに、どこかホッとした様子で、黒木さんは大きく頷いた。
そんな彼女の様子に、頭の上にクエスチョンマークを浮かべつつ、俺は壁面沿いにズラリと居並ぶ売店に目を移した。
「さて、と。じゃあ、試合が始まる前に、ちゃっちゃと買い出ししちゃいますか」
「あ、そうですね!」
俺と黒木さんは頷き合うと、まるで通勤ラッシュの駅のホームの様にごった返すコンコースを、人の間を縫いながら歩き出す。
――だが、
「あの……! た、田中さん……! ちょ、ちょっと待って――」
だが、あまりに多くの人がひしめき合っていて、先を歩く俺に、黒木さんが付いてこれなくなった。 あまり背が高くない黒木さんが、まるで荒波の中を漂う遭難者のような顔をして、人ごみの中で見え隠れしている。
慌てて俺は立ち止まり、振り返ると懸命に手を伸ばした。
「あ……ご、ゴメン。こっちだよ、黒木さん!」
「た――田中さんっ!」
黒木さんも、必死で手を伸ばす。
――ようやく、俺の手が彼女の手首に届いた。
すかさず、俺は彼女の手首を掴み、思いっ切り自分の方へと引っ張り込む。
「よ――いっしょぉっ!」
「きゃ、きゃあっ!」
ヤバい。少し力を入れ過ぎたみたいだ。
俺に手を引っ張られて、たたらを踏んだ黒木さんが、悲鳴を上げながら勢いよくこちらへ向かってくる――。
「――ぐぇっ!」
胸に大きな衝撃を受けた俺は、車に轢かれたヒキガエルのような声を出しながら、転倒すまいと両脚に力を込めた。
「……ふぅ」
何とか衝撃を受けきって、転倒を防いだ俺は、安堵の息を吐く。
――と、
「……ん?」
胸の前の奇妙な感触に、俺は違和感を覚えた。
……と言っても、それは決して不快な感触ではない。
何だか、柔らかくて……温かくて……いい匂いがして……。
「……」
やにわに、左胸で心臓がドクドクと跳ね回るのを感じながら、俺は恐る恐る視線を下に向ける。
――視界に入ったのは、きれいなつむじのある、艶やかな黒髪で覆われた頭頂部。
そして――、
「……あ……あの……た、たなかしゃん……そ、その……」
「ぅおわぁっ! く、く、クロキ・サンッ!」
自分の胸の中で、顔面を真っ赤にしている黒木さんの顔を見た瞬間、俺は慌てて両腕を大きく頭上に上げた。
「ご、ごごごごゴメン! ちょ、ちょ、ちょっと力を入れすぎちゃって! あ……あの! 他意は無いんで、つつつ、通報だけはカンベンして下さいぃっ!」
「……え、えと! ここここちらこそ、ごごごめんなさい!」
激しくどもりながら、俺と黒木さんは、まるで反発しあう磁石の様な勢いでお互いから離れた。
――二人の間に、気まずい空気が流れる。
俺は、わざとらしく咳払いをしながら、おずおずと黒木さんに訊いた。
「あ……あの。て、手首……大丈夫だった? な……何か、思いっ切り引っ張っちゃったから、痛かったでしょ……?」
「あ……い、いいえ。だ、大丈夫です!」
俺の問いかけに、黒木さんは目を丸くしつつ、ブンブンと首を大きく横に振った。彼女が首を振る度に、その長い三つ編みが、まるで新体操のリボンの様に揺れる。
と、頬をリンゴのような色にした黒木さんが、衝撃でズレた眼鏡を直しながら言葉を継ぐ。
「あの……ありがとうございました、田中さん……。私を引っ張って、受け止めてくれて……」
「あ……は、ハイ。どういたしまして……」
彼女の感謝の言葉に戸惑いながら、取り敢えず頭を下げる俺。
……何で、俺は黒木さんに感謝されてるんだろう? 無理矢理引っ張られて、痛くなかったはずがないのに……。
そんな事を考えながら、ふと、先ほどの事を思い出した俺は、ハッとした。
「あ――あの、黒木さん!」
「ふぇっ? は、ハイっ?」
突然大声を出した俺にビックリして、目をパチクリさせている黒木さんに向けて、俺は深々と頭を下げ、万感の思いを込めて叫んだ。
「あの……こちらこそ、ありがとうございましたァッ!」
「え、ええっ? な、何がですかっ?」
「いえっ! そ、それは、き……禁則事項ですっ!」
「は……はえっ? え、ええ……?」
訳が分からぬまま、混乱し続ける黒木さんをよそに、俺はそっと胸に手を当て、じっと目を瞑った。
――先ほど自分の胸に押し付けられた、豊かな二つの膨らみの柔らかな感触を、死ぬまで忘れる事が無いよう、魂に刻み付ける為に――。




