七 「あの方」から繋がってきた様々なこと
「ごめんなさい。私、やっぱり話すのは下手ね。話が右往左往してしまって、解り辛いでしょう?」
そう言ってクランベさんは、コーヒーカップを唇に当てた。
「そんなことないです。私、色んな意味でどきどきしっぱなしです」
ずっと息を詰めて聞いていた私は、胸に手を当て、深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
「何だか凄く新鮮です。クランベさんが取り乱す所も、スリオルト先生が悪戯っぽい事言う所も。全然、想像出来ませんね」
彼女はカップを静かにソーサーへ乗せると、口元に人差し指を当てて上品に笑った。
クランベさんと私の交友は長い。
例のあの日に出会ってからの二週間は勿論の事、幼い頃はよく遊んで貰っていた。大きくなって、大学の寄宿舎へ入ってからは直接お会い出来なくなったが、手紙の遣り取りは続けていた。
彼女は二十歳近く年の離れた私を子ども扱いせず、ずっと友人として接してくれた。それでも私から見れば、彼女はいつも気品溢れる大人の女性だった。取り乱したり大声を出したりする所など、一度も見た事は無い。
ましてやスリオルト先生とは一度もお会いしたことは無いし、敬愛する作品世界から透けて見える作家像が、私の抱く“あの方”のイメージの大半を占めている。
カラン。
喫茶店の扉の隅で鐘が鳴り、私は我に返った。
「あ、すみません。ちょっと呆けちゃいました」
「お店、貸し切りみたいね」
何時の間にか、隣のテーブルについていた二人組の男性客は居なくなっていた。
「少し話は休憩しましょうか」
彼女の視線は目の前のテーブルへ注がれていて、漸く私はある事を思い出した。
「あ……」
齧りかけのサンドウィッチの表面は、すっかり乾燥してしまっている。
「ありがとうございます……」
食べ残す、という習慣は我が家には無かった。それは矢張り、戦時中疎開先の国で食糧難を味わった、父の教訓から来たものだと思う。
私はサンドウィッチに齧り付きながら、店の奥の柱時計を確認した。十三時四十分を回っている。
待ち合わせ相手のもう一人が未だ現れない。私は少々むっとしながら、お皿の上を素早く空にした。
「お待たせしました」
クランベさんはお代わりのコーヒーを飲みながら、穏やかに頷いた。
「それで……その後、クランベさんはどうされたんですか?」
鉛筆を握り直し、私は身を乗り出す。彼女がスリオルト先生から手渡された小箱に、気になる点があるという事は何となく察していた。
「やっぱり箱にからくりが?」
「ええ、一見ただの紙箱だったのだけれど、一枚の紙を何度か折り重ねて、それを上手く組んで作られたものだったの」
「じゃあそれを開いたら……」
「ええ、中に先生からのメッセージが」
「洒落た手紙ですね」
「手紙……というより、暗号ね。他の人に見られる可能性を考えて、念には念をと思ったのか、唯単に私を困らせたかったのか」
「解読出来たんですか?」
「暗号と言っても、簡単なものよ。祖国の言葉でね、二つ文字飛ばしで読んで行くと、意味の通る文章になるの」
「良く気が付きましたね」
そう言えば話の中で、スリオルト先生から贈られた万年筆に、生まれ故郷の言葉でメッセージが彫り込まれて居たと聞いた。もしかするとそれは、あの方からクランベさんへのヒントの一つだったのかもしれない。
「私だったら、読めずに焦って、スリオルト先生の事直接尾行しちゃうかも」
彼女は目を細めて微笑んだ。
「私も焦ったのよ、最初に気付いたのは、別のメッセージだったから」
「え?」
「一枚の紙を折り込んでいる事に気付いて、紙を広げてね。最初に、私の名前を見つけたの」
「名前……」
「そう。こう、ぱっと犇き合う文字を見た瞬間、目が私の名前の綴りを拾って」
合わせた両の手をさっと開く身振りの後、彼女は左手の平に“クランべ”と書いた。
「あ、それが二つ文字飛ばしだったんですね」
「ええそう。それで、そのまま読んで行ったら、酷いのよ。私へのお説教」
「お説教?」
「もっと普段から笑った方が良いとか、休日は暖色系の女の子らしい服装をしたらどうかとか」
こんな言い方をしたら失礼かもしれない。けれど本当に、ほんのり頬を染めて唇を尖らせているクランベさんは、うんと年下の私から見ても可愛らしかった。
「チーズは栄養価が高いから、好き嫌いせずに食べようね、なんて」
「スリオルト先生、父親みたい」
「戦争で両親を失って、身寄りも無かったし、まあ、先生が親代わりではあったけれど。でも五つ位しか違わないのよ、私達。余りの子供扱いに、納得が行かなかったわ」
「スリオルト先生とクランベさん、五歳違いなんですか?」
「恐らく、ね」
「恐らく、と言うと?」
「私達に限らず、戦争で出生の記録を失くした者は多いから」
「焼けてしまったからですか」
クランベさんは肩を竦めた。
「軍が持ち出したケースも多かったみたい。先生の場合のような目的でね」
「やっぱり、そういう子供達、沢山居たんですね」
「そのようね。その持ち出し文書も、最後は人為的に燃やしてしまったでしょうから、結局焼けてしまった事に変わりないけれど」
皮肉めいた発言とは裏腹に、彼女の表情は昔を懐かしむ様に穏やかだった。焼失した過去について、何か思う所があるのかもしれない。
