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小説『メメント・モリ』の里程標  作者: 長岡まさ
第一章 スリオルト 
3/18

三 「その後の僕」は書斎で 甲

 三十分程まどろんだだろうか。外でバンという大きな音が聞こえて、意識がはっきりとする。

 片方だけ開けて置いた窓から外を覗くと、門の前に小さな車が一台停まっている。どうやら車のドアを慌てて力いっぱい閉めたようだ。

 手前には、帽子を押さえながら玄関へと急ぐミデルフォーネの姿があった。何時だって必死な彼の様子を見ていると、自然と笑いが込み上げてしまう。

 程なく玄関ベルが鳴る。僕は窓から上半身を乗り出して、真下の彼に声を掛けた。

「開いていますよ。そのまま二階へお越し下さい」

「は、はい!」


 階段を全速力で上がって来たのだろう、彼は肩で大きく息をしていた。

「も、も……申し、訳、ない」

「大丈夫ですよ」

「いや、先生、本当に、こんな」

 彼は苦しそうに喘ぎながら、頭を繰り返し下げる。僕は彼を促して、来客用の椅子へ座らせた。

「本当に気にしていませんよ。昨夜は私用で出掛けていて、十分に寝ていなかったものですから、丁度仮眠を取ることができました」

「それと、これとは、別で」

「それに……来て下さっただけで、僕はあなたに感謝しかありません」

「いや、私が、先生を、お待たせして、しまうなんて、こんな失態」

 彼は息を整えようと、深呼吸を始めた。今まで待ち合わせ時間に遅れたことのなかった彼は、一時間半の遅刻でこの世の終わりのような深刻な顔をしている。

「……お一人、なんですね」

 僕はわざと、探るような視線を向けてそう尋ねる。

「はい、本来なら、編集長を、連れて来るべき、だったのでしょうが……」

 そう言い掛けて途中で僕の質問の真意を汲み取ったのか、彼は急に焦り始めた。

「いや、いや、通報なんて! 勿論しておりませんよ!」

 猛烈に首と手を振り動かす彼に、「そんな嘘を吐かなくても良いんです、通報する方が正しい道なのですから」と言わんばかりの落ち込んだ声音で、溜息交じりに言葉を返す。

「あなたは本当に、分かりやすい方ですね」

「いや、本当です先生、信じて下さい! 私は先生の味方です! 断じて軍に告げ口なんて!」

「ははっ、分かっていますよ、冗談です」

 笑い出した僕を見て、彼は力無くふうと息を吐いた。

「し、心臓が止まるかと思いました。先生もお人が悪い」

 彼は胸ポケットからハンカチを取り出し、盛大にかいた額の汗を拭う。

「人が悪いも何も、懸賞金の懸けられた大犯罪者ですからね、僕は」

「先生!」

 困り果てたように彼は声を荒げた。笑いながら僕は、彼を部屋に残して一度席を立った。


 淹れ直した紅茶を持って戻って来た時には、彼の額の汗はすっかり引いていた。

「冗談はここまでにしましょう、先程は失礼しました」

「いえ」

「今日は、もしや、編集部から直接ここへ?」

「はい、そうですが、それを何故?」

「バルフォン編集長と同じ銘柄の、煙草の香りがしたものですから」

 彼は自分の背広の袖の辺りを鼻元へ近付けた。

「そうですか、私にはさっぱり。でも、そうです、先程まで編集部で話を」

「それで、編集長は何と?」

「ああ、そうでした、まずはこれを」

 彼は尻ポケットから、よれた四つ折りの紙を取り出し、こちらへ真っ直ぐ差し出した。それを受け取り、彼の向いの椅子に腰掛ける。

「誓約書、ですか」

「はい、何とか説得しまして。まあ、こんなにもお待たせしてしまう程、交渉に時間がかかったのですがね。先生に関する一切の情報を秘匿する、と」

「よく、編集長が、これにサインを」

「まあ、そこは騙し打ち、みたいなものですよ」

「というと?」

 文面を目で追いながら尋ねる。

「先に、スリオルト先生から大ネタを仕入れて来ましたから、まずここにサインして下さい、と」

 颯爽と用紙を差し出す彼の姿が脳裏に浮かんで、思わず苦笑する。

「絶対にベストセラー間違いなし、各種大賞で受賞間違いなしの大傑作だと訴えたんですが。まあ、それでもサインまでにかなり手が掛かりまして。あの人の頑固は筋金入りですからね。その後、事の次第を話し始めたら、途端に血相を変えて、誓約書を返せだ何だと。途中で筆記具やら擦ったマッチの束やらを投げて来たりもしましてね。他の作家先生の原稿が危うく燃え上がるところで、もう、それは大騒ぎでした」

「僕のせいで、申し訳ありません」

 頭を下げた僕に、彼は素早く弁明する。

「いやいや、先生! そういう意味ではなくてですね! 先生を責めるつもりでは。頭を上げて下さい!」

 僕は顔を上げ、彼の外見を注意深く確認した。

「怪我はされませんでしたか?」

「それは大丈夫です。丈夫なのだけが取り柄みたいなもんです、この通りぴんぴんしていますよ」

 彼は両腕をぶんぶんと回して見せた。

「それは安心しました」

「そんなことより、先生」

 襟を正して向き直ると、今度は彼が深々と頭を下げた。

「お約束の時間に遅れてしまい、本当に申し訳ありませんでした。その……心配しておられたのではと、気が気ではなくて」

 僕は首を横に振った。

「ミデルフォーネさんが通報しない事は信じていました。いえ、信じていたというよりも、確定事項のようなものです」

「そこまで先生に信頼して頂けるとは、光栄です」

「ただ、そうですね。誓約書をご用意頂けるとは、思ってもみませんでした。勿論、バルフォン編集長が、サインして下さるとも」

「私に出来る事はせいぜいこれくらいです。原稿が仕上がるまでは先生と私とで隠しおおせたとしても、出版に漕ぎつけるまでに先生の素性を明らかにせざるを得ない時がきっと来ます。それならば先んじて、少しでも先生の不安を除けるのであれば、と、その一心で」

