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小説『メメント・モリ』の里程標  作者: 長岡まさ
第一章 スリオルト 
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六 「小説家だった僕」は

「僕にはまだ遣る事がありますから、ミデルフォーネさんは先に下へ」

「しかし……」

「大丈夫です、ここで彼と心中したりなんかしませんよ」

 僕の軽口に、彼はバルフォンの遺体のある方角を振り返る。見えるのは勿論寝室の壁だけだが、呆けた彼の心を現実に引き戻すのに効果はあったようだった。

 正方形に切り取られた床板を片手で持ち上げ、階下へ続く梯子を下ろす。

「さあ、早く」

「……先生」

「何でしょう」

「私は、ヒューレッド・ミデルフォーネは、自分の口にした言葉は必ず果たす男です」

「ええ」

「それはこれまでも、これからも変わりません」

「はい」

「私は、どんなことがあっても、ダルト・スリオルトの味方です」

 真摯な情熱に溢れたその瞳へ、僕の姿が映り込んでいる。

「ありがとうございます。あなたで、本当に良かった」


 床板を嵌め、絨毯を敷き直した途端、大きな溜息が出た。

「……最後の決め台詞、あれは流石に、僕のシナリオには無かったな」

 すっかり十八番になってしまった独り言が、暗い寝室へ響く。頬の筋肉が緩む。

「あー、ごめんなさい」

 ミデルフォーネの純真過ぎる誠実さに当てられた所為か、緊張の糸が、切れた。

 心なしか寒気がする。動悸がした。心臓が脈打つごとに、言い様の無い痛みが体中を這う。

「つー」

 呻きにもならない呼気が、舌と上顎の間を貫けた。頽れた不格好な姿で、歯を食い縛る。

 撃たれたのは左腕の一カ所だけだったが、思いの外具合が良くない。

 こんな所で倒れる訳には行かないと、自分自身に言い聞かせる。迷う暇は無かった。

 封印していたデスクの引き出しから、胸ポケットへと忍ばせていた錠剤の粒を取り出し、唇の先で銜える。ベッドの枕元へ置いていた水差しに手を伸ばし、そのまま差し口を自らの口内に突っ込んだ。大量の水が勢いよく、体内へ薬を流し込む。口の端から溢れた水が絨毯へ、垂れた。

 ミデルフォーネが編集部で引き留められ、約束の時間に遅れて来ること、バルフォンが此処へ暗くなってから現われること、全て僕のシナリオ通りだった。最初の難所を無傷で切り抜けられる等と甘く見ていた訳ではなかったが、この手段をこの段階で使う羽目になるとは、少し辛い。

「……メメント・モリ」

 デスクの引き出しの奥に、たった一つ巣食っていたこの悪魔に、僕が頼る事になるなんて笑ってしまう。

「今の気分は、“死を想え”の方だ」

 効果は早いはずだが、痛みが引くのを悠長に待っている訳には行かない。

「どうか、正気の内に……」

 胸中で祈りながら、僕は文字通り重い腰を上げた。

 まず、バルフォンを書斎へ招き入れる。無論、彼が二本の足で歩いてくれるはずはなく、右腕の有りっ丈の腕力で引き摺り込んだ。唯でさえ体躯の優れた彼は、生気を失った後も大きな存在感を見せていた。

 次に、戸棚から鋼鉄製のペール缶を引っ張り出し、栓を開ける。

「……復讐、の心算は、無かったはず、だったんだけど」

 バルフォンの遺体を前に、胸の奥に高揚感が生まれている事に気付いた。何処か心の奥深くで眠っていた悪心が顔を出す。それにたっぷりと染み込ませる様に、僕はうつ伏せの彼に油を注いだ。

「ほんと、苦しまずに死ねるなんて、贅沢だね」

 ペール缶を傾けたままミデルフォーネが脱いだ靴の上を通過し、進む。窓辺のカーテンへ燈油を振り掛けた。立ち込める臭いに遣られたのか、無性に喉が渇いて、首元を爪で掻く。

「ミデルフォーネさん、もう行ったかな」

 そして、暖炉の火に白い蝋燭の先を近付ける。新たな光が生まれたように、そこへ移った火を確認し、蝋燭立てに刺した。既に燃料を失いつつあった暖炉から、最早温かさは感じられなかった。

「ぼくらはー、ふらすー……」

 口を突いて出たのは、昔仲間が歌っていた、あの歌だ。

「はやくーにげーこめー……」

 僕は大きくて薄い鉄板で、煙突へと続く通気口を塞ぐ。

「そーうさー、なかーまはーずれはー……」

 蝋燭立てを持ち、再び出入り口へ近付く。そこから部屋をぐるりと眺めた。

 特に思い入れのある場所では無かった。壊すなら、本当は大切なものと一緒が良かった。その方が、凄く、痛いから。

「……ああ、こんなことなら、クランベ、連れ込んでおくんだったかな」

 手を離れた蝋燭立てが、曲線を描く。白く浮かび上がった蝋燭と心許無い火は、大きな異物の背に当たり、一瞬で窓辺まで明るい一筋の道を作る。

 仕上げに、僕は書斎の扉を固く、閉めた。


 通りを足早に抜け、角を曲った辺りで、後方から大きな爆発音が聞こえた。

「小説の草稿、其処には無いのに」

 面識の無い人間に同情する程、僕は優しい人間では無い。

「唯ね、火傷は苦しいんだ。だから、少し、ごめんなさい」

 窓辺から見えた火に、彼らは慌てて書斎へ駆け込んだのかもしれない。軍人というには迂闊で間の抜けた人達を、ほんの少しだけ不憫に思った。

 一筋の涙が頬を伝うのは、矢張りあの薬のせいだろうか。


 左腕の止血は何時の間に緩んだのか。

 気付くと、僕の歩いて来た足取りを示すように、背後にぽたりぽたりと血痕が続いていた。病院の廊下はぼんやりと白く、酷く霞んで見えて歩き辛い。

 耳鳴りがする。イツカの、あの歌が聞こえる。

 特別病棟の四階、奥から三番目の部屋の扉を、ノックをせずに引いた。

「おかえり」

 そう言って迎えてくれはしない君に、僕は言う。

「迎えに、来たよ」

 ボリュームを下げて欲しいくらいなのに、頭の中の歌声はどんどん大きくなる。

 そっと、ベッドから伸びているゴム製のチューブを手に取り、そこにナイフの刃を当てた。

「きっと彼、大丈夫だ。僕らの物語、ちゃんと……」

 呂律が回らない。

 ――必ず守られる約束と言うものは、既に果たされたのと同義だから。

「ね。約束。最後、じゃ、無いよ」

 発している筈の、自らの声が聞こえない。

 ――だからもう、心配すべきことは何も無いよ。

「ナナ、らしい、か、な……」

 自分が今、立っているのか座っているのかも分からない。

 ああ。

「どうか、どう、か……」

 僕は祈った。


 僕は、僕らの人生は、案外悪いものじゃなかったと、今はそう、思う。

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