第1章 美女の皮を被った野獣②
男が手にしたナイフは、二十センチはあろうかという刃渡りに、背にはぎざぎざが付いていた。
どちらで切り付けても、十分に殺傷力がありそうだ。
突き刺そうものなら、両側から内臓を抉られ、大けがでは済まないだろう。
それを誇示するように、街灯の明かりを反射して、 刃先がキラリと凶悪な光を放っている。
それを見ても、女は顔色ひとつ変えずに、相変わらず腕を組んだまま、悠然と立っている。
それどころか、満面に笑みを湛えている。
「あらあら、素人が、そんなおもちゃを振り回しては駄目じゃない。怪我をするだけよ。おばかさん」
緊迫感の欠片もなく、女はさも楽しそうに、からかい口調で言った。
「強がるんやあらへんで、ねえちゃん」
いとも簡単に、十人の仲間が倒されたのだ。
女が強がっているのではないことは、男には痛いほどわかっていた。
しかし、このまま引き下がるわけにはいかない。
手下を倒されて、おめおめと逃げたとあっては、これからミナミの街を、肩で風をきって歩けなくなる。
男が率いる軍団は凶暴さが売りで、ヤクザの世界でも、一目置かれた存在なのだ。
それに、手にしたナイフの感触が、男に勇気を与えてもいた。
「ねえちゃん、あんたがどんだけ強うても、素手では、こいつに敵わなへんやろ」
男は、自信を取り戻したようだ。
もう、声に震えは混じっていなかった。
「今さら謝ったかて遅いが、裸になって土下座するちゅうんやったら、命まではとらへん。わいのマグナムでひいひいいわしたるだけで、勘弁したるわ」
下卑た笑みが、男の顔を覆う。
「もっとも、この落とし前はきっちりつけてもらわなあかんさかい、わいの後で、こいつらにも回させて、その後でソープにでも売り飛ばしたるけどな。それが嫌やったら、わいの奴隷でもええで。飽きるまでは、可愛がったるで」
大の男が素手の女性相手に、大きなナイフをかざしていきがるなんて、みっとも恥ずかしいこと、この上ない。
それにもって、そんな下卑たことを恥じらいもなく言ってのけるなんて、所詮、堅気にもヤクザにもなれない、半グレ止まりの性根に違いない。
とはいっても、男の構えから、相当にナイフを扱い慣れているのがわかる。
だから、気持ちに余裕が出たのだろう。
平然としているように見せかけているだけで、女は、内心ビビッていると勘違いしているのかもしれない。
これまで、このナイフを見て、ビビらなかった者がいなかったのも、男にそんな勘違いを与えていた。
「さあ、どうする? 謝るんなら今のうちやで」
男が勝ち誇ったように、唇の端を吊り上げた。
「そんなナイフごときで、わたしに勝ったつもりだなんて。まったく、おめでたい男ね」
女が、嘲るような笑みを浮かべた。
「ごたごたと能書きはいいから、早くかかってきなさいよ」
男に向かって、笑いながら中指を立ててみせた。
「このアマ、どこまでも人を舐めさらしやがって」
男の怒りが、頂点に達した。
こめかみの青筋が、ピクピクと脈打っている。
ただでさえ凶悪な人相が、怒りと屈辱で醜く歪み、男の顔が一層禍々しくなった。
「もう、勘弁できへん。ムショでもどこでも行ったるわ。今更、謝ったかて、もう遅いで。生意気な口を利いたことを、あの世で悔いさらせ」
柄を握る男の手に、力が込められた。
「死ねや、おら~」
吠えながら、ナイフを腰だめに、女へと突っ込んでいった。
ガタイに似合わず、男の動きは俊敏だった。
並みの人間なら、避ける暇もなく、あっという間にどてっ腹を刺し貫かれていただろう。
しかし、男が付き出したナイフの先に、女の姿はなかった。
ナイフが空を刺し、男がたたらを踏んだた瞬間、男の身体が宙に舞った。
ナイフを握った手が、奇妙な角度で捻じ曲がっている。
男には、なにが起こったのかわからない。
宙に浮きながら茫然とする男の目の前に、女の顔があった。
驚きで目を瞠る間もなく、女の綺麗な足が一閃した。
男の身体が、くの字に折れる。
ナイフが、小気味のよい乾いた音を立てながら、道路で跳ねた。
同時に、男が背中から、地面に叩きつけられた。
ドスっという鈍い音と共に、ギャッという、蛙が踏み潰されたような悲鳴が、夜のしじまに谺した。
男の横に、女が静かに着地する。
着地と同時に間髪入れず、女が容赦なく、悶絶している男の横っ腹に、鋭い蹴りを入れた。
男の目が、一瞬見開かれた。
ゴフッと呻いて、口から血の泡を吹く。
「もう、ええやろ。それ以上やったら、殺してまうで」
もう一発、蹴りを入れようとして、女が足を振り上げたとき、女の背後から、緊張感の欠片もない、実にのんびりとした声がかかった。
声をかけたのは、女の後ろで、ずっと成り行きを眺めていた男だった。