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小説『メメント・モリ』の里程標  作者: 長岡まさ
第二章 ミデルフォーネとクランベ 
9/18

三 私と「あの彼」の粋狂な顛末 甲

 アデックケナー病院の大きな建造物が視界に入る。

 病院の正面にはレンガ造りの塀があり、内側は広々とした石畳になっているが、裏手は生い茂る大木が生垣代わりに敷地を囲んでいた。先生の訪れるであろう東側の病棟は、その鬱蒼とした森を直ぐ背にして建っている。

 私は運転のスピードを緩めながら、次の自身の行動の仕方について考えた。

 ふいに同期の研修医だった男との思い出したくもない遣り取りが甦り、悪寒が走る。


「特別病棟はね、表側に出したくない落伍者を押し込んでいるのですよ。いひひっ、気違いの収容所という訳です。それで東の森を開拓せずに、まるで埋め込むように建ててある。あそこの最上階を使っている奴は、実は一人しかいないと知っていましたか? 否、一人等と言っては語弊がある。化け物一匹です」

 勿体ぶった様に男はそう言った。

「随分と博識でいらっしゃるようですね。その胡乱な情報は何処からのものですか」

「いひひっ、僕はアデックケナーの遠縁にあたる血筋なのです」

「成程、どうやら私と貴方とでは、会話の水準が雲泥万里のようですね」

「いひひひっ、クランベはあの病棟にご執心だと聞いてね。どうです? 今夜ワインでも飲みながら、僕の“ウロン”な知識をお分けするというのは?」


 下卑た笑い方とはああいうものを言うのだと、感心したのを覚えている。

 後日あの男が研修を追われたのは、私の崇高なる姓を軽々しく呼び捨てにしたからではなく、単に極度の阿呆であったからだろう。仮にも医師を志す者が、胡乱な知識等よく口にしたものだ。

 時刻は何時の間にか二十三時を過ぎていた。

 とりあえず病院の敷地を迂回してさらに東へ回り、未舗装の道端に駐車する。先生は東病棟方面の森を抜け出て来ると予想し、車内でじっとその時を待った。

 夜勤の看護婦の見回り時間は深夜零時前後、見回りの目を避けるなら、その前には病棟から出ると考えたのだ。

 しかし、先生は現われなかった。

「意識の、し過ぎかしら……」

 ハンドルに凭れて呟いた。

 傍に居たいという思いが強過ぎて、「また後で」との他愛ない一言を誇大解釈しているのかもしれない。十三の頃から全く進歩の無い自身に心底脱帽する。

「それとも……」

 それでも、考えることを辞める訳には行かなかった。

 先生は何れ私の手の届かぬ所へ行ってしまう、出会った時から絶えずその空気を感じていた。その最後の瞬間は今かもしれないと何時も不安に駆られ、ならばせめてその場に立ち会いたいと願い続けた。

「願いは叶える前に、願うという行為其の物が必要になる」

 彼から繰り返し聞いた“ナナ”の思想が口を突いて出た。

「そして、願うためには、あらゆる可能性に敏感である事……」

 会合場所を私が間違えたのか、若しくはまだ、先生は病棟内に残って居るのか。私は後者の可能性に賭けることにした。


 病院の関係者用の駐車場を素通りし、敷地内西端の緊急外来スペースの木陰に駐車した。流石に私まで院内に無断侵入する訳にはいかない。小走りに中央棟入口横の守衛室へ向かい、そのガラス窓を控えめにノックした。

「夜分にすみません」

 息を切らした白衣姿の私をガラス越しに見て、守衛の男性が眉を下げる。

「何だあ?」

 気怠げな声を上げて緑の制帽を被った中年男性が、守衛室の扉を大きく開けた。

「ああ、あんた、研修で来てる子だなあ、見たことがある。こんな時間にどうした?」

「あの、遅くに突然申し訳ありません。此方に、遺失物で徽章は届いていないでしょうか?」

「キショウ?」

「此処に着ける小さなバッジです」

 私は白衣の左襟を少し指で摘みながら目を伏せた。

「ああ、お医者先生が着けてるあれかあ。いや、見てねぇな」

「そうですか……」

「失くしたのかい?」

「はい……研修中の大事な預かりものですので、何時も帰宅時に外す事にしていて。しっかりハンカチに包んだつもりだったのですが……気付いたら見当たらなくて」

「そうかあ、そりゃ参っちまうよなあ。いや、力になれなくてすまねぇなあ。明日、明るくなってから探したらどうだい? 何なら守衛の奴らから暇なの、手伝いに行かせて遣るからよ」

「いえ、実は……」

「何だ、どうした?」

「明日の研修医担当がマルク先生だとお聞きして、その……」

「ああー、なるほどなあ」

 男性は歯を見せて笑いながら、困ったという顔をした。

 外科主任補佐のマルク医師は、そのヒステリックで非常識な怒声で院内でも有名人だった。もし本当にアデックケナー病院の誇りの象徴たる徽章を失くした等とあの医師に言おうものなら、冗談ではなく鼓膜が片方破られかねない。

