白木蓮に捧ぐ恋
もうすぐ、終わりが来る。
否、終わりに向かって、逝くのだろう。
静かに忍び寄る足音を聞きながら、願ったことは、ただ一つ。
「…少し、一人になりたい。 …一人に、してくれないか」
妻は、泣き声を押し殺すようにしながら、「はい」とだけ応じた。
それに返す言葉を、自分は探す。
――済まない
そう、言いかけたのだと思う。
けれど、喉から出かかった言葉は、別の言葉に変わった。
「ありがとう」
そうすれば、はっきりとした泣き声が、耳に届く。
妻のものだろう。
「…母上、行きましょう。 …父上、御心のままに」
聞こえた衣擦れの音は、息子――白哉が妻を立たせ、寄り添ったときのものだろう。
程なくして、障子が開き、静かに閉まる音がする。
遠ざかる足音を聞きながら、皇哉は細く息を吐いた。
息子の言葉を思い出す。
何が、御心のままに、なのか。
あの息子は鋭いから、きっと、自分が何のために一人になりたいのかを察したのだろう。
本当に、出来過ぎた息子だ。
そう思えば、もう、思い出すことも難しい、妻の顔がぼんやりと浮かぶ。
やはり、済まないと言っておくべきだっただろうか。
けれど、咄嗟に、あのひとの言葉が浮かんだのだ。
――あんたねぇ、悪いとも思ってないくせに、謝るその癖、止めなさい。 逆に不愉快だから。
――あたしは、申し訳ありませんって言われるよりも、ありがとうございますって言われる方が遙かに嬉しいわよ。
妻に対しては、悪いと思わなかったわけではない。
今の今まで、自分を欺き、妻を騙し、いい夫のふりを続けてきた。
そのことに対して、申し訳ないと思うし、謝罪をすべきなのだろうと、思った。
けれど、妻は、自分を想って、泣くのだ。
それならば、妻を愛している自分のままで、妻に夢を見させたまま、自分が息を止めた方が、妻は幸せなのではないかと、思った。
そして、自分はそんな妻を遠ざけて、いまわの際に、自分の心のままに動こうとしている。
こんなに弱り果てた姿を、彼女の目に晒すことを厭いながらも、止められない、欲。
もしかしたら、これは天罰なのかもしれない。
愛らしい妻と、可愛い子どもがいながら、胸に別のひとを想い続けた自分への、天罰。
痛みも、苦しみも、不思議なほどに何もない。
ただ、動くのも、話すのも、億劫で、ひどく静かだ。
それでも、彼女の名前を呼ぶことは、苦痛ではなかった。
「…白蓮」
そう、自分は彼女を呼ぶ。
自分が、彼女に、つけた名で。
呼べば、彼女は現れてくれる。 それは、確信だった。
そして、その確信はすぐに、真実となる。
「…なぁに? 皇哉」
その名も、彼女が自分につけたものだ。
皇哉の記憶にある、出逢った当初の頃から、彼女の声は変わらない。
彼女の姿形が変わらぬのと同様に。
死の匂いのする密室が、上品な香りで満たされたような気になって、皇哉は瞼を持ち上げる。
その、僅かな動作をするのにも億劫で、これほどまでの労力がかかるものかと、皇哉は内心で苦笑する。
眠くて眠くてどうしようもないのに、無理矢理に瞼を持ち上げているときの感覚に似ている。
そんな思いをして拡げた視界を埋めたのは、白。
一瞬、あの、白木蓮の花びらが、視界を埋め尽くしているのかと、錯覚した。
けれども、すぐに気付く。
どうやらこの目はもはや、あの美しい、何よりも大切なひとを映すことさえ適わないらしい。
床に横たわる自分に、落ちる影。
それが彼女なのだろうと、皇哉は目を向ける。 視力を失いつつあることを、目の前のひとに気取られないように。
目の前の影に思い描く。
白銀の髪に、山吹色の瞳。 人間には、ありえない色彩を身に纏う、美しいひと。
彼女は美しいだけでなく、気高く、高潔で、荘厳。 あの、御神木――白木蓮の化精に相応しく。
純白の、大きな花弁。
そこに慎ましやかに隠された山吹色が美しく、香りは上品にして優美。
それは、御神木であり、自分にとっての高嶺の花。
彼女の存在と同様に。
「あんたは馬鹿よ。 大馬鹿者だわ」
白蓮が、出し抜けに、そしてつっけんどんに、そんなことを言う。
言われたこと自体に驚いたのではなく、どうして今、それを言うのかに、思考が及ばなかった。
この、人外の美貌の化精は、容貌の割に口が悪い。
隠すことはしても、偽らない。嘘は言わないくせに、故意に偽悪的な物言いを選ぶ。
そんな白蓮が、素直でなく、恐がりで、寂しがりなことも、自分は知っている。
失うのが怖いから、初めから何も持たずにいようとする。
ひとりになるのが寂しいから、ひとりでいようとする。
最初から嫌われていた方が、楽だと思う。
そんな白蓮が、どうして今、先の発言をしたのか?
