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小説『メメント・モリ』の里程標  作者: 長岡まさ
第二章 ミデルフォーネとクランベ 
8/18

二 私と「意地悪な人」の稀有な顛末

「白き翼の天使よ、我が心は貴女の元へ……」

 ベッドに横たわったまま、顔の上で万年筆の側面をなぞる。感覚の研ぎ澄まされた指先が、その文字列を詠んだ。コバルトブルーの胴軸に、銀色の箔押し、今は遠く離れてしまった祖国の言語だ。

「この私に向かって白い翼の天使だなんて。ほんと、意地悪な人」

 消毒液の香る薄暗い部屋で、私は独り言を呟いた。

 明後日は久しぶりに、古い友人と会う約束をしている。メリアーヌという二十も年下の彼女との繋がりは、この万年筆から始まったと言っても過言ではない。

 私は壁掛け時計に視線を移し、時間を確認して起き上がった。椅子の背に掛けていた白衣に、さっと腕を通す。胸ポケットにペン先の無い万年筆を差しながら、足を前へと踏み出した。

 ドアノブに手を掛けようとした所で、先にノブが回る。

「ああ、クランベ先生! やはり仮眠室だったんですね」

 顔を出した大柄な看護婦長が、安堵の息を吐いた。

「何かありましたか?」

「はい、また急患で」

「容態は?」

「外傷が酷すぎて、副主任クラスでは対応し切れないっておっしゃって。直ぐ出られます?」

「ええ。このまま行きましょう」

 胸元の硬い感触を確かめてから、私は院内の仮眠室を後にした。


 万年筆の贈り主、私の人生の筋書きを一新した方、はたまた私では手の届かない意地悪な初恋の人。

 あの人との関係を言葉で適切に表現する術を、私は知らない。


 先生、ダルト・スリオルト、出会った当時はナナと呼ばれていた彼に、私は一目惚れをした。否、心酔したという方が、或いは適切かもしれない。

 彼、“メメント・モリのナナ”は、私達ノモモギ出身者の仇であり、ノモモギ生存者の英雄だった。

 辺りに響く大人達の怒声、立ち込める鼻をつんと刺すような黒煙の臭い、風に煽られ舞い上がる炎の粉を、今でも鮮明に思い出す事が出来る。戦渦に取り残された十三歳の少女は、地獄の果てで、涼しげな目をした救世主を見た。

 あの時、あの場に居たのが他の人間であっても、彼は迷わず助けたのだと思う。だから彼にとって、私は特別な誰かでは無かった。それでも、私にとっては唯一の希望で、憧れのヒーローで、同時に魂を絡め取る悪魔だった。

 戦後の混乱の中、姿を消したナナを私は必死に捜し出し、あなたの手足にして欲しいと頼み込んだ。

 彼は当初、私に“ダルト・スリオルト”と名乗り、ナナと同一人物である事を認めようとはしなかった。それでも一向に引き下がらずまとわりつく十三歳の戦争孤児を、彼はどんな思いで眺めていたのだろう。

 私が彼の名にちなんで、“ダルタエ”という新たなファーストネームを使い始めた時、彼は苦笑しながら“クランベ”という姓をくれた。当初の私は無邪気に喜んだ。彼が私を認めてくれた、傍に居る事を許してくれた、そんな気がしたからだ。

 しかし程無くして、彼は一度もダルタエという名を口にしてはいない、という事実に気が付いた。彼は大抵私に“君”と呼び掛け、時折思い出したかのようにクランべと姓で呼んだ。それらが意味する距離感を、私は何となく察した。

 その時期からだったか、私は彼を“先生”と呼ぶようになった。物書きを生業にすると告げた彼に対して、丁度都合が良かった。

 私は必死で先生の隣に居続けるための、自身の存在価値を模索した。そうして志したのが医学の道だ。

 人命救助に尽力したいと願う戦争経験者達に混じって、ただ先生に必要とされるため、その隣に立って遜色無い地位を手に入れるために私は奮闘した。その先にあるのが、今の私である。

