二 「その後の僕」は病室で
走る、走る、走る。
肉体から精神だけが飛び出してさらに僕の前を行く。脚が追い付かない。
走る、走る。
後ろから迫っているのだ。何が? 一体何が迫っているのだろう。
鬱蒼とした森の中、生い茂る草、闇にまぎれた木の根に躓きそうになる。
腰のベルトに挿していたはずの拳銃が、ふと軽くなる。
落したのか? ダメだ、それが無いとダメなんだ。
焦る、焦る、焦る。
振り返るんだ、戻るんだ、拾うんだ。
でもそんな時間は無い。
追い付かれる、迫っている。すぐそこに――
何時の間に船を漕いでいたのか、気が付くと外はうっすらと明るくなっていた。
カーテンから漏れる幽かな朝日が病室内を包む。様々な計器の中央、白いベッドカバーがぼんやりと浮かび上がって見えた。
「ごめん、ちょっと寝ちゃってたみたいだ」
僕はゆっくり息を吐いてから、椅子の背凭れに身体を預けた。
「……ねぇ、僕、ちゃんとやれるかな?」
掠れた様な声が出た。勿論答えは返ってこない。
十年前、あの手紙をこの枕元へ置いたときから、返事をずっと待ち続けているのに、君は一向に目を覚まさなかった。
「君は僕の事、自信家だなんて言ってたけど、そんなことないでしょ?」
僕は思い出し笑いをする。
「……昨日のミデルフォーネさん、面白かったなぁ」
お気に入りだった喫茶店の、カランという鐘の音が頭の中で響いた。
「今日の昼食はね、サンドウィッチにしようと思うんだ。あの店の味に似せて、ハムとたまごの。あ、チーズも入れようか」
手をそっと伸ばすと、辛うじてシーツと布団の隙間に届く。そのまま指を差し込み、そこにある動かない左手に僕の右手を重ねた。
「君はチーズ、好きだったね」
強く握ったら折れてしまいそうに細い指に、熱を送り込む。
「ほんとはね、一度、ミデルフォーネさんに、会わせてあげたかったんだよ」
昨日の彼の動揺っぷりを思い出す。
「僕の五人目の担当さん、ほんとに面白い人なんだから」
著名人の前でも臆することなく熱弁を奮う雄姿、作者を置いてけぼりにするほどの作品愛、どれを取っても、今までの担当編集者の中で、彼のような人物はいなかった。
「そろそろ見回りの看護婦さん、来ちゃうかな」
そっと手を離し、立ち上がる。面会者用の椅子を壁際へ戻すと、目尻にうっすらと涙が浮かんだ。
「薄情者のナナが分かれに涙するなんて、聞いて呆れるよね」
独りで話し続けることに、すっかり慣れてしまったこの十年間を想う。長かったような気もするし、あっという間だった気もする。
「先生が薄情者、ですか?」
いつの間にか廊下へ出る扉が開いていて、出入り口に凭れるように人が立っていた。
「自己分析もままならないようでは、作家は務まりませんよ」
冷たい視線が刺さる。彼女はポケットへ手を入れたまま白衣を翻し、こちらへ近付いて来た。僕は取り立てて驚く事もなく、彼女と向き合う。
「そうだね。もうそろそろ潮時かもしれない」
彼女からは薬品のような、それでいて甘いような香りがした。
「引退なさるおつもりですか?」
問い掛けに答える代わりに、僕は肩を竦める。
「そんなことより、こんな時間にこんなところでどうしたの?」
「それはこちらの台詞です。今日の面会時間開始までは、あと四時間あります」
僕は先程より大袈裟に肩を竦める。彼女は大きな溜息を吐いた。
「最近、院内を徘徊する霊が出ると、患者の間で噂になっています。精神的に……不安定な方が多いですから、この病棟は。そんな戯れ言と一蹴する訳にもいかず、こうして研修医が幽霊狩りに駆り出される始末です。大概にしていただかないと」
「うーん、徘徊してはいないんだけどな。僕が来るのはこの部屋だけ、それも最短ルートで」
「屁理屈をこねる暇があるなら、早く痕跡を消して出て行って下さい」
「全く、君らしい」
彼女へ笑い掛けながら、部屋の備品の位置を確認する。全てがここを訪れる前と変わっていないことを見届けてから、椅子の背に掛けていたコートを手にした。