回らない頭で皇哉が考えようとするより先に、白蓮がその答えを口にする。
「最期に人払いをして、呼び寄せる相手があたしでなくたってよかったのに。 あたしはあんたの親兄弟でもなければ、恋人でも、愛人でも、妻でもない。 もっとほかに、あんたには最期を共に過ごすべき相手がいるはずでしょう」
表情は、わからない。
けれども、いや、だからこそ、素っ気ない言葉と叱るような言い方を選びながらも、彼女の声が微かに震えていることに気付いた。
だから、皇哉は笑む。
そのことに、勇気をもらって、告げる。
「…ええ。 ですから、最期の時間を、貴女と共に、過ごしたかった」
ひゅっと、息を呑むような音が聞こえた。
きっと白蓮はその、山吹色の美しい瞳を瞠っているのだろう。
皇哉は、笑んだままで言葉を続ける。
「桔梗とも、白哉とも、十分すぎる時間を過ごしました。 私の心残りは…、この世に遺す未練は、貴女だけだから」
絶句する空気が、伝わってきた。
どうして、今、そんなことを言うのか。 そんな言葉が、聞こえるような気がする。
それは、皇哉の我儘。 皇哉は伝えておきたかったのだ。
自分勝手で、自分本位なのはわかっている。
けれど、人は、心残りや未練があると、それが重しとなると聞く。 魂が天に昇れずに、いつしか自分が何を遺していたのかも忘れ、ただただ人の世を彷徨うのだと。
そうはなりたくないのだ。
もう、この世を去る皇哉が望めるのは、その先の未来しかないから。
「白蓮は、輪廻を信じますか?」
脈絡のない、問いだったのだろう。
白蓮の返答は、数拍だが、遅れる。
「可笑しなことを言うのね。人ではないあたしが、自然の摂理に逆らって命を落とすことなどできないというのに 」
多少、困惑の見え隠れする返答。
白蓮は恐らく、白蓮自身が老いない存在だから、死すらもその身に訪れるか不確定だ、と言ったのだろう。 だから、輪廻の輪に乗ることがあるのかどうかすら、疑問だ、と。
自分が言いたかったことは、上手く白蓮には伝わらなかったらしい。
彼女は、化精だから。 人間である皇哉とは、違うから。 彼女と自分とでは、心の動きも微妙に重ならないことが多い。
だから理解し合えないと片付けるわけではなく、皇哉はいつも、白蓮に理解してもらえるように、言葉を重ねてきた。
偽らない、飾らない、真っ直ぐな言葉しか、白蓮が真に受けないことも、知っているから。
「もしも、私が生まれ変われるのなら、貴女と再び出会って…もう一度、貴女に恋をして…。 今度こそ、貴女を妻にして…連理の枝に」
再び、押し黙る気配。
これを、いまわの際に、短い人生の最期に告げる自分が狡いことは、重々承知している。
「例え再び生まれても、それはきっと、あんたじゃないわ」
微かに上擦り、震える声が返ってくる。
今、目の前の美しいひとは、どんな表情をしているのだろう。 それが、知りたい。
見えないことが、ひたすらに残念だと思う。
皇哉が輪廻転生したとしても、それは皇哉ではないと、白蓮は語る。
それは一体、どういうことなのだろう、と皇哉は考える。
皇哉が生まれ変わっても、皇哉の記憶や心は引き継がれないのだろうか。 白蓮のことなど忘れて、全く別の存在になってしまうとでも?
