五 私と「あの彼」の珍妙な顛末
「やあ」
「え?」
扉の向こうから現れたのは、あろうことか満面の笑みを浮かべたスリオルト先生だった。
私は呆気に取られ、その場にしゃがみ込んだ。
「先生、どうして、此処に……」
「ごめん、随分と驚かせたみたいだね」
先生は声を上げて笑うと、ゆっくり室内に入り、後ろ手で扉を閉めた。
「何だ貴様は!」
棘のある男の声が背後から続いている。
「見回りの看護婦さん、足止めしてくれて助かったよ。あの人何時も、歩くのが早くてね」
緊迫した空気の中、相変わらずの飄々とした話し方で先生は私に話し掛ける。
「おい」
「でもお陰でゆっくり最後の挨拶が出来た」
「おい女! その奇妙な奴は何だ!」
「本当はもっと早く、あの部屋へ招待しようと思っていたんだけど」
「貴様等、どういう積もりだ。俺を馬鹿にしているのか!」
私は今度こそ振り返った。そこには鬼気迫る形相の男が一人、ライフルを手に身構えていた。
「え……?」
言葉を失う私に対して、先生は咳払いを一つして落ち着いた声を出した。
「どうも、ご挨拶が遅れまして申し訳ありません、ライランド上等。お元気そうで何よりです」
余裕たっぷりの先生の態度に、ライランドと呼ばれた男は苛々と歯軋りした。
「そのご様子では、今日も傭兵の少年達をお探しのようですね」
「気安く俺に話しかけるな! さては貴様もナナの回し者だな」
ライランドの口から“ナナ”の名が出た事で、私は明らかに動揺した。
「ああ、例の彼ですか。それなら、さっき上の階で見かけたと思いますが」
「何だと!? 嘘を吐け! 俺を騙そうったって、その手には乗らんぞ」
「先生、彼は一体……」
「大丈夫、任せて」
先生は私に耳打ちしながら手を差し伸べると、腕を優しく引いて立ち上がらせてくれた。
「ライランド上等のお探しの少年兵は、歳の頃十五、これくらいの身長ではないですか?」
掌で少し小柄な子供の背丈を指し示しながら、先生は首を傾げた。
「……そうだ」
警戒心を剥き出しにしながらも、ライランドは頷いた。
「それならやっぱり。僕は割と夜目が利くんです。さっきまで上の階を彷徨いていました。貴方を狙っているのか、はたまたバルフォン曹長からのあの指令書を狙っているのか」
その名を耳にした途端、ライランドの目の色が変わった。バルフォン、私も何処かで聞き覚えのある名だった。
「……貴様、何故曹長の名を知っている?」
「僕も部隊は違えど戦闘員の一人ですからね。バルフォン曹長の隊にも知り合いは大勢。曹長の恵まれた体躯に冴え渡る采配。数々の勲章に彩られた軍服。まさに軍人の鑑のような方ですね」
ライランドはふんと鼻を鳴らした。
「何だ、分かっているじゃないか。口の効き方には問題があるがな。お前、一体何処の隊だ」
「バルフォン曹長には最近お会いになりましたか?」
「……曹長は前線に赴いて居られる。お戻りになるのはまだ先だろう」
「そうですか……」
先生は首を傾げたまま、顎に指を当て考え込む様な素振りを見せた。
「……何だ」
「いえ、それでしたら私の方がバルフォン曹長にお会いしたのは新しいようですね。今は随分後方に居られますよ。いえ、寧ろ最前線かもしれませんが」
「どういう意味だ」
二人の会話の内容は全く分からなかったが、先生は共通の関係者の話から上手く相手の興味を引いたらしい。ライランドの構えていたライフルの銃口は次第に下を向いた。
「私は一月ほど前にお会いしたのです」
「何だと?」
「直筆の書面も頂きましてね」
「曹長手ずから……見せてみろ」
「何です?」
「曹長自らお書きになった書面とあらば、肌身離さず持ち歩いて居るのだろうな? 見せてみろ」
「困りましたね」
「矢張り嘘か。そんな書面は無いのだろう!」
「いえ、密命というものは、例え味方の隊に所属している方であっても、おいそれと明かせるものでは……」
「密命だと!?」
彼は私と先生を値踏みするように睨んだ。
「先程、別の者があなたの潜伏先にも書面を届けに行ったと報告を受けたのですが、そのご様子ではまだご覧になっておられないのですね」
「俺宛てに? 曹長が密命を?」
明らかにライランドは動揺していた。目を泳がせながら思案している。
「あなたの手元にないとなると、密命の書状は一体今どこに……? 機密事項の漏洩は命に関わる失態。少年兵の目的が隊の混乱なら、格好の標的と成り得ますね」
「そ、それは……」
「こうしている間にも……何なら今すぐに見て来ましょう」
先生はくるりとライランドに背を向け、扉に近付いた。
「いや、動くな! まだ信用はできん」
