名前
「…あの、すみません 」
「…へぁ、ご、ごめん! ぼーっとしてた。何かな?」
彼女の姿に見惚れていたものだから、みっともない声をあげて反応してしまった。
何て言おうか迷っているのか、彼女は気まずそうに目を泳がせている。
言葉がまとまったのか、こちらに近づいてくる。
1mより少し長いくらいの距離まで来ると、読んでいた本を両手で抱くようにして持ち、真っ直ぐに、でも何かが抜けているような眠たそうな目で、俺の目を見る。
「嬉しいや、悲しいとは、どういう事ですか? 」
「嬉しいや悲しい? 」
「はい 」
考えもしない質問が投げかけられた。
普通、こんな質問をする人なんていない。
どういうことなんだろうと思っていると、再び彼女が口を開いた。
「私には、よく分からないんです。中間テストで前より点数が上がって嬉しいとか、大会で負けて悔しくて泣く、って言うのが。どうしてそう思うのかが、分からないんです。」
俺は何となく理解した。
彼女は感情が無いのだろう。
だから俺を見るこの赤い目はどこか無機質なのだ。
全てが正常なのに、中身は空っぽ。
俺は、思った。
彼女に教えたいと。
感情無しで”生きる”なんて、つまらない。
嫌な事とか、辛い事も知るようになるけど、そっちの方が有意義なはず。
何より、俺が興味を持った。
教えることに。
俺は一度目を瞑って首を縦に振った。
「うん、いいよ。教えてあげる。 」
そう言うと、彼女は表情を変えずに一礼して「ありがとうございます 」と丁寧にお礼を言った。
俺は「いえいえ 」と言ってから、一つ、彼女に聞きたいことが頭に浮かんだ。
「そう言えば、名前は?聞いてなかったよね 」
「そうでしたね。私は有我睦月です 」
睦月、と頭の中でオウム返しに繰り返す。
彼女ばかりに名前を教えておくわけにはいかないと思って、名前を告げる。
「俺は七瀬千秋。宜しく、睦月 」
「は、はい。こちらこそ。…千秋、さん…? 」
「呼び捨てでいいよ。あと、できれば敬語無し 」
「そうですか、じゃあ…千秋、こちらこそ、宜しく 」
「うん 」
つい嬉しくなって顔がにやけそうになる。
睦月という名前を知れたこと。
話し掛けるきっかけがいくつもできたこと。
これからが、楽しみで仕方なかった。
しかし、いきなり俺にとっては難題が、すぐにふりかかってくることを、この時はまだ知らなかった。