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小説『メメント・モリ』の里程標  作者: 長岡まさ
第二章 ミデルフォーネとクランベ 
7/18

一 お会いしてみたい憧れの「あの方」のこと

 ウェイトレスの運ぶコーヒーの香りが、柔らかく辺りを包む。

「こちらホットコーヒーとアイスティーになります」

 テーブルに白いソーサーとカップが置かれる。遠目から見ても気付くほど、持ち手の部分が特徴的な作りのカップだ。

「ありがとうございます」

 男性は顔を上げずにウェイトレスへ礼を告げる。彼の向いに座るもう一人の男性は、彼女の顔の方を見て軽く頷いた。

「以上でご注文の品はお揃いでしょうか」

「はい」

「では、ごゆっくりどうぞ」

 彼女の淡白な声音は、今ここへ向かっている待ち合わせ相手の声に、少し似ている気がする。

 そうして隣のテーブルの配膳を終え、私の横を通り過ぎて行くウェイトレスの後ろ姿に、ちらりと目を遣った。それは丁度、腰の白いリボンがふわりと揺れる瞬間だった。その清潔そうな白を見つめながら、開いていた手帳をぱたんと閉じ、明るく声を掛ける。

「すみません。私も注文、いいですか?」


 待ち合わせの十三時までは、まだ十分な時間がある。

 私は目の前に並んだホットコーヒーと軽食のセットをまじまじと眺めた。サンドウィッチには、ハムとたまごと、私が追加注文したスライスチーズが三枚も挟み込まれている。サラダには緑を覆い尽くすようにエビとトマトがたっぷりで、テーブルの上が一気に華やいだようだ。

 とりあえずコーヒーを片手に、今朝駅で購入した新聞を広げる。パンの端を擦らないように一枚、一枚と、嵩張る紙を捲りながら見出しの文字を注意深く目で追った。

「あった」

 お目当ての記事は、大分後ろの方、それも新聞の折目部分に近い下段に、小さく掲載されていた。


「若き異彩小説家ダルト・スリオルト 没後三十周年」

 不遇の新進気鋭作家であったダルト・スリオルトの没後三十周年を記念し、初の全集が満を持して刊行。未発表原稿多数収録。再来月より隔月一冊刊行予定。


 たった数行のその囲みを、鋏を使って丁寧に真っ直ぐ切り抜く。そして、革の大きな黒鞄からスクラップブックを取り出し、新たなページの上段に貼り付けた。

 また一つ、私の大好きな先生コレクションが増えたのだ。

 私はサンドウィッチに齧り付きながら、今度はスクラップブックの歴史を、現在から過去へと捲って行く。

 最初に目に入る十数ページは、ほとんど私の手書きメモばかりが貼り付けてある。それより遡ると、途端に随分と年期の入った新聞記事が現われる。急いで鋏を入れたからか、あの人のせっかちな性格からか、切り抜きの周囲はどれも極端に歪んでいた。


 カラン。

 喫茶店の扉が開くのと同時に、上部に取り付けられた鐘が鳴る。さっと顔を上げると、私の待ち侘びた彼女の姿が店の入り口にあった。

「あ、クランベさん! こっちです!」

 私は慌てて立ち上がり、右手を振る。直ぐに彼女は此方へ気付き、柔和に微笑んだ。

「ごめんなさい、メリアさん。お待たせしてしまったみたいで」

「いいえ、私が早めに来てしまっただけですから」

 彼女の着こなしたスーツから、薬品のような、それでいてほんのり甘いような香りがする。

 高鳴る胸を抑えつつ、私は彼女の顔を真っ直ぐ見つめた。

「寧ろ、本来ならこちらからお訪ねしなくてはいけないのに。わざわざありがとうございます」

「それは良いのよ。この喫茶店、以前から入ってみたかったの」

 彼女はテーブルの上をちらっと見て目尻を下げた。

「お食事中、だったかしら」

「あ、すみません!」

 放り出していた新聞と鋏を脇に寄せ、サラダボウルと齧り掛けのサンドウィッチの皿を手前に引く。

「クランベさんも、何か召し上がりますか?」

「私はもう済ませてしまったから、コーヒーだけ。気にしないでゆっくり食べてね」

 席に着いた彼女は、優雅な仕草で先程のウェイトレスを呼び、慣れた様子でコーヒーを注文した。


「暫くぶりね」

「そうですね。今日お会いできるの楽しみすぎて、昨夜は全然眠れませんでした」

 私は笑いながら、お言葉に甘えて、とトマトへフォークを突き立てた。

「前回お会いしたのは……私がまだ大学に通っていた頃でしたから、ええと」

「もう十年くらいになるかしら」

「たぶん、そのくらいに」

「じゃあもう、あの事件の頃のお父さんのお歳、並んでしまったのね」

「そうなんです」

 レタスと小ぶりなエビを重ねてフォークに差す。

「最近父に似て来たって、母にも言われて。娘としてはすごく複雑な気分です」

「ふふ。でもメリアさん、昔からお母さん似だったわね。アマンダさんにお会いしたのはあの時の一度だけだけれど、彼女の穏やかな雰囲気、ちゃんとメリアさんに受け継がれているわ」