いや、例え、そうだとしても。
白蓮のことを忘れて、全て失くして、全く違う存在になったとしても、出会えないわけではないと、思うのだ。
だから、その確信と共に、告げる。
「だとしても、私は貴女を見つけます」
反応が、ない。
皇哉は苦笑する。
そろそろ、本当に身体が重い。
呼吸が辛い、わけではないと思うのだが、細くなっているのがわかる。 気を抜くと、眠ってしまいそうだ。
それが、永久の眠りになるのだろう予感も、皇哉にはしている。
もっと、白蓮の声を聴いていたい。
何か、話して欲しい。 そう、口にしようとすると、今度は、隠すことができなかったのだろう。
泣きそうなのに、それを我慢したために上擦り、震える声が届く。
「…もう、何も言わなくていいから…」
自分が白蓮に告げた言葉は、皇哉の思惑とは逆に動いたようだった。
泣かせたかったわけではないのに。
笑って欲しかった、だけなのに。
泣いている、というのは、皇哉の予測でしかないけれど、きっと泣いている、そう思ったのだ。
持ち上げる、腕が辛い。
もう、感覚があるのかないのかもわからない。
きちんと、自分の意図したとおりに、腕が持ち上げられているのかも。
彼女の頬に、触れられたのかどうかも。
ああ、彼女は、この、やせ細った枯れ木のような腕に、触れられることを厭わないだろうか。
そんなことを考えながら、願う。
「…泣かないで、ください…白蓮」
「…ふ、…ぅっ…」
そうすれば、堪えきれなくなったように、泣き声が漏れた。
静かな空間に、嗚咽のような声と、しゃくり上げる音だけが響く。
白蓮の泣き顔を、皇哉は知らない。
知りたい、と思うのに、それはもう、皇哉には叶わぬ夢だ。
ころころと、楽しそうに笑う白蓮を知っている。 しっとりと、微笑する白蓮も知っている。 怒った顔は怖いのだけど綺麗だ、と言ったらまた怒らせるのはわかっている。 時折見せる、寂しげな横顔に、どれだけ自分が胸を苦しくしていたか、白蓮は知らないだろう。
恋心を、告げずにいた。 秘めてきた。
そのことも、きっと白蓮は知らなかったはずだ。
高潔な彼女は、それに気付いたときには、自分の前から姿を消すだろうという確証が、皇哉にはあった。
幸いにも、彼女は人間のそういった、微妙な心の動きには、まだまだ鈍感だった。
「…白蓮…。 すみません…」
嗚咽と、しゃくり上げが落ち着くのを待って、皇哉が言うと、白蓮は鼻にかかった涙声で素っ気なく言う。
「…なんであんたが謝るのよ」
いつもの調子が戻った様子の白蓮に、皇哉はほっとした。 思わず笑みが零れたかもしれない。
そして、最期の願いを口にする。
「…白蓮…最後に、笑って見せてください」
もう、自分の目は、白蓮の姿を映すことも適わないのに、願わずにおれない。
白蓮が、笑ってくれたのかはわからない。
けれど、それが、限界だった。
どれだけ抗おうとしても、落ちていく瞼を止められない。
目の前が、闇に染まる。
何も見えない、そう思った矢先に、はらり、と白い花弁が舞った。
御神木――白木蓮の花が散る様に似ている。 そんなことを思う。
そして、皇哉はなぜか自分がその闇の空間に立っているのだと気付いた。
真っ暗な闇の空間に、はらり、はらり、と大きな白い花弁が散り、埋め尽くしていく。
その中で一つ、ふわりふわりと舞う、蝶のような花弁を見つける。
導かれているようだ、と皇哉は思った。
導かれるままに、皇哉は進む。
その先にあるものが、一体何なのかは、わからない。
✣○●○●○●○●○✣
両親は、自分のことを【ミコ】と呼んでいた。
お前は、御神木から生まれた宝物なのだよ、と。
物心ついた頃には、既に自分が両親の子どもでないことは、両親から知らされた。
けれども、寂しくなければ悲しくもなかった。
両親が自分を愛し、可愛がってくれているのがわかっていたからだ。
優しく穏やかな両親で、家はこの辺一帯の領主の立場にあるらしい。
自分は無口で人見知りな性質ではあったが、愚鈍というわけでもなかったのだと思う。 幼い時分より学ぶのは好きだったし、沈黙が金であることも知っていた。
そして、御神木だという、白木蓮の枝に腰掛けている、自分の周囲では見たことがないくらいに美しいひとが、自分以外に見えない存在なのだろうということも、何となくだが理解していた。
だって、人ではありえない色彩を身に纏っているのだ。
白髪とは異なる、腰まで流れる白銀の髪に、山吹色の瞳。 自分の知る人間は、皆、黒髪黒眼なのだから。
母の着ている十二単を着ているわけではなく、かといって農民が着ているような着物でもない。