「ありがとうございます」

「それから、編集長の態度で少し……」

 一瞬言い淀んだ彼だったが、腹を決めたように力強く僕の目を見た。

「実は、編集長とは、袂を分かつつもりでいるんです」

「それは……」

「今回の件で決心が固まりました。元々戦争を扱った作品を敬遠する編集長のやり方は、納得が行きませんでしたし、あの人は何かこう、人間としての熱が感じられないというか……」

 彼は紅茶のカップに口を付ける。

「先生は、冷静な方ですし、物腰も柔らかくて、涼しげな印象がある。それでも、ちゃんと人間としての根っこと言うんでしょうか、そこに温かいものを感じるんですよ。でもあの人からは、それが感じられない。見た目はまあ、厳つくてあれなんですが」

 僕は黙っていた。

「編集長はあの通り保守的な人ですから、誓約を破るとは考えにくい。ですが、いつ取り返しに乗り込んで来ても可笑しくない。無論、その時は全力で先生を援護致します」

 彼は次第に早口になる。

「ですから、大変申し訳ないのですが、出版自体は少し先になってしまうかもしれません。まずは私の再就職先から、探さねばなりませんからね。個人で出版社を立ち上げるには、私では力不足ですから。あっ、でもそうなると、先生は他社の担当に鞍替えされるなんてことも!」

 話をどんどん独りで進めてしまう彼の様子が余りにも何時も通りである事に、僕は胸を撫で下ろした。

「ご心配には及びません。“メメント・モリ”の話題は、おいそれと他人に話せるような内容ではありませんし、第一僕は、ミデルフォーネさん、あなただからこそ、この件をご相談しようと思ったのです」

「いやあ、先生。そのお言葉だけで、一生付いて行けそうです」

 満面の笑みを浮かべる彼に、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「僕の方からも一つ、宜しいですか?」

「何です?」

「ミデルフォーネさんはここへいらした時に、“軍に告げ口はしていない”とおっしゃっていましたね」

「はい。それは勿論、神に誓って、断じてそのような事はしていませんよ」

「バルフォン編集長は、“軍に報告すべき”とおっしゃったんでしょうね」

「はい。『“メメント・モリ”を野放しにしておく訳にはいかない。直ぐに陸軍の何某氏にお伝えしなければ』と」

「陸軍、ですか。その軍部にいるという方の名前は……」

「すみません、確かに聞きはしたのですが、耳慣れない名前だったもので。ええと……」

「もしや、ツェリュビャツァイ……」

 僕が口にした名前を聞いて、彼は手を打った。

「そうです、そんな名前でした。ご存知なのですか?」

 その問いには答えず、テーブルに肘を突いて指を組む。

「大戦終結から、もう十年以上になります」

 急に話を変えた僕の言葉に、彼は首を傾げた。

「ええ」

「あれから敗戦国の軍部は一部を残してほぼ解体、戦勝国でも軍備縮小が世界的な基本方針です。嘗ての要人は立場を追われ、どの国にも、政治的、経済的な主要ポストに就く、軍人は居ません」

「はい」

「そして今や犯罪の種類、程度に関わりなく、取り締まりは新たに発足した警察機構が担当しています」

「ええ、そうでしょう」

「つまり過去の戦犯者に対しても、同様の扱いという事です」

 頻りに瞬きをしながら、彼は黙り込んだ。

 思い込みの激しい面はあるものの、彼は決して察しの悪い人間ではない。しかし、流石にこればかりは伝わらなかったようだ。

「さて」

 組んでいた指を解き、立ち上がる。

「そろそろ、本題へ入りましょう」

「先生、先程のお話は一体……」

「何れ分かる事です。僕の口からお伝えするより、ご自身の目で確認なさる方が、あなたの場合は良さそうです」

 彼は何か言いたげな様子だったが、口を挟むことなく頷いた。

「それでは、お話を聞いていただく前に」

 書斎の壁際、戸棚の上に用意していた箱を手に戻る。彼は訝しげにその箱を見た。

「な、なんです? それは」

「これは僕から、ミデルフォーネさんへの感謝の印です」

 僕が箱の淵に手を掛けた瞬間、彼が息を呑んだのが分かった。少しからかいたくなったが、これ以上彼の不安を煽るのは流石に不憫で、そのまま蓋を開ける。

「それは……靴? ですか」

「ええ。以前、靴底の擦り減りが早いとおっしゃっていたでしょう」

「はい。よく覚えておられましたね」

「印象深かったものですから。まだあの砂利道はそのままで?」

「ええ、そのままです。大通りから自宅まで、ブロック三つ分、砂利道ですよ。子供もあれから随分重くなりましてね。抱き上げたまま歩く事が多いですから、さらにこの通りです」

 彼は自身の靴の踵を少しこちらへ傾ける。確かに大分擦り減っているようだ。

「尚更丁度良かった。サイズは合うと思うのですが」

 箱から取り出した一揃えの革靴を差し出す。

「今、ですか?」

「はい」

 彼は少し戸惑ったようだが、僕の手から黒光りする革靴を受け取ると、そのまま自分の靴と交換して履いてくれた。

「おお、ぴったりです」

「それは良かった、最後に少しでもお返しが出来ればと思っていたものですから」

「最後なんて、先生、何を」

 続けて彼が言い掛けた言葉を手で制して、僕は言う。

「それでは、時間が惜しい。暫く僕の話を聞いて頂けますか」

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