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小説『メメント・モリ』の里程標  作者: 長岡まさ
第一章 スリオルト 
2/18

二 「その後の僕」は病室で

 走る、走る、走る。

 肉体から精神だけが飛び出してさらに僕の前を行く。脚が追い付かない。

 走る、走る。

 後ろから迫っているのだ。何が? 一体何が迫っているのだろう。

 鬱蒼とした森の中、生い茂る草、闇にまぎれた木の根に躓きそうになる。

 腰のベルトに挿していたはずの拳銃が、ふと軽くなる。

 落したのか? ダメだ、それが無いとダメなんだ。

 焦る、焦る、焦る。

 振り返るんだ、戻るんだ、拾うんだ。

 でもそんな時間は無い。

 追い付かれる、迫っている。すぐそこに――


 何時の間に船を漕いでいたのか、気が付くと外はうっすらと明るくなっていた。

 カーテンから漏れる幽かな朝日が病室内を包む。様々な計器の中央、白いベッドカバーがぼんやりと浮かび上がって見えた。

「ごめん、ちょっと寝ちゃってたみたいだ」

 僕はゆっくり息を吐いてから、椅子の背凭れに身体を預けた。

「……ねぇ、僕、ちゃんとやれるかな?」

 掠れた様な声が出た。勿論答えは返ってこない。

 十年前、あの手紙をこの枕元へ置いたときから、返事をずっと待ち続けているのに、君は一向に目を覚まさなかった。

「君は僕の事、自信家だなんて言ってたけど、そんなことないでしょ?」

 僕は思い出し笑いをする。

「……昨日のミデルフォーネさん、面白かったなぁ」

 お気に入りだった喫茶店の、カランという鐘の音が頭の中で響いた。

「今日の昼食はね、サンドウィッチにしようと思うんだ。あの店の味に似せて、ハムとたまごの。あ、チーズも入れようか」

 手をそっと伸ばすと、辛うじてシーツと布団の隙間に届く。そのまま指を差し込み、そこにある動かない左手に僕の右手を重ねた。

「君はチーズ、好きだったね」

 強く握ったら折れてしまいそうに細い指に、熱を送り込む。

「ほんとはね、一度、ミデルフォーネさんに、会わせてあげたかったんだよ」

 昨日の彼の動揺っぷりを思い出す。

「僕の五人目の担当さん、ほんとに面白い人なんだから」

 著名人の前でも臆することなく熱弁を奮う雄姿、作者を置いてけぼりにするほどの作品愛、どれを取っても、今までの担当編集者の中で、彼のような人物はいなかった。

「そろそろ見回りの看護婦さん、来ちゃうかな」

 そっと手を離し、立ち上がる。面会者用の椅子を壁際へ戻すと、目尻にうっすらと涙が浮かんだ。

「薄情者のナナが分かれに涙するなんて、聞いて呆れるよね」

 独りで話し続けることに、すっかり慣れてしまったこの十年間を想う。長かったような気もするし、あっという間だった気もする。

「先生が薄情者、ですか?」

 いつの間にか廊下へ出る扉が開いていて、出入り口に凭れるように人が立っていた。

「自己分析もままならないようでは、作家は務まりませんよ」

 冷たい視線が刺さる。彼女はポケットへ手を入れたまま白衣を翻し、こちらへ近付いて来た。僕は取り立てて驚く事もなく、彼女と向き合う。

「そうだね。もうそろそろ潮時かもしれない」

 彼女からは薬品のような、それでいて甘いような香りがした。

「引退なさるおつもりですか?」

 問い掛けに答える代わりに、僕は肩を竦める。

「そんなことより、こんな時間にこんなところでどうしたの?」

「それはこちらの台詞です。今日の面会時間開始までは、あと四時間あります」

 僕は先程より大袈裟に肩を竦める。彼女は大きな溜息を吐いた。

「最近、院内を徘徊する霊が出ると、患者の間で噂になっています。精神的に……不安定な方が多いですから、この病棟は。そんな戯れ言と一蹴する訳にもいかず、こうして研修医が幽霊狩りに駆り出される始末です。大概にしていただかないと」