そのひとは、いつも上質な着物を身につけている。
派手な色は好まないのか、卯の花色のような無彩色のものを身に纏っていることが多い。 帯も同系色の色でまとめているが、優美でしかないのだ。
その存在を、自分はいつも見ているし、その存在も自分を見ているというのに、言葉を発さない。
だから自分は、彼女に問いかけてみることにしたのだ。
「あなたはだれですか」
いつも通り、その存在をじっと凝視していた。
今日は、父も母も傍におらず、ひとりでここまで来たから、問うてもいいだろうという判断の元に聞いた。 その存在は、虚を突かれたように、その山吹色の瞳を瞠っている。
「………」
「あなたはだれですか。 ちちうえも、ははうえも、だれもみえないというのです。 あなたは、だれですか」
木の枝に腰掛けるそのひとを、じっと見上げる。
その存在は、迷いなく、腰掛けていた木の枝から身を乗り出す。
あの高さから飛び下りて、怪我をしないものかと慌てたのだが、それは杞憂だったらしい。
体重を感じさせない軽い動きで、その存在はトッと地に降り立つ。
その瞬間、ふわり、と優美で上品で優しい香りが鼻孔をくすぐる。
鳥のようだ、と思った。 高いところから飛び下りれば、その分降り立ったときに音がするはずだし、身体に衝撃が伝わるはずなのに。
目の前の存在は、何事もなかったかのように涼しい顔をしている。
その山吹色の瞳は、不思議そうに自分を見下ろして首を揺らす。
「…貴方、あたしが怖くないの?」
それが、初めて聞いた、その存在の声。
高くもなく、低くもなく、聴きやすい声だと思った。
だが、その声が、自分に聞いた言葉の意味はわからなかった。
どうして、自分が彼女を怖いと思うのだろう。
「こわくないです。 だいすきです」
告げると、その存在は目を丸くする。
けれど、すぐにころころと可笑しそうに笑って、自分の頭を優しく撫でた。
「…ああ、そう。 ありがとう。 あたしは…、この木の化精とでもいうのかしらねぇ」
彼女の告げる、【けしょう】の意味が、そのとき自分はわからなかった。
「かみさまでは、ないのですか」
この、白木蓮は、御神木で、神様の木だと教わった。
だから自分は、その存在を神なのだと思ったのだけれど、違うのだろうか。
化精と名乗ったその存在は、右手の人差し指の背をすっと顎に添えて、少し考えるような素振りを見せる。
「そうねぇ、違うと思うわ。 あたしはこの木、そのものなの、きっと」
「あなたが、ごしんぼく?」
「あんたたち人間が、あたしに手を合わせてくれるから、あたしはいつの間にか人間と同じ姿を取れるようになったのね。 身体から離れた魂が形を取ったものが、あたし、とでも言った方が近いのかしら」
なんだかよくわからなかったけれど、化精が自分にわかりやすい言い方を選びながら、説明してくれているのはわかった。 だから、理解したふりをして頷く。
早い話が、自分は、理解できないことで彼女をがっかりさせたくなかったのだ。
化精は、自分が頷いたことに、ほっとしたような表情をした。
「あんたにしか、見えないの。 だから、あたしのことは内緒よ?」
そう、悪戯っぽく、化精は笑んだ。
そして、自分の頭をもう一度撫でて消えた。
突然の消失に、周囲を見回すが、その姿はどこにもない。
「…けしょう?」
呼んでも、応じる声はない。
けれど、落胆はしなかった。
彼女は御神木そのものなのだから、ここに来ればまた会えるのだろうと、信じられたから。
✣○●○●○●○●○✣
それから、数年が経った。
毎日ではないが、数日に一度、御神木のところへ行くのは今もなお、習慣だ。
今日もまた、彼女は、木の枝に腰掛けて、どこか遠くを見ている。
その横顔はいつも、綺麗なのだけれど寂しげで、胸がざわつくような気がする。
この気持ちは何なのだろう、と考えながら、自分は彼女を呼ぶ。
満開の白木蓮に埋もれて隠れるようにして 、彼女はその大木の枝に腰掛けている。
木に浮かび、零れ落ちるように、純白の蓮のような花が咲き誇る。
優美なのに、不安定で危うげなその花と、ひび割れた太い幹の対比が、ひどく不釣り合いだ。
それは、彼女の存在そのもののように。
「…化精」
呼べば、彼女の顔がゆっくりと自分に向く。
「坊、貴方、その言い方どうにかならないの?」
呆れ顔の化精に、けれども自分は笑顔を返す。
出逢った当初よりも、化精は色々な表情を見せてくれるようになった。
出逢った当初――自分の記憶にある、自分が話しかける以前――は、もうあまり覚えていないけれど、どこか悲しそうに笑うひとだと思っていた気がする。
