六 私と「あの彼」の主情な顛末
車の窓の外は、もうすっかり穏やかな朝の風景だった。
眠っていた街が起き出す気配を感じながら、私は自身の動かし方について考えあぐねていた。そんな折は何時だって、先生から次の一手がもたらされると相場は決まっている。
「実はね、僕、今夜殺されると思うんだ」
朗らかな先生の声が、片耳から私の中に入って来て、行き場を失い蜷局を巻いた。突拍子も無い発言は先生の十八番だが、厄介事のレベルを超えていて閉口する。
私はただ静かにハンドルを強く握った。
「バルフォンって人が居てね。先の大戦の軍の関係者で、名の知れた軍人の一人だったんだ。彼、今は大手出版社に勤める民間人なんだけれど」
答えない私に構わず、先生は話し続ける。
「彼は今日、裏事情を全く知らないある人物から、とある話を聞く事になる。過去を掘り返し、日の元に晒そうという計画についてね。そして、このままではこの先自分の立場が危うくなると勘付いて、大慌てで僕を消しに来る」
「そして、予め敵の計画を知り尽くしている先生は、意表を突き、まんまと逃げ果せる、というシナリオで?」
澄まし顔を装った私は、先生のストーリーを淡々と補足した。
「そんなに上手く行くと良いんだけれど」
「……平時の、威勢はどうされたのですか」
「今回は久しぶりに手強そうでね」
動き出す前の住宅街を抜け、小さな川を渡った所で、私は車を停めた。
運転席側の扉を少し開け、外の空気を吸う。
「先程、病院内で話したライランドという男、今回の件に関係しているのですか」
「いや、彼は僕らが生み出した戦争被害者の一人だよ」
先生が助手席側の扉を開けた事で、冷たい空気が私達の顔を勢いよく撫でた。
「心が壊れてしまって、未だに少年の僕らを探しているだけだ」
先生の口から出る“僕ら”という言葉が、心に痛かった。
「バルフォンという名、何処かで聞いたことがあったと思いましたが。先生の良く寄稿されている文芸雑誌の、確か編集長でしたね」
「彼と面識は?」
「ありませんよ。先生から何度かお話を聞いた位です。背が高くて目付きが鋭いと」
「そう言えば、そんな事を言ったかもね」
「先生は随分前からその男と仕事をなさっていましたね。まさか、気付いておられたのでしょう、危険人物だと」
「バルフォン編集長が既知の人、というのは、ね。でも真っ当に業界人の顔をしていたし、まさかまだ過去に囚われているとは思わなかったな」
「過去に、囚われている……」
その言葉は私にも、そして勿論先生にも当て嵌まる。果たしてこの舞台上に、過去に囚われていない人間が居ただろうか。
「それで、立場が危うくなるというのは?」
「四階の病室で僕が言った事、覚えている?」
「……薄情者」
先生は本当に楽しそうに笑い声を上げた。
「そこは君の提案通り、意地悪に訂正しておこう。その後に僕はこうも言った、次の作品の構想を練ってるって。小説家ダルト・スリオルトはあの頃の僕らの日常を、世に出す心算でいる。そうすると困る人間が一定数存在する」
「軍の暴露本という事ですか」
「近からず遠からず、かな」
戦争から十年が経った。
もう十年と言いたいところだが、実際はまだたったの十年だ。国が負った根深い傷は未だ癒えず、情勢の不安定な世の中で言論の自由が建て前でしかない事は、仕方のない現実として多くの者が受け止めている。
先生もそれを承知の上で、戦争を描いた作品を幾つか書いていた。脚色の無い事実を冷静に並べたような小説やフィクションの皮を被った物悲しい真実の断片。案の定、世間の評価はいまいちだった。その作品群の影響か、作家として賞には今一歩届かないままだが、先生は意に介していない様子だ。
「戦争反対を声高に叫んでいるって言われたよ」
「読者にですか」
「もしかすると世間の読者の代弁者だったのかもしれない、彼は。僕の担当編集のミデルフォーネさんにね」
「まあ、その様な見方もあるのでしょう」
「君もそう思う?」
「私は……」
真っ赤に染まり行くノモモギの街中で、瓦礫の山に立ったナナが、私へ伸ばした白い腕をふと思い出した。
「戦争は悪です。もうあんな事を繰り返さないために、反戦を唱えるのは、表に立てる者の義務だと思います。でも……あの時の私達にあったのは、単なる日常です。戦禍と地続きの日常でした」
「うん」
「先生が小説内で描かれるのは、当時の、直中のあの空気に似ています。主義主張は、振り返って初めて沸いて来るものです。戦争に賛成だ反対だ等と、あの頃の私達にはそんな事を考える余裕すら無かった……」
「うん。あの空気は、あの場で息をした人同士でしか、共有は難しいだろうね。この感覚を言葉にして人に分かってもらうのは、本当に至難の業だ」
「それが先生のお仕事でしょう」
「やっぱり、僕は引退だな」
二人の間にふと沈黙が降りて、小鳥の囀りが鮮明に聞こえた。平和な日常の音だ。
「先生」
今なら、そう思った。
「ずっと聞けなかった事があります」
「うん」
正確には、ずっと尋ねる素振りで上手くかわされてきた事が、だ。