「それに場所によって、年齢の数え方や出生に関連した状況が様々でね。異国間の年齢の統一って、当初は大変だったのよ」
「零の概念が無い国の話は聞いた事があります。生まれた瞬間を一歳って数えるって」
私の発言に、クランベさんは頷いて肯定してくれた。
「他にもね、そもそも一年と考える日数が特有の民族もあったし、生誕に多額の税を課す国も問題だった」
「日数が異なる民族については、学生時代に文献で読みました。でも、生まれる事に税金が掛かる国は初耳です。親御さんとしては大変でしょうけれど、何が年齢統一の障害になったんですか?」
「戦前の話だけれどね。届け出をしない家が多かったらしいの」
「納税回避のために、ですか。それって、見つかったら大変ですよね」
「そうね。でも、子供にとっては、見つけて貰えない事の方が悪夢だった」
「悪夢?」
「出生記録が無いために、公的には存在しない事になる。当然、学校には通えないから読み書きは出来ないし、病院にも行けないから医療は受けられない」
「そんな……」
「その内、戦争が始まって、より生活が苦しくなった。真っ先にその影響を受けたのが、そういう子供達だったの。実の親からも居ない者として扱われるようになって、傭兵に流れた子が多かった」
言葉が出なかった。
「戦後の調査で、その地域の出身とされる人が一気に三倍になったそうよ」
「三倍、そんなに……」
「身元不明の大戦犠牲者に含まれる人達も合わせれば、統計以上になるでしょうね」
学校にも行けず、家族からも見放され、そして人知れず死んでいった子供達。想像するだけで、胸が張り裂けそうだ。
「私、雑誌記者になって、少しは見聞を広めた気になっていたんですけど……まだまだ知らない事、いっぱいあって恥ずかしいです」
唖然としながら、私は鉛筆の先を紙の上に向けて、とんと滑らせた。視界に一つの黒い点が現れる。でも、それはそう見えるだけで、本来一つのものではない。砕かれ散らばった無数の黒鉛の粉の集まりだ。
何だってそう、きちんと意志を持って注視しなければ、物事の本質に辿り着くのは難しい。
「まだまだ、学ぶべき事が沢山あるわね」
クランベさんの言葉はどこまでも優しく、私の心に染みた。彼女は矢張り尊敬する愛すべき友人だ。
「夢があるんです、私」
大それた夢だと分かっていても、彼女ならきっと理解してくれると思えるから、臆さず言葉に出来る。
「大戦を経て、色々な国で価値観や制度が変わったと知りました。以前の出来事はまだまだ不透明で、私が辿り着いていない事実も沢山あります。でも、不透明にしておきたい、隠したいって思いが働いているっていう事は、少なくとも、その時行った事は間違いだったと認めている証拠でもあると思うんです」
「そうね」
この数年で大分、“過去”が“歴史”に変わりつつある。過去を穿り返されたくないという人も、案外歴史としてなら向き合ってくれるかもしれない。私はそうしてでも良い、皆に真実と正面からぶつかって欲しかった。
「まだまだ、私なんかが出来る事、少ないですけれど。今回のスリオルト先生の物語が世に出る事で、不透明な部分にさらに光が当たればって、私、そう思っています。それが先生達から託された使命だって」
「ええ」
ウェイトレスがテーブルの横を通り過ぎて行った。つい、ふわりと揺れる腰の白いリボンに目が行き、ダルト・スリオルト著『廃屋に風船を浮かべて』の一説が脳裏に浮かぶ。
「ところで、ちょっと話は戻るんですけれど、出生の記録が無い方達って、戦後どうされたんですか、公的な身分証明とか」
「親戚、知人が生きていた場合はその人達の証言も有効だったけれど、それ以外はほぼ自己申告ね」
「自己申告、ですか」
「物凄く幼い内に戦争に巻き込まれた訳でなければ、出身地や両親の名、自分の名前等は言えるから。勿論、正直に話せばの話だけれど」
「これは聞いてもいいのか迷ったんですけれど、クランベさんとスリオルト先生って……」
「メリアさんの想像通り、二人とも全部作り物の申告よ。私の以前の名はフェリスミカ。たった十三年しか使っていない名前だから、もう本名って気はしないわね」
「スリオルト先生の本名は、お聞きになったんですか?」
クランベさんは首を横に振った。
「何度も尋ねたのだけれど、終ぞ教えて下さらなかったの。元々自分の過去については、話したがらない人だから」
「ミステリアスな感じ、スリオルト先生っぽいですね」
「そうね」
カラン。
本日数度目の鐘の音が聞こえた。
「あ!」
その響きを纏うように、肩で大きく息をした初老の男性が店内に現れる。彼は胸ポケットからハンカチを取り出すと、汗を拭きながら店内を見回した。
「やっと、作家先生のご到着ですね。全くもう、クランベさんをこんなにお待たせするなんて」
私は背中を丸めてクランベさんに顔を寄せ、小声で言った。立ち上がって手を振る気になれず、そのまま口を尖らせて頬杖を突いた。
「私はメリアさんと沢山話せて楽しかったわ」
彼女は店の出入り口を振り返らず、私と同じ格好をすると、にっこり微笑んだ。
「私も物凄く楽しかったです。それならまあ、仕方ないですね。今回はお説教、少なめにしてあげないと」
対談取材のメイン作家は、そっぽを向いている私達に気付き、帽子を外しながら苦笑いで近付いて来た。
「いやあ、すみません! 久しぶりにこっちへ来たもので。こんなに道が混んでいるとは」