「それを言うのなら貴女だって、私を坊と呼ぶのを止めていただきたい。 もう、数日後には元服を控えているのです」
不本意な呼び方に、控えめにだが物申すと、化精はその、すっきりと切れ長でありながら伏し目がちの目を瞬かせる。
「ああ、そう。 もう、そんな季節なのねぇ」
けれど、自分のささやかな反論は、化精には反論とも認識されずに、流されたらしかった。
自分の発言の後半部分にのみ、応答している。
それが面白くなかったのもあるけれども、自分が彼女を【化精】としか呼べないのは、何も自分のせいではない。
「…それに、私は貴女の名を知らない」
面白くない気持ちをそのまま吐露すると、トッと彼女が地に降り立つ音がした。
だから、自分は視線を上げる。
彼女は、出逢った当初から変わらない。
その外見は、年齢を重ねないらしいと気付いたのは、いつだったか。
自分だけが、年を重ねて、成長していく。 それが、嬉しかった。
まだ、彼女の丈には追いつかないけれど、あと数年すれば彼女に追いつき、すぐに追い越せるだろう。
「…知らないっていうか…ないから、教えられないのよねぇ」
彼女は困ったように、よくわからないような言葉を紡ぐ。
それでも自分が彼女を見つめ続けていると、彼女は何か閃いたようだった。
「あ、そうだ。 名前、坊がつけてくれてもいいわよ。 不便でしょうから」
「え」
不便だから、名前をつけていいとは、どういうことだろう。
彼女は化精で、やはり自分たちとは異なる存在だから、ときどき突拍子もないような発言や行動をしてくれる。
その意図を図りかねて、じっと化精を観察していたのだが、化精は「いい案でしょう?」とにこにこしているものだから、それが本気の言だと悟る。
そして、自分が彼女に与える名前に、期待していることも感じられたから、途方に暮れる。
自分も、彼女に、同じ事を請いに来たというのに。
どうしたものかと頭を悩ませていると、御神木である白木蓮の木が目に付いた。
はらはらと舞う、純白の蓮のような花びらが、自分と彼女の上に降ってくる。
「…びゃく、れん」
無意識のうちに、そう、唇が動いて、音が漏れた。
「びゃくれん?」
化精は、自分が口にした音を、そのまま繰り返して問い返す。
だから自分はひとつ、大きく頷いた。
彼女がその名を気に入るかどうか、緊張しながらも、思いついた名を説明する。
「白い、蓮だから、白蓮」
彼女は、軽く目を瞠って、薄くその淡い色の唇を開いた。
その反応は、何を意味するのだろう。
緊張で、口の中が乾き、鼓動がうるさいくらいだ。
実際には、数拍の間だったのだろうが、永遠のように感じるそれに、そろそろ呼吸すら苦しくなってきた頃、彼女は微笑んだ。
「綺麗ね。 ありがとう」
胸が、大きく、脈を打った。
その、笑顔一つ、言葉一つで、不安も緊張も、霧散する。
春の兆しのような、膨らみ、綻び始めた花のような、穏やかで美しく、心が震えるような笑みだった。
「…で、何? 何か用があったんじゃないの?」
そう、白蓮に問われ、ハッと我に返る。 自分が、彼女に見惚れていたことを、知る。
それが少し気恥ずかしくて、視線を緑が芽吹き始めた地面に落とす。
「…私の、名を」
「え?」
小さく零した声は、白蓮の耳には届かなかったのだろうか。
「父と母が、元服名を、御神木様に聞いて来い、と。 お前になら、聞こえるかもしれないから、と」
元服するに当たり、元服名を賜ることになる。
その名を、御神木に聞いてくるよう、両親は自分に言ったのだ。
隠していたつもりだったが、もしかすると両親は、自分の目にこの白蓮という化精が映っていることを、知っていたのかもしれない。
それでも、自分を気味悪がらず、愛し、捨てずにいてくれた。
素晴らしい、尊敬すべき両親だと思う。
「…そうねぇ…」
白蓮は、右手の人差し指の背を顎に添えて、半眼を伏せる。 左手は、右腕の肘を支える。
どうやら、それは、白蓮が考え事をするときの癖らしい。
その、考えに没頭する様も、美しい。 じっと観察していれば、ぴくっとその長い睫毛が震える。
そして、瞼が持ち上がって自分を見た。
「【皇哉】はどう?」
「きみや」
その音を繰り返す。
それが、どのような字を当てるのか、という確認だと、白蓮は捉えたらしかった。
「そう。 皇哉」
あまりにもさらりと、何事もないかのように彼女が語るから、聞き流しそうになった。
けれど、それは聞き流してはいけないことだと、踏みとどまる。
「…それは、不敬罪に当たるのでは」
【王】や【皇】の字は、皇族以外が名に使用してはならないものだ。
