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小説『メメント・モリ』の里程標  作者: 長岡まさ
第一章 スリオルト 
5/18

五 「その後の僕」は書斎で 丙

「せ、せん、せい、ち、血が……」

「ああ」

 我に返って振り向く。

 絨毯に這いつくばり、ミデルフォーネは歯をがちがちと鳴らしていた。彼の視線は、僕の左手の指先を示していた。

「僕、ですか?」

 指先を確認しようとしたが、思うように左腕に力が入らない。二の腕に銃弾を受けていた。どうやら銃弾は貫通しているようだ。流れ出た血液が衣服の中を伝い、袖口から現われて、中指を撫でながら真っ直ぐ、落下する。

「せ、せんせい」

「ああ、これくらい平気ですよ。流石に、掠り傷です、とは言えないですが」

 素早く手近にあったタオルを丸めて脇の下に挟む。ネクタイをすっと外し、右手と口を使って肩の辺りをきつく縛った。

「へ、へん、しゅう、ちょう、は?」

 震えながら、彼は絞り出すように声を発した。

「恐らくは、もう」

 僕は書斎の出入り口へ歩み寄る。扉は完全に開き切らず、下部にゴム製のくすんだボールを噛んで、中途半端な状態を保っていた。

「し、死んで、いると……?」

 ミデルフォーネから死角になった位置、半開きの扉へ額をぶつける形で、バルフォンの身体がずり落ちている。

「ええ」

「あ、ああ、そんな……」

 彼はよろよろとふらつく足で立ち上がろうとして、また足が縺れた様に転んだ。

「編集長が、死……そんな」

「このような悲惨な現場に巻き込んでしまい、申し訳ありません」

「そんな、先生が謝ることじゃ……た、偶々、偶然、ですよね。撃ち所が悪かった、だけで」

 僕は彼の視線を辿り、その先を遮るように死体の横へ屈み込んだ。

「せ、先生が編集長を殺……そ、そんなこと」

 扉に凭れている、バルフォンの頭を少し浮かせる。眼球に光体を近付けて反応を見る心算でいたが、確認するまでも無く彼の絶命が見て取れた。僕は密かに安堵した。

「そ、そもそも、先生は銃なんてお持ちじゃなかった……そうです、私は見ていましたから! ああそうだ良かった、先生は潔白ですね。すみません、つい動転して、先生を疑うなんて事を」

 ほっとしたように彼は浅く息を吐いた。

「とすると、撃ったのは裏の家の方ですか? 先生のお知り合いで? そうであっても、ひ、人を撃つなんて……いやいや、た、偶々、そう、偶々先生が銃で脅されているのが窓越しに見えて。それで慌てて何とかしなくてはと、こう、向こうの家の窓から引き金を、そうですそうです」

 何時ものように、どんどんと話を作り上げてしまう彼に、何と言ったら良いものか少し迷った。本当に彼は先の大戦時、安全国から一歩も出なかったのだ。そしてこれが、人が死んだ現場に居合わせた人間の正しい反応の仕方なのだろうと、僕は他人事のように思った。

「……いえ、偶然ではありませんよ」

 傍へ近付き、彼を転ばせる余計なものを爪先で振り払う。右手を差し出して彼を立たせながら、こちらもそっと息を吐いた。

「確かに銃弾一発だけで全てが済むとは誤算でしたが……」

 嬉しい方の、と付け加えるのは止めておいた。自身の左袖の辺りに手を当てる。そこに隠し持っていたナイフを手のひらで軽く撫でた。これを振るう悲惨で残忍な光景を、一編集担当者へ見せずに終えられたことに、心の中で感謝した。

「僕は確かに、彼を殺すつもりでした」

「いや、いや、そんな、先生!」

 思わず、というように彼は僕の両肩を勢い良く掴んだが、穴の開いた左腕に気付いたのかぱっと手を離した。

「先生! そそそ、その腕は!」

 負傷部分を凝視し、彼は叫んだ。袖から先に垂れた血液にしか、気付いていなかったのだろう。間近で見た銃撃痕にかなり動揺したようだった。

「落ち着いて下さい。肩と脇で止血していますし、見た目ほど酷くはありませんよ。痛みもほとんどありません」

「す、すみません。びっくりしてしまって……」

 ミデルフォーネは急に俯き、一人で頷き始めた。

「ああ……そうだ、そうですね。落ち着け落ち着け」

 自己暗示を掛けるように、彼は「落ち着け」を繰り返した。

「……そう、先生は私の命の恩人です。身を呈して、こんな怪我までされながら、守って下さった。あそこで撃たなければ、先生は死んでいたかもしれない。私だって殺されていたでしょう。編集長は……そういう人間だった。そう、これは、ただの正当防衛です! そうでしょう?」