「なら、僕は此処に残りますから、彼女を行かせましょう。女性の方が、少年達も油断するかもしれません」
急に話を振られ、私は先生の意図を必死に汲み取ろうと目をしばたたかせた。
「いや、白衣の女等、より信用できん。貴様等は此処に居ろ。俺が戻るまで絶対に動くなよ、命令だ」
最後に念を押すように私達を睨みつけた後、ライランドは慌ただしく病室を飛び出して行った。
「先生、良かったのですか、あのまま上の階へ戻らせて」
「大丈夫。彼、あんな権幕だけれど、美人の看護婦さんには結構奥手らしいから」
「でも、ライフルを……」
「あれ、良く出来てるよね。日の下で見たらびっくりするよ」
「偽物だったのですか……それはそうですね、失念していました」
「木彫りなんだ、あれ。悪趣味な作品だよね。あ、そうそう、君に凄い剣幕だったのは、白衣のせいだよ」
一瞬先生が何を言っているか分からなかったが、その冗談に気付き、私は冷静さを取り戻した。
「白衣の白さが反射して、私の美しさが見えなかったという事ですね」
「それもあるかもね。まあ彼、白衣の女性に相当トラウマがあるから」
「過去に何かなさったんですか」
「まあ、その話はいずれ。早く出てあげよう、彼が可哀想だ」
先生が視線で差した病室奥のベッドには、この部屋の真の入院患者が怯えた子猫のような目で震えていた。
私達は中央棟入口へ戻った。
先程は動転していて気が付かなかったが、先生は白衣をはためかせ、鼻の下に立派な髭を蓄えていた。片足を不自然に曲げ、特徴的な歩き方のまま平然と守衛室の前を通って行く。
私は訪問時に声を掛けた手前、挨拶をしてから行こうと歩く速度を落とした。白衣の左ポケットから徽章を出し、ありましたと告げようと立ち止まる。
守衛のパウティスは上を向いて制帽を鼻の上に被り、彼の発言通り眠りこけていた。守衛室の扉は数時間前に開けた時のままなのか、異様に大きく開かれている。
一瞬、冷や水を浴びせられたように心臓が締め付けられた。
「……パウティスさん?」
そっと近付き、彼の制帽を恐る恐る持ち上げる。
その下には幸せそうな寝顔があり、パウティスは軽くいびきをかいていた。
安堵の溜息が漏れる。随分と深いその眠り方は不自然であったが、詮索はしない事にした。
ふと通り過ぎ掛けた時、カウンターの上に倒れた小瓶が目に入った。態とらしく床へ水滴を垂らしているそれを、私は溜息交じりに白衣のポケットへ仕舞った。
白衣を脱ぎ、車に乗り込む。
異変には勿論直ぐに気が付いたが、平然と普段通りの手順で発進の準備をした。
「どちらに行かれますか?」
「うーん、そうだね」
前を見据えたままの私の問い掛けに、隣から眠たげな声が返る。
「珍しいですね。何時もの先生でしたら、この車には乗らずに、反対方向へ行かれるのでは?」
「最近ゆっくり話してなかったなと思って。たまには助手席も悪くない」
「そうですか」
辺りはどんどんと明るさを増す。このまま勤務先の病院の敷地内に居て、先生との繋がりが明るみに出るのは都合が悪い。
私は行き先を聞かずにハンドルを切った。
「まさか、君があの病室に来るとはね。予想外だった」
「その割には驚いておられなかったようですが」
「まあ、予想外だったけれど、納得は行ったからね。僕が昨日、また後で、なんて言ったから、会う可能性の高い場所を攻めたってところかな」
図星過ぎて面白くない私は無表情のまま尋ねた。
「元々の先生のご予定では、どうなさるお心算だったのですか」
「病院を出た後に、君の下宿を訪ねる予定だった」
「こんな朝早くに起きていませんよ」
「君の事だから、微かな物音で目覚めるか、それこそ、また後でに反応して一晩中起きているか」
「どのルートを選んでも、私の睡眠は妨害される運命だったのですね」
「冗談だよ。でも、また後で、は我ながら無かったな。ごめん、あの時君がそっちの一言を気にするとは考えて無くて。ただ、次の日に下宿先のポストへ、さっきの箱を投函する積もりだった」
「さっきの……万年筆の箱」
「お察しの通り、メインは中身より箱でね」
運転しながら、先程の小箱を入れたズボンのポケットへ視線を遣る。先生の意図が贈り物でなかったとしても、手元に形のあるものが残ったという事実に私の心は打ち震えていた。
「あ、まだ開かないでね」
「開きませんよ。このまま市場の野菜をジュースにする訳には行きませんから」
「それもそうか。くれぐれも安全運転で……なんて、君には不要なアドバイスだったね」
私は得意顔で首を縦に振った。
「箱は後でじっくり見てもらうとして……直接会ってゆっくり話せるとは思ってなかったから、どうしようかな」
「何か厄介事を抱えているのですね」
「まあね」