 果たしてダルタエ・クランベは、彼の理想の手足と成れたのだろうか。その問いの答えは未だ与えられていない。


 胸騒ぎがした。

 あの事件、小説家ダルト・スリオルトが死んだ日の、前日の事だ。

 私は奇妙な事件の一端を、先生の相棒として担う最後の幸運を得た。

 当時、アデックケナー病院という国立大病院の研修医となっていた私はあの日非番で、日用品の買い出しのために街へ出ていた。

 紙袋を二つ、両腕で抱えるように持ち、路肩に停めていた車へ近付いた時、後方から声が聞こえた。

「やあ、クランベ」

 振り返ると、少し先にスリオルト先生がいて、此方を手招きしていた。私はこれ見よがしに溜息を吐いてから、其方へ歩いて行った。

「買い物?」

「これが先生には一体何に見えるのですか?」

「たまの休日を有効利用した、まとめ買いの産物、かな」

「ええ、その通りです」

「持とうか?」

「いえ、直ぐ其処に車を停めてありますから。先生に呼び止められなければ、もう重い荷物を降ろして、席に着いて一息吐いていた所です」

「それはごめん。タイミングが悪かったね。特別話す事は無いんだけど」

「そうでしょうね。では」

 立ち去る素振りを見せたにも関わらず、先生は全く調子を変えなかった。

「これからそこの喫茶店で、担当編集さんと打ち合わせなんだ」

「そうですか」

「会わせたことあったっけ? ミデルフォーネさん」

「ありませんよ」

「凄く面白い人でね」

「そうですか」

「近い内に紹介する事になるけど……道の向こう側」

 先生が其方へふと顔を向けたのに釣られて、道路の反対側に目を遣った。

「黄色の」

 路肩に数台駐車されている中に、小ぶりで鮮やかな黄色をした車があった。

「あの車、そのミデルフォーネさんのなんだ」

「つまりは既に待たせている、という事ですね。早く行ったら如何ですか」

「うん、そうするよ。ところでさ」

「はい?」

「あの車、緑色の方がいいと思うんだけど、どうかな?」

「それは」

「呼び止めて悪かったね。じゃ、また後で」

 先生は何時も唐突に現われては、猫のように気紛れにふらりと去って行く。

 私は店へ入って行く先生の後ろ姿を紙袋の間から見送ってから、車に戻った。

 荷物を抱え続けていた両腕がすっかり痺れてしまっていた。だるさが抜けるまで暫く、運転席から黄色の小型乗用車を眺めた。丸みを帯びたそのフォルムに何処となく愛嬌を感じ、それがそのまま、車の所有者である担当編集ミデルフォーネ氏のイメージとなった。


 下宿先に着いてからだったと記憶している。妙な胸騒ぎがした。

 先生が別れ際に言った「また後で」の一言が無性に気になった。あの先生の事だ、意味のない言葉の選択はしない。“後日”と言わず“後で”と言ったのは恐らく、今日の事を指しているからだ。そして、私と先生が明確な場所の指定も無しに会えるような所は、片手で数えられる程しかない。

 ふと私は最近院内で持て囃されている噂話を思い出し、呆れながらハンガーへ手を伸ばした。出勤日と同じように白衣と鞄の支度をした。先生はあの病院で会う心算なのだと思い至ったからだ。

 私の研修中の病院には、先生のご友人が長い事入院されている。勿論、それが理由で其処を研修先にと願い出た。

 その方の病室があるという東病棟を、何故か先生は面会可能時間外に、受付を通さずに訪れる。今まで院内関係者に見つかっていないのが不思議なくらいだった。ここ数カ月は訪問頻度が増したせいか、患者からの目撃情報が相次いでいた。

 戦争の後遺症から精神を病んでいる患者が多いアデックケナー病院において、掴み所無くふらりと廊下に現われる人影は、戦禍に犠牲となった特別な誰かに見えるのかもしれない。既に亡くなった人物の名を口にしながら、医師に縋り付く患者の姿をもう何度も見ている。

 病院の消灯時間を過ぎたのを確認してから、私は白衣を片手にゆっくり部屋を出た。

 念のためと言うべきか癖と言うべきか、病院とは逆方向へ車を走らせ、遠回りをして目的の場所に向かう。

 随分昔に、先生に教わった事だった。


「何かもし、如何しても辿り着きたい場所がある時」

 手に持った麦の穂をくるりと回しながら、青空を見上げたまま彼は言った。

「君ならどうする?」

「私なら……必死に努力します。自身の持てる力全てを使って、其処へ辿り着く最短ルートを探して」

「うん、全く、君らしい」

「先生なら、如何されますか?」

「僕か。僕なら兎に角、真っ直ぐには進まない。まず、真逆の方向へ走り出すかな」

「真逆?」

「そう。思いっきり遠回りをしてから向かうってこと」

「何故です? 敵を撒くため、ですか?」

「その方が楽しみを後に取っておけるから。それに時間の隙間が生まれる」

「時間の隙間。それは……何かの例え話ですか?」

「どうかな?」

「私には……よく分かりません」

「クランベは真っ直ぐな性格だからね。長所だよ。僕はほら、こんなだから」


「全くあの人は」

 闇の中、私はハンドルを切りながら、頬が緩むのを感じた。

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