「……“メメント・モリ”とは、一体何ですか?」
珍しく先生は私から目を逸らし遠くを見た。
「私はずっと、元傭兵の少年達のチーム名か、自分達を奮い立たせるための合言葉か何かだと思っていました。“メメント・モリ”、その名は一体」
「その問いに答えるには、ちょっと夜が明け過ぎたかな」
私は続ける積りの言葉を飲み込んだ。
はっきりとした返答で区切りを付けたかったような気もするし、曖昧なまま正解を探し続ける方が良い気もした。それでも予想していた通り、“メメント・モリ”には世間の認識とは違う、何かがあるのだという確信が残った。
「ごめん、そろそろ準備しないといけない事があって。そうだな、コルンバルトリー中央病院の裏手に降ろして貰えると助かるんだけれど、いいかな?」
「私の返事は聞かずともご存知でしょう」
二人の扉を閉めるタイミングがぴったり重なり、そんな些細な事を嬉しく感じた。
エンジンをかけ、車を発進させる。少し窓を開け、空気を切る音を聞いた。
そう言えば、こうして隣に並んで長く話すのは何時ぶりだろう。
私は、すっかり肩の力が抜けたのを感じた。
「先生、この後のご予定は?」
「そうだね……心残りが少ない様に、遣りたい事をするって感じかな」
「好き勝手に生きて来られた先生に、まだ心残りがあるのですか」
「山のように、ね。僕はほら、欲張りだから」
人間の三大欲求を全く意に介しない先生の台詞とは思えない。私は目を剥いて黙っていた。
「一番はそうだな、まだ君に診察してもらっていないって事かな」
「残念ですが、精神科に進む予定はありませんよ」
「頭脳明晰、冷静沈着、それでいて意外と泥臭い行動派」
「それは褒めているのですか」
「褒めてるよ。君はペンよりもメスが似合う気がする。外科なんてどうかな」
「似合わないと分かっていて、私に万年筆を贈ったのですか」
「出世に万年筆は必需品だよ。アデックケナーの偉い人になって、病院の腐敗を内部から食い止めて貰いたいなあ。いやそれより、コルンバルトリーの外科部長の椅子の方がぴったりかもしれない」
「一介の研修医に向かって、何をとぼけた事を」
「きっと大丈夫だよ、君なら」
「でしたら、その時まで責任を持って見届けて頂かないと」
さっと視線を横へ遣ると、先生は肩を竦めながら優しく微笑んだ。しかし、私の発言についての返答は無かった。
「そう言えば、私の今日の予定は、あの箱を開ければ解るのでしたね」
「うーん、それなんだけれど……」
先生は低く唸った後、そのままゼンマイが切れた人形のように黙り込んだ。
コルンバルトリー中央病院まで数分で到着するという頃になって、唐突に先生は口を開いた。
「やっぱり自由だ」
「え?」
咄嗟の事で、気の抜けた返事をしてしまう。
「君を解放するよ、フェリス」
エンジン音と風の音とが煩わしい。それらに交じり合いながらも、強烈な台詞は私の耳に届いた。言葉が出なかった。
「僕は君に、命の恩人という枷を嵌めて利用して来た」
落ち着いた冷たい声だった。
「箱の中のそれはね、協力の域を超えている。夢を棒に振るかもしれないし、命を危険に晒す可能性もある。そうまでして、この計画に君が乗り続ける必要はない」
「……先生のおっしゃる意味が分かりません」
「ねぇ、フェリス」
「その名は……」
心の内で先生を罵った。先生は私の気持ちを見通している。その上で、戦禍に消えた街で全てを失った、十三の少女の名を口にするなんて、矢張りこの人は意地が悪い。
「その名は、ノモモギの中央記念公園、あの戦没者慰霊碑に刻まれた時に捨てて来ました。今此処に居るのはダルタエ・クランベ、先生の優秀な助手です」
悲痛な表情を浮かべた先生は、こちらをじっと見つめていた。その瞳は、今にも零れ出しそうな涙で潤んでいる。
私は眉根を寄せた。
「三文芝居もいい加減にして下さい」
息を細く吐き出しながら、ハンドルを人差し指でとんとんと叩く。
「人心掌握術の実験ですか。そうやって突き離して、余計に離れ難くさせようと」
「もし、そうだと言ったら?」
「意地悪な人」
ついに堪えられなくなったのか、先生は表情を崩した。
「言うと思った」
深く溜息を吐きながら、私は額に片手を当て首を大げさに左右に振った。
「そんな事をなさらなくても、私が先生にぞっこんなのは百も承知でしょう」
子供の様な無邪気さで先生が頷く。
「クランべは本当に、素直なんだかそうじゃないんだか」
謀ったかのように大きな木が視界に入った。
コルンバルトリー中央病院の裏手に植えられている、戦争を生き延びた老木だ。
「着きましたよ」
「うん、ありがとう」
先生は車を降り、そのままドアを閉め掛けて手を止めると、顔だけを車内へ向けた。
「からかってごめん。でもクランベ、君ならこの場面で、僕を見捨てないって信じていたよ」
「先生にはもう少し演技力を磨いて頂かないと。騙され甲斐がありませんから」
「クランべがどう騙されてくれるのか楽しみだな」
一瞬片目を瞑って合図を送った先生の顔を、その後何年も、私は夜の夢に見た。