それなのに、やはり白蓮には関係ないのか、事もなげに告げる。
「当たらないわよ。 あんたは帝の御落胤なのだから」
心の準備をする間も与えてくれない。
前置きも何もないその言葉に、一瞬だが、頭の中が真っ白になる。
聞き返してみようかとも思ったが、再度肯定されると目眩がしそうだ。
そう判断して、額を押さえる。
「…それを、父と、母は」
ふーっと息を吐きながら、確認する。
それに対し、やはり白蓮はあっさりしたものだ。
「知りようがないでしょ。 貴方も知らないふりでいなさい。 …あたしが授けた有難い名を、まさか要らないなんて言わないでしょう?」
そして、どうやら白蓮は、【坊が自分がつけた名を気に入らなかったらしい】と受け止めたようだ。
言葉と声が刺々しい。
「要らないなどとは、申しておりません」
すぐさま否定すると、白蓮の表情が少しだけ和らぐ。
「あんたのご両親も、鈍いのか、鋭いのか…。 あんたが【ミコ】と呼ばれているのを聞いたとき、あたしは本当に驚いたのよ」
【神子】。
それは、自分の幼名だ。
幼名とも思えない幼名らしいが、両親は譲らなかった。 そして、その名が【鈍いのか、鋭いのか】と言われる由縁がわからない。
「どうしてです? 父と母は、私のことを【御神木から生まれた宝物】だと言うのです。 だから、【神の子】で【神子】だと」
じっと、白蓮の山吹色の瞳が、観察するように自分を見ている。
その、淡い色の唇が動いた。
「あんた、知らないの? 【皇子】と書いても、【みこ】と読むのよ」
息を呑む。 目を瞠る。 心臓が、跳ねる。
それ以外にも、身体が色々な反応を示したのだと思う。
けれど、驚きすぎていて把握できなかった。
そんな自分を、白蓮はどう見たのだろう。 彼女は、悪戯っぽく笑んだ。
「…運命的ね?」
彼女が、名のことを指して【運命的】と言ったのは、理解している。
けれど、自分たちの出逢いのことを、【運命的】だと言われたような気分になった。
両親に、御神木から与えられた名が、【皇哉】だと言う勇気はさすがになかった。
音だけ残して、【君哉】という名を授けられたと、両親には告げた。
自分を、【皇哉】と呼ぶのは、白蓮だけだった。
自分だけが呼ぶ、彼女の名。
彼女にだけ呼ばれる、自分の名。
そのときの自分は、それだけで、満ち足りていたのだ。
自分が彼女に抱く想いは、畏敬の念なのだと思っていた。
神仏を崇め、奉るのと同様に。
御神木の化精――白蓮は、自分にとっては、身近な神であると、そう、思っていたのだ。
妻を、貰う、あの日までは。
✣○●○●○●○●○✣
元服から二年ほど経て、妻を貰うこととなった。
それについて、特に異論はなかった。
自分は、領主である家の跡取りなのだ。 両親と自分は血が繋がっておらず、家の血を遺したいのなら、従兄弟の中の誰かを跡取りとして据えることだって出来たのに、両親も祖父母も、自分を選んでくれた。
その期待に応える義務が、自分にはある。
その代わりに、ではないけれど、選ばれた自分の妻は、従妹の桔梗であった。
それが、家の血を繋ぐために必要なことだというのはわかったし、祖父母や両親含め、家の者たちの思考も自然なものだという理解でいた。
妻を迎えるのも、子を成すのも、自分の役割であり、務め。
その認識でいたし、その認識を疑問にも感じなかった。 間違いだとも思わなかった。
それなのに、どうして。
「君哉、様…?」
薄闇の中で、褥に横たわる妻が、妻を組み敷く自分を見上げて控えめに問う。
どうして、固まっているのかと、不思議に思っているようだった。
妻は、覚悟を決めているらしい。
覚悟をして、自分の元に嫁いできたのだろう。
覚悟がなかったのは、自分の方だ。
妻を迎えること、子を成すことがどういうことか、わかっていなかったわけではない。
けれど、安易に考えていた感は、否めない。
脳が、目が、耳が、全身の感覚全てが、本能が、【違う】と訴えかけてくる。
その感覚全てを閉ざして、皇哉は軽く頭を振った。
「…何でも、ない」
そう、答えた。
そう答える以外に、返せる言葉を持たなかった。
これは、自分の義務で、務め。
妻には申し訳ないが、そう、自分に言い聞かせて、自分の身体に言うことを聞かせる。
初めて触れる、女の身体に、あのひとの身体はどうなっているのだろうと、重ねた。
妻に触れながら、思い浮かべていたのは、触れるのも恐れ多い、高嶺の花。
ようやく、思い知る。
どうして、気付かずにいられたのだろう。
彼女に抱いていた想いが、何であるかに。