「母は穏やかっていうより、のんびり屋って感じですけどね」

「今でも変わらずお元気で?」

「はい。父の手伝いも板に付いて。最近は母の方が、文壇の方と交流深いんですよ。結構楽しんでるみたいです」

 柔らかく微笑んだ後、クランベさんは頬杖を突いた。

「メリアさん、髪、かなり長くなったわね。手紙で髪を伸ばし始めたって読んでから、色々想像したのよ。もしかして想い人でも出来たのかしら」

「えへへ、内緒です」

「似合ってる。本当に綺麗になったわ」

「ありがとうございます」

 思わず頬が緩んでしまう。以前は肩に付くと直ぐに切っていた髪を、今は思い切ってロングにしている。理由は少し恥ずかしくて誰にも明かしていない。

「クランベさんだって。十年前と全然お変わりなくて、やっぱり綺麗」

「ありがとう。そう言って貰えると嬉しいわ」

 お世辞では無かった。目の前の彼女は、十年前に会った時と変わらず、否、初めてお会いした三十年前から変わらず、知的で涼しげで、何処となく深みのある淑女のままだった。とても、もう五十歳を超えているとは思えない。

「先程から気になっていたのだけれど」

 店内の蓄音機から流れる音が一瞬止んで、再び上品なクラシック曲が流れ出す。

「何を見ていたの?」

 彼女は私の手元を覗き込んだ。

「これですか? 私の秘蔵コレクションです」

 私はスクラップブックの表紙を上にして、彼女へ手渡した。

「『ダルト・スリオルト先生の記録』。随分年季の入った表紙ね。題字、メリアさんの字では無い様だけれど」

「はい。それ、父の筆跡です。誕生祝いに強請って、譲り受けたものなんです」

「開いても?」

「良いですよ。クランベさんからしたら、真新しい情報は無いでしょうけど」

 最初に彼女が開いたページは、小説『嘴に緑のオリーブを』に登場する鳥の描写について、私なりに論じたメモが貼ってある箇所だった。

「白い鳩の最初の登場シーン……かなり深く読み込んであるわね。ふふ。本当に好きなのね」

 私は齧ったサンドイッチを急いで飲み込み、大きく頷く。

「はい! 私の人生を変えてくれた人ですから、スリオルト先生は」

 彼女はさらに中程のページを開いた。

「あら、この記事……」

 今度は私が、彼女の手元を覗き込む。

 そこには何度も読み返した、あの新聞記事の歪な切り抜きが貼ってあった。澄まし顔のうら若き青年の写真が、ぼんやりと正面を向いている。


「人気の若手小説家 ダルト・スリオルト氏死去」

 先日、ガロンネッツ通りのスリオルト邸書斎から出火。数時間後に鎮火も屋敷は全焼。邸内から男性一名の遺体発見。調査の結果、遺体は当主で小説家のダルト・スリオルト氏と判明。また、火災発生時、同邸を訪れた担当編集者ルルボッチ・バルフォン氏も全身火傷により現在意識不明。ランプ用の燈油缶に暖炉の炎が引火か。現場は気密性が高く、バックドラフト現象により被害が拡大した模様。当局は事故として処理。


 店の奥で柱時計が時を知らせる鐘を打っている。十三時だ。

 クランベさんは、いつの間にか運ばれて来ていたコーヒーカップの持ち手に、指を絡ませていた。

「……報道陣の踊らされようと言ったら、まるで滑稽なマリオネット」

 彼女は溜め息混じりにそう呟いた。そして瞬時に、はっとしたように眉間の辺りを片手で覆った。

「ごめんなさい、メリアさん。自身の知らない分野について、とやかく言うものでは無いわね。もし気を悪くしたなら謝るわ」

「いいえ」

 私は首を大きく横に振る。

「私もこういうのにうんざりしている一人ですから。同じ業界の人間として情けない話です」

 すっかり冷めてしまったコーヒーと相まって、少ししんみりとした声が出てしまう。

「あの日の詳しい話は、お父さんから聞いているのでしょう?」

「はい。でも、あの父ですから、大袈裟と言うか、感情的と言うか。何処まで鵜呑みにして良いのやらって感じです」

 私が苦笑いをしたのを見て、彼女は口元を隠すようにして笑った。

「楽しい方ですものね。そうね、私の口から話しても良いのだけれど……」

 思わぬ言葉に鼓動が一気に速くなる。

「本当ですか! 聞きたいです!」

 クランベさんとは直接お会いできなくなってからも頻繁に文通していたが、あの日の事は何と尋ねたものか迷ったまま話題にした事は無かった。

「これは個人的な話だから、記事には含めないって約束してくれるなら」

「勿論です! 今日の取材は対談ってことになってますから、遅れている対談相手の先生がいらっしゃるまでは、全て古い友人との唯のおしゃべりです」

 私はテーブルに半身を乗り出さんばかりにして、クランベさんの顔を覗き込んだ。

「あなたのそういう所、お父さん譲りね」

「それは……褒めてますか?」

「勿論、褒め言葉よ」

「うーん、喜んでいいのか、ちょっと複雑です」

 落ち着きのまるで無い父の姿が思い浮かび、私は照れ臭くなって笑った。

「メモを取っても?」

「ええ。でも、メリアさんや先生方のように、上手くは話せないわよ」


 こうして雑誌記者の私は暫し職務を放棄した。

 穴が開くほど繰り返し読んだあの小説たちの生みの親、お会いしたくても叶わない“あの方”の新たなエピソードを、我が家宝に書き加える機会を得たのだ。

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