「……顔色、優れないようですね」
出て行けと言いながら、彼女は僕の進行方向にすっと立ち塞がった。
「そうかな」
「体調管理もできないのですか、あなたという人は」
口調は相変わらず尖っていたが、彼女が本気で心配しているような様子を見せるのは珍しい。何となく嫌な予感がした。
「ごめん。昨日は、というよりもう今日か。ちゃんと寝てなくてね」
「……何時からここに?」
「一つ前の見回り時間のすぐ後、かな。ちょっと顔が見たくなって」
僕はベッドを振り返る。
「何故です」
今日の彼女はなかなか引いてくれない。いや、彼女は昔から勘が異常に鋭くて、押しもかなり強い。
「大したことじゃないよ。次の作品の構想を練っていて、煮詰まってしまっただけ」
「あなたは何時からそんなに、嘘を吐くのが下手になったのですか」
彼女が詰め寄って来る。僕はそのまま動かずに、じっとその瞳を見つめ返した。彼女の顔がさらに近付き、唇が触れ合いそうになる。それを僅かに首を傾けてかわした。
「……意地悪な人」
恨めしそうに彼女は言い、すっと僕から離れる。前髪で一瞬顔が隠れたが、彼女がこんなことで泣くはずもないことは分かっていた。
刹那、僕は彼女目掛けて細長い小箱を投げた。彼女は器用に片手でキャッチすると、面を上げて怪訝な顔をした。
「何ですか、これは?」
「君へのプレゼント」
「また下手な嘘を。私に物を贈ったためしなど無いくせに」
彼女は小箱を軽く振った後、何も言わずに蓋を開けた。取り出された万年筆は、薄ぼんやりとした病室の中で輪郭を曖昧にしている。
「先生のお古なら要りませんよ」
「一応、万年筆としては新品だよ」
「万年筆としては、ですか。一体何をリメイクなさったのだか」
「君はやっぱり隅に置けないな」
苦笑いする僕を他所に、暫く万年筆を掲げて眺めていた彼女は、それを胸のポケットに挿した。そして小箱は左手に持ち直し、白衣ではなくズボンのポケットへ仕舞った。
「そろそろ巡回の者が来ます。早くお帰りになって下さい」
「君こそ。こんな時間に病院内をうろうろして、新たな霊の噂が立っても知らないよ」
「ですから私は見回り中で……」
「君の担当曜日、僕が把握していないとでも?」
一瞬ぽかんと無防備に開いた口元をさっと引き締めて、彼女は僕を睨む。
「やはり、先生には“薄情”より“意地悪”の方がお似合いです」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
彼女はほんの少し表情を崩した後、踵を返して病室を出て行った。その分かりにくい気遣いに感謝する。
「あと五分は居られるかな」
もう一度この部屋に二人きりにしてくれた彼女へ、心の中でありがとうと呟く。
僕はベッドの枕元へ、十年間祈り続けたその場所へ近付く。
「また後で。必ず迎えに来るから、ね」
そこに何時かのあの笑顔を思い浮かべる。そして、音にはせずに唇の動きだけでその名を呼ぶ。
呼び掛けに応えるように、声が聞こえた。
「最後の一人にしないで」
空耳だと分かっていたけれど、はっきりと言葉を返す。
「うん、一人で逝かせたりなんかしないよ」
僕はベッドに背を向け、片手を挙げた。
自宅書斎の柱時計が、十四時を知らせる鐘を鳴らした。
目の前のテーブルに用意していた紅茶はすっかり冷めてしまい、サンドウィッチのパンも暖炉の火に当てられて乾燥し始めている。僕は一人、コーヒーのお代わりを淹れるために立ち上がった。
「やっぱり。予想通り、かな」
溜息が洩れる。
ミデルフォーネに科した難題は、本来僕が一人で負うべきものだ。だから、彼がどんな行動に出ても、僕にそれを責める資格はない。それでも、僕の描いたシナリオ通りに物事が進まない事を、心の何処かで期待していたのだと思う。
十三時に、ミデルフォーネは現れない。これは僕のシナリオの序章だ。
暫く開く事のなかったデスクの引き出しへ、僕は手を掛けた。