「うーん、徘徊してはいないんだけどな。僕が来るのはこの部屋だけ、それも最短ルートで」

「屁理屈をこねる暇があるなら、早く痕跡を消して出て行って下さい」

「全く、君らしい」

 彼女へ笑い掛けながら、部屋の備品の位置を確認する。全てがここを訪れる前と変わっていないことを見届けてから、椅子の背に掛けていたコートを手にした。

「……顔色、優れないようですね」

 出て行けと言いながら、彼女は僕の進行方向にすっと立ち塞がった。

「そうかな」

「体調管理もできないのですか、あなたという人は」

 口調は相変わらず尖っていたが、彼女が本気で心配しているような様子を見せるのは珍しい。何となく嫌な予感がした。

「ごめん。昨日は、というよりもう今日か。ちゃんと寝てなくてね」

「……何時からここに?」

「一つ前の見回り時間のすぐ後、かな。ちょっと顔が見たくなって」

 僕はベッドを振り返る。

「何故です」

 今日の彼女はなかなか引いてくれない。いや、彼女は昔から勘が異常に鋭くて、押しもかなり強い。

「大したことじゃないよ。次の作品の構想を練っていて、煮詰まってしまっただけ」

「あなたは何時からそんなに、嘘を吐くのが下手になったのですか」

 彼女が詰め寄って来る。僕はそのまま動かずに、じっとその瞳を見つめ返した。彼女の顔がさらに近付き、唇が触れ合いそうになる。それを僅かに首を傾けてかわした。

「……意地悪な人」

 恨めしそうに彼女は言い、すっと僕から離れる。前髪で一瞬顔が隠れたが、彼女がこんなことで泣くはずもないことは分かっていた。

 刹那、僕は彼女目掛けて細長い小箱を投げた。彼女は器用に片手でキャッチすると、面を上げて怪訝な顔をした。

「何ですか、これは?」

「君へのプレゼント」

「また下手な嘘を。私に物を贈ったためしなど無いくせに」

 彼女は小箱を軽く振った後、何も言わずに蓋を開けた。取り出された万年筆は、薄ぼんやりとした病室の中で輪郭を曖昧にしている。

「先生のお古なら要りませんよ」

「一応、万年筆としては新品だよ」

「万年筆としては、ですか。一体何をリメイクなさったのだか」

「君はやっぱり隅に置けないな」

 苦笑いする僕を他所に、暫く万年筆を掲げて眺めていた彼女は、それを胸のポケットに挿した。そして小箱は左手に持ち直し、白衣ではなくズボンのポケットへ仕舞った。

「そろそろ巡回の者が来ます。早くお帰りになって下さい」

「君こそ。こんな時間に病院内をうろうろして、新たな霊の噂が立っても知らないよ」

「ですから私は見回り中で……」

「君の担当曜日、僕が把握していないとでも?」

 一瞬ぽかんと無防備に開いた口元をさっと引き締めて、彼女は僕を睨む。

「やはり、先生には“薄情”より“意地悪”の方がお似合いです」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 彼女はほんの少し表情を崩した後、踵を返して病室を出て行った。その分かりにくい気遣いに感謝する。

「あと五分は居られるかな」

 もう一度この部屋に二人きりにしてくれた彼女へ、心の中でありがとうと呟く。

 僕はベッドの枕元へ、十年間祈り続けたその場所へ近付く。

「また後で。必ず迎えに来るから、ね」 

 そこに何時かのあの笑顔を思い浮かべる。そして、音にはせずに唇の動きだけでその名を呼ぶ。

 呼び掛けに応えるように、声が聞こえた。

「最後の一人にしないで」

 空耳だと分かっていたけれど、はっきりと言葉を返す。

「うん、一人で逝かせたりなんかしないよ」

 僕はベッドに背を向け、片手を挙げた。


 自宅書斎の柱時計が、十四時を知らせる鐘を鳴らした。

 目の前のテーブルに用意していた紅茶はすっかり冷めてしまい、サンドウィッチのパンも暖炉の火に当てられて乾燥し始めている。僕は一人、コーヒーのお代わりを淹れるために立ち上がった。

「やっぱり。予想通り、かな」

 溜息が洩れる。

 ミデルフォーネに科した難題は、本来僕が一人で負うべきものだ。だから、彼がどんな行動に出ても、僕にそれを責める資格はない。それでも、僕の描いたシナリオ通りに物事が進まない事を、心の何処かで期待していたのだと思う。

 十三時に、ミデルフォーネは現れない。これは僕のシナリオの序章だ。

 暫く開く事のなかったデスクの引き出しへ、僕は手を掛けた。

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