「あの先生の前に徽章無しで立つ姿を想像して、居ても経っても居られなくなってしまって」

 私は自身の片方の耳たぶをゆっくりと指で撫でた。

「でも、すみません、そんな理由でこんな時間に押し掛けてしまって。失礼しました」

「いやいや、あんた!」

 項垂れて引き返そうとする私を守衛の男性は呼び止めた。

「そんな事なら、今ちょいと探して来な」

「いえ、そんな」

「平気さ。あんたの事は何度も見掛けてるし。ここの研修さんなら、夜の見回りだって言やあ、お医者先生だって誤魔化せるだろ。特別に出入りの記録には、名前書かないで置いてやるから」

「そんな事をしたら、何かあった時に……」

 咄嗟に男性の胸元の名札を確認する。

「パウティスさんにご迷惑が掛かります」

「いや何、俺は良く居眠りしてるからな。さっきも急に眠気が襲ってきてなあ、あんたがノックしなきゃ、今頃夢の中で、あんたみたいな綺麗なねぇちゃんとランデブーさ」

 守衛の男性はげらげらと大声で笑った。私は少し戸惑った様に頷いた後、しおらしく告げる。

「それでは、お言葉に甘えて」

「健闘を祈ってるぜ!」

 パウティスは節くれ立った親指を力強く立てた。

 白衣の左ポケットへ忍ばせた指先で、徽章の冷たく尖った感触を弄びながら、私はその場を立ち去った。


「先生の、声……」

 二度目の予想は辛うじて的中した。聞き間違う事など有る筈も無い、スリオルト先生の声が件の病室から微かに漏れていた。

 ドアをうっすらと開け、中の様子をそっと窺う。先生は此方に背を向けて、楽しげにベッドの上の患者に話し掛けていた。

「でしょ? やっぱりあの味は最高だったよね」

 先生のご友人に、面と向かってお会いした事はまだ無かった。恐らく先生と年齢の近い人物で、“メメント・モリ”と呼ばれた彼らの内の一人なのだろう。

「あれから何度も探してみたんだけどね」

 水入らずの逢瀬の邪魔をするつもりは無かった。

 先生はご友人について多くを語らなかった。この部屋へ入らないよう忠告された事は無い。しかし一度も「一緒に会いに行こう」とは言ってくれなかった。先生にとってその方は、共に生き抜いた掛け替えの無い誰かなのだ。代わりの利く私では、二人の間に入って行けない。

「そう言えば、僕らの作ったあの歌もね」

 時折先生は幼い笑い声を上げた。

 うっすらと鉄の味がした。私は知らず下唇を噛んでいた。彼か彼女かも分からぬ全く意識の無い相手に、私は嫉妬している様だった。

 幸い、次の看護婦の見回りまで大分時間があった。私はそっと東病棟の四階から距離を置いた。


 濃い雲の狭間から月明かりが漏れていた。

 幾つも延びる階段や渡り廊下をふらふらと歩きながら、先生の事を思い巡らす。これでは私の方が、院内を徘徊する幽霊だった。

「約束……」

 頻りに先生は“約束”という語を繰り返していた。盗み聞いた単語だけでは、話の全貌は見えて来なかった。

 そう言えばこの病院では来月、生命維持装置の大掛かりな撤去計画が持ち上がっていたはずだ。先生からは何も伝えられていないが、あの部屋で使われているのはその生命維持装置ではないだろうか。

 由緒あるアデックケナー病院に十年近く入院し続けるための莫大な資金は、矢張り先生が独りで払い続けてきたのだろうか。小説家を生業にすると告げた頃の先生の様子を思い出す。果たして書き物の原稿料だけで、全てを賄えるものだろうか。私の学費だけでも先生にかなりの負担を強いているはずだ。

「クランベは、お金の心配なんてしなくていいんだよ」

 先生は何時も、さも可笑しそうに笑いながらそう言った。

「早く一人前になって、先生にお返ししなければ……」

 私は東病棟と中央棟を繋ぐ二階連絡通路の窓を一つ置きに開け放ちながら、自分自身に言い聞かせた。


 東側の窓は森に阻まれ、朝日こそ差し込んではいなかったが、外がうっすらと明るくなっているのが分かった。

 再度訪れた東病棟の四階の廊下で、私は先生に声を掛けるタイミングを只管計っていた。

「薄情者のナナが、聞いて呆れるよね」

 その聞き捨てならない一言に弾かれるように、私は病室の入り口から声を発した。

「先生が薄情者、ですか?」

 ゆっくりと先生は振り返った。その顔を見て、高鳴る胸中を悟られぬよう思い切り冷めた視線を送りながら、告げる。

「自己分析もままならないようでは、作家は務まりませんよ」

 不可侵だった領土へ、私は足を踏み入れる。

「そうだね。もうそろそろ潮時かもしれない」

 先生が少し、嬉しそうに目を細めたように見えた。

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