✣○●○●○●○●○✣
それからも、自分は幼い頃からの習慣――白蓮に会いに行くことを、止めなかった。
いつから、御神木へのお参りが、白蓮に会いに行くという目的に変わったのかは、もう覚えていない。
白蓮は、変わらなかった。
だから、皇哉も想いを告げるつもりはなかった。
皇哉が自分の想いを口にすることで、壊れる物が多いことを、知っていたから。
否。
恐らく白蓮は、自分の想いを知ったら、もう二度と自分の前に現れないような予感がしていたのだ。
妻――桔梗は、男児を産んだが、難産だった。
跡継ぎは生まれた。
そして、二子目は難しい――身籠もったとしても母子ともに命が危うい――という医師の見立てに、桔梗は泣いた。
桔梗のことは不憫だと思ったが、皇哉自身は医師の見立てにほっとしていた。
その医師の見立てを理由に、夜の生活からは遠ざかることが出来た。
親類縁者は、側女を、というような話も皇哉に持ちかけたが、皇哉は桔梗を理由にそれらを全て固持した。
愛せない代わりに、せめて、桔梗にとっていい夫でいようと思ったのだ。
今日は、久々に、息子を連れて白蓮のもとへ出かけた。
遠目にも、御神木の枝に腰掛ける白蓮が見える。
そう、皇哉が認識すると同時に、繋いでいた手をくいくいと息子に引っ張られた。
「…ちちうえさま、あのかたはだれですか」
息子の目は、じっと御神木に向けられている。
正確には、そこに腰掛ける白蓮に。
やはりな、と皇哉は穏やかな気分で息子を見下ろした。
言葉の話せない幼い時分から、ここに来ると息子――壱の目は無意識にだろうが白蓮の姿を追っていた。
白蓮が見えない人間は、不思議には思わないのだろう。
けれど、自分は気づいたし、もしや、と思っていた。
そして、そのもしや、は今、やはりに変わったのだ。
皇哉は、幼い息子に微笑む。
「桔梗には内緒にしておいておくれ。 お前も、あの方に会えなくなるのは嫌だろう」
息子はじっと皇哉を見上げていたけれど、こくりと一つ、頷いた。
そして再び、御神木へと視線を移す。
「あれは、かみさまのきですよね? あのかたは、かみさまなのですか?」
白蓮は、自身を神ではないと語ったけれど、神という認識でも問題ないだろう、と皇哉は息子の言葉を否定しなかった。
「…神様らしくない、優しくて孤独なひとなのだよ」
皇哉の言葉に、息子はよくわからない顔をしていた。
皇哉はもう、彼女の丈を越えた。
彼女の外見の年齢をも、超えてしまった。
追いつきたかったはずのそれが、今は老いなければいいと願うばかりだ。
変わらぬ彼女に、醜く衰え、老いるばかりの自分を映すのがどうしようもなく、恥ずかしく、辛い。
なのに、彼女の目が自分に向くと嬉しいし、自分も彼女を映していたいと思うのだ。
どうしようもない。
そう、皇哉は苦笑する。
その瞬間、辺りの景色が真っ暗になり、白木蓮の花びらが舞う。
ここは、どこだっただろう。 そう考えるが、思い出せない。
自分が今、生きているのか、死んでいるのかすら、わからない。
ただ、時々こうして、昔のことを繰り返す。
ということは、今見ているこれは、夢なのだろうか。
はらはらと舞い散り、足下を埋める白。
その、舞い散る花びらの中に皇哉は、ふわふわと蝶のように不安定に漂う花びらを見つける。
ああ、あの花びらを追わなければ。
そこで、思い出す。
ひとつの過去が終わると、あの花びらが現れる。
あの花びらを追いかけていけば、自分はまた、白蓮との過去にたどり着けるのだ。
だから、皇哉はふらりと、足を踏み出す。
白蓮との過去を、繰り返すために。
✣○●○●○●○●○✣
肌を刺す怒気に、映夢は、ハッと目を開けてその怒気の主に向き直った。
ここは、天――浄土に送られた人間の魂を、一時的に保管しておく、奥津城。
ここに足を踏み入れられる者は、限られている。
映夢の予想したとおり、振り返ったそこには白銀の髪に金色の瞳の、美の化身――浄土で至高の身分にある、天帝がいた。
「映夢、また勝手に奥津城に入りおって…」
「わたくしに、ここに立ち入る身分を与えてくださったのは、上様でしょう?」
にこり、と映夢は微笑む。
「立ち入ってもよいとは言った。 けれど、きちんと許可を取れぬようなら、その身分すら剥奪してもよい」
ちらり、と映夢は天帝の麗しい顔を見る。
その眉間にわずかに皺が寄せられているところを見ると、虫の居所が悪いらしい。
「機嫌がよいようだ。 どんな夢を見ていたのだ?」
「…そうですね。 下界に下りる許可をいただけたら、戻ってきた後に教えて差し上げますわ」