「いいえ」

 僕は淡々と首を振る。

「そんな、先生……」

「僕自身は生命の危機を感じてはいませんでした。勿論、慌てた隣家の住人の助け、という訳でもありません。そもそも、彼が此処を訪れるずっと前から、此方側の銃は牙をむいていた」

 彼は息を呑んだ。

「あなたに、謝らなければならないことがあります。ミデルフォーネさん、あなたにだって、僕は銃口を向けました」

 天井に目線を移した僕に釣られて、彼は書斎の隅の天井へ顔を向けた。

「傍目からでは分からないと思いますが。この書斎には木製彫刻の廻り縁があるでしょう。その天井の隅の部分、あの中は、銃を埋め込む事の出来る作りになっています。僕はこの家に住み始めた頃からずっと、書斎の護衛役の手入れを怠ったことはありません」

 彼はあんぐりと口を開けた。僕は彼に完全に背を向ける。

「子供騙しのからくりです」

「か、からくり?」

「はい。ごくごく簡単な。別の事象の連鎖で、引き金を引く仕掛けです。僕には彼が今日、僕の殺害を依頼されて、ここを訪れるであろうという確信がありました」

「かく、しん……」

「そして彼が、あの場所で立ち止まるだろうと読んでいました。いえ、そう誘導していました」

「え?」

「安っぽいシナリオでしょう?」

 一人笑う僕に、彼は何も言わない。

「活劇にしては盛り上がりに欠ける。矢張りもう、僕は小説家を引退した方が良さそうですね」

 きっと苦しげな表情をしているであろう彼に、僕は応える事が出来ない。

「バルフォンさんは旧陸軍の関係者です。僕は過去に、彼と面識があります。その上官である、ツェリュビャツァイ氏の名もその時に。彼らは小汚い少年兵の顔など、覚えていなかったようですが」

「編集長が元軍人……軍……思えばそうです」

 意外にも、彼は落ち着いた声で呟いた。

「編集部で、私と編集長のあの会話の流れで、軍と言う単語が出て来た事自体が不自然だった。編集長の口から、その単語が出た段階で、私は変だと気付くべきだったのですね……」

「いいえ。ミデルフォーネさんが気付かなかったのも、無理はありません」

 僕は首を横に振った。

「あれから十年も経って、まさか解体されたはずの陸軍が、未だ組織立って機能しているなんて。まして、名の知られた出版社の編集長が、その片棒を担いでいるなんて。小説の題材としてさえ安直です」

「事実は小説よりも奇なり、ですね。私もまさか、この言葉を身を持って経験することになるとは……」

 自嘲気味に笑った彼の声は、随分疲れているようだった。

「先生に、こんな事をお聞きするのは、あれなんですが……復讐、という事ですか」

 少し遠慮勝ちに彼が尋ねた。僕はもう一度首を横に振る。

「あれは何年前でしょうか。原稿を雑誌社に持ち込んで、初めて編集長席の前に通された時、僕は直ぐにバルフォンさんが、以前軍に居た彼だと気付きました」

 その時のことを少し思い浮かべた。

「それでも、特別、感情が掻き立てられたりはしませんでした」

 懐かしい痛みが再び蘇る。

「確かに過去の彼に纏わる出来事は、目を覆いたくなるようなものです。しかし、現在の彼の生死によって、失ったものが戻って来る訳でも、未来が明るくなる訳でもない。だから、彼が真っ当に、普通の人間の人生を歩んで行く、というのなら、それで構わなかった」

 僕は彼に向き直る。

「ミデルフォーネさん、僕はあなたに恩を売る積もりはありません。復讐も恩義も結局の所、残された人間の自己満足だというのが、僕の持論です」

「でも、私は……」

 右手を広げて彼の前に出し、その以上の言葉を遮った。

「これ以上、ゆっくりお話しする時間はありません。外の人間が、何時入って来ても可笑しくない」

 頭の中で思考と情報が処理し切れていないのか、彼は危機感の無い呆けた様子で佇んでいた。僕はその肩にそっと手を添えて歩みを進める。

「隣の寝室へ行きましょう。そこから階段を通らずに、一階のキッチンへ降りられるようになっています」

 隣室へと続く扉を開け、彼の背を推す。

 準備は既に整えていた。端から丸めて捲っておいた絨毯を跨ぎ、床板の一部に手を掛ける。

「梯子を降りたら、流し台の下を開けて下さい」

 彼はぼんやりと僕の顔を覗いた。

「先生は? 先生もご一緒ですよね?」

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