十一 ああ「先生」、私はこれからどうすれば 甲
三十過ぎ、娘持ちの男が、薄紫色のワンピースを翻してファンシーな桃色の部屋に居る(否、辛うじて、スカートを翻してはいない)。
敵の目を欺くために女装をさせられているのだとは思うが、これで本当に変装になっているのだろうか。
部屋を出ると、玄関の傘立てには、落ち着いた黒の傘が一本立てられていた。
私は見慣れぬその玄関口でドア板に耳を当て、神経を研ぎ澄ませて外の様子を窺った。矢張り何の物音もしない。私はごくりと生唾を飲み込むと、意を決してドアノブに手を掛けた。
外界の空気に触れると同時に、急いで傘を広げた。もう十分暗いとはいえ、万が一という事もある。例え敵に見つからなくとも、こんな醜態を通行人やご近所さんに晒す訳にはいかない。
玄関から薔薇の木を縫うような砂利の小道を辿って庭を抜け、腰の高さ程の木製の門を押して通りに出ると、はて見覚えのある景色だった。街並みも何処か親近感がある。
通りを挟んで向かいに見える、あのガス灯の明かりに浮かび上がる文字は、頑固者で有名な爺さんの店の看板だ。先生の本をぞんざいに並べた事件を巡って、三時間も談義を繰り広げた古書店だ。
「そうか、先生の屋敷の裏通りだ」
思えばそのはず、いきなりピンク色の部屋にクローゼットから入り込み、ドレスを纏った変質者になって出て来たからといって、私が御伽噺に紛れ込む等という事は有り得ない。
振り返ると巨大なお屋敷が聳えていた。無論スリオルト邸ではない。先生の屋敷の真北に位置するのだろう、全く別の建物だ(スリオルト邸よりも或いは大きいかもしれないが、何分暗くて全容は解らない)。
どうやら先生の家のシンク下から隣家のクローゼットへと秘密の通路が作られていたらしい。私が地下を這い回っていた間、実は頭上にあった地上部分をじっくり確認したい衝動に駆られたが、今はそれどころではない(こう長々と語ってはいるものの、私の逡巡は実は一瞬である。勿論命を狙われて逃避行中である事を忘れてはいなかった)。
「帰るべき場所に背を向けて」
そう、あれは先生の作品『去りて尚走り』の一節に似ているのだ。勿論女装した三十歳男なぞは出て来ないが、薄紫のドレスを纏ったヒロインが愛する人の待つ方角へ背を向け、颯爽と歩き出す印象的なワンシーンがあった。
「ということは、私も自宅と逆方向へ歩いて行けばいいのだろうか……」
自宅はここからだと西になる(おっとりした妻と指しゃぶりが止まらない娘の待つ家だ)。私は東西に延びる通りを東へ向かって早足で歩き出した。
移動しながら私は頭の中を整理しようとした。
先の大戦の終結に一枚、否それ以上噛んでいる“メメント・モリ”のリーダー、ナナであるダルト・スリオルト先生の事(この一文だけで大混乱だ)。正直な所、実感がまるで沸かなかった。虫も殺さない様な物静かな先生が先の大戦の特級戦犯だ等と。
さらに、解体したはずのこの国の陸軍と通じ、先生へ銃口を向けたバルフォン編集長の事。
編集長とは確かに反りが合わず良く衝突したが、現在の文芸誌の地位を確立したのは他でもない彼で、現代文学界への貢献度は非常に高い。社会的に成功している彼が、一体どんな因縁で過去に捕らわれていたのか。否、過去への執着を言うなら先生も同様か。
ぐるぐると無意味な思考を繰り返す。真実は何処にあるのだろう。
どの位歩いたのか分からない。幸い差ほど人に出くわすことは無く、偶に見掛ける人々は酒に酔っていたり家路を急いでいたりと、こちらに注意を向ける様子は無かった。怪しい人物も見当たら無い(私が一番怪しい格好なのは最早致し方無い)。
「先生は、ちゃんと私の後ろから付いて来られているんでしょうね?」
私は背後のスリオルト先生へ呼び掛けた。
「とっくに追いついていらっしゃるのに、からかうお積もりなんでしょう? 足音を忍ばせて私の醜態を観察しておられるんですね? 私は足が遅いですから、どうぞ追い抜いて行って頂いて構いませんよ」
返事は無かった。無いと分かっていて話し続けた。怖くて振り返る事は出来なかった。
血を流すスリオルト先生の姿が脳裏を掠める。私が先生の不在を認識さえしなければ、其処に、直ぐ後ろに先生が居られる可能性は零にならない。そんな仕様もない希望に今は縋りたかった。
そうして不毛な会話(実の所一人語りだが)をしながらどれ程進んだか。薄暗い通りの先にぼんやりと見覚えのある形を見つけ、私は漸く足を止めた。
車だ。ガス灯の真下に一台、車が止まっている。
「あれは……」
もしやという期待に胸が膨らんだ。
駆け寄った私の目が捉えた其れは、紛れもない私の車だった。スリオルト邸を訪れ、慌てて正門の前に横付けしたあの車だ。傷や凹みまで記憶通り、正しく私の相棒だ。
「何だ、先生。私の車で先回りをされるとは! いやはや先生もお人が悪い。もっと早く言って下されば」
意外な先生の機転に顔が綻ぶ。私はさっと助手席のドアノブに手を掛けた。が、鍵が掛かっていて開かない。
「先生! 私です」
ドレス姿の男がいきなり暗がりから現れたので驚いているのだろう。それにしても酷い格好だが、元はと言えば先生の注文だ。
「それにしても何時の間に車の鍵を? それとも私が鍵を差したままでしたかね? いやあ、あの時は随分慌てていたもので」
私はこんこんと車窓をノックした。
そして同時にはたと気が付いた。白衣のポケットにそっと外から手を当てる。少し前に白衣のポケットへ移したもの、先生の手書きメモとは逆の方に、持ち慣れたあるものの感触がある。
「そんなはずは。いやでもしかしこれは…車のか、ぎ?」