にこりと意図して艶やかに微笑んで見せると、ますます天帝の眉間の皺が深くなる。
「…余は、そなたのそういうところが好かぬ」
くるりと踵を返す天帝の背に、映夢は問う。
「ええ、それで、許可はいただけるのでしょう?」
「そなたの顔など見たくもない故、どこへでも行くがよい」
言い残して、天帝は消える。
なぜだかわからないが、映夢は天帝に煙たがられている。
だから、映夢は少しでも自分の株を上げようと、よく見て貰えるようにと頑張っているのだ。
先程、下界へ下りる許可を願ったのだって、ひいては天帝のため。
天帝は、浄土の女達――天女達を側に置かない。
天帝の身の回りの世話をしたり、天帝のために動いたりするのは、自分のような御使いだ。
御使いは、下界で生まれた化精や九十九神を、天帝が召し上げて実体を与え、更には名と異能を与えたものだ。
かく言う映夢も、枕の九十九神だった。
それゆえか、映夢は他者の見る夢を映しとることができる。 時折奥津城に入るのは、情報収集のためだ。
今現在、映夢は【取締】という立場にあるが、【上臈】にまで上り詰めたい。
天帝に認められて初めて、昇進は可能となる。
だから、出来るだけ良い働きをしたいのだ。
奥津城の中から、呼ぶ声が聞こえた。
それに誘われるようにして、奥津城に入れば、魂が夢を繰り返していたので、覗かせて貰った。 そうして映夢は、その夢の中に、【白蓮】という化精を見つけたのだ。
折しも先日、天帝のお怒りに触れて、御使いが一体、消されたところだった。
【御使い】の座がひとつ、空いている。 あの、【白蓮】という化精は、【御使い】になるだろうか。
その辺は、自分の勧誘次第だろうか、と映夢は考える。
けれど、上様はきっと、【白蓮】を気に入るはずだ。
天帝である上様と似た色彩を身に纏い、もう既に実体の取れる、あの化精を。
下界に下りれば、まだ、その御神木はあり、その枝にはぼんやりと女がもたれていた。
映夢の存在に気付かぬはずもなかろうに、身動き一つしない。
本当に生きているのだろうか、と疑わしくなるほどに。
「貴女が、白蓮?」
問えば、白蓮の山吹色の瞳だけが、つまらなそうに映夢を見た。
「…誰」
声にも、映夢が夢に見た、覇気はない。
「わたくしは、映夢というの。 貴女と同じような存在ね」
言えば、初めて白蓮は映夢に興味を持ったかのように、身体を映夢に向けた。
「…あんたは、あたしを殺す術を知っている?」
問われた内容に、映夢は目を瞠る。
一体、目の前の化精は、何を知っているかと映夢に聞いたのか。
音もなく地に降り立った白蓮は、縋るような目と表情を、映夢に向けた。
「死にたいのに、死ねないの」
そう訴える白蓮に、映夢はゾッとした。
怖い、と思うのに。 いや、だから、だろうか。
死を望み、死ねないと苦しむ白蓮は、凄絶なまでに、美しかった。
本来、実体を得る前の映夢のような九十九神は、本体が破壊されればそれが死となる。
けれど、既に実体を得て別の名を得た映夢は、本体とは切り離された存在だ。
本体が破壊されたところで、死ねない。
恐らくそれは、目の前の白蓮という化精の身にも、起きていることなのだろう。
彼女が、死を願っているのならば、それを確実に与えられるのは。
白蓮の視線が逸れたその一瞬に、映夢はひっそりと笑む。
すぐに、その笑みは消したけれど。
「ねぇ、貴女、御使いにならない?」
映夢の言葉に、白蓮は訝しげな顔をした。
御使い、というのが何かわからないのだろう。
だから、映夢は白蓮が食いつくであろう、餌をちらつかせる。
「貴女の願い、上様なら叶えられてよ?」
山吹色の瞳に、光が宿った。
一縷の望みを見つけた者の目だ、そう、映夢は思った。
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。
悲恋風味だけど、後味が悪くないものが書きたいなぁ、というのが『白木蓮に捧ぐ恋』の始まり。
同時進行で、『蝶の見る夢』という話を書いていまして、それと表裏一体…ではありませんが、過去と未来のような位置づけになっています。
二つを見比べると過去と未来ですが、どちらも現在の別の形。
『蝶の見る夢』は、R18なムーン様の方で、明日4/8(土)21:00にまずは更新させていただきます。
どうしても釈迦の誕生日に合わせたかった!←
『白木蓮に捧ぐ恋』が純愛?だったのに対し、『蝶の見る夢』はムーン様な内容になっておりますのでご注意を!
では、また、いつかどこかで。
『白木蓮に捧ぐ恋』に触れてくださった全ての方に、感謝を込めて。
2017.4.7 環名