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小説『メメント・モリ』の里程標  作者: 長岡まさ
第二章 ミデルフォーネとクランベ 
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四 私と「あの彼」の粋狂な顛末 乙

「やはり、先生には“薄情”より“意地悪”の方がお似合いです」

 精一杯の虚勢が先生に通じない事は分かっていた。

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 今にも吹き出しそうな笑顔で、撫でるように優しい声を出すなんて、反則だ。私はつい表情を崩した。

 病室のドアを後ろ手で閉めてから、その場で数秒、息を整えた。

「先生が、私に……」

 鼓動が平常時の何倍も早く感じられる。私は自らの頬を平手で軽く叩いた。冷静さを欠いている場合では無いが、多少浮かれるのは致し方無い。

 胸ポケットに差したはずの万年筆は、もしや幻だったのではないかと不安になり、手を遣る。其処には硬く確かな感触があった。私は指先でその輪郭を弄びながら、廊下をゆっくり歩き出した。


「また、ご旅行ですか?」

 私が十五の頃だ。

 片手で下げられる程のトランクに紙の束を詰めながら鼻歌を歌う先生に、私は声を掛けた。

「うん。旅行というより、冒険って感じだけど。君も一緒にどう?」

「旅費が倍になりますよ」

「お金の心配? それくらい、平気だよ。久しぶりに国外に出てみるのも気分転換になるし、良いものだよ」

「いえ、私は結構です。勉学に遅れが出ますから」

 私は先程まで解いていた机上の数式に目を遣った。数カ月後に迫った入学試験まで、さらに自分を高めたい。

「クランべの学力なら、今のままで十分合格出来るよ」

「それは、正規の入学ではないから試験の中身は関係が無い、という事ですか?」

 意地の悪い尋ね方だと、自己嫌悪する。

「流石に正解の問題が半分も無い様だったら、賄賂は積めても日々の授業フォローに無理が出そうだね」

「矢張り……」

 肩を落とした私の頭に、彼は手を置いた。

「先生?」

「君は寧ろ、物事を単純に見る能力を磨かないとね。僕は賄賂なんて積んで無いよ」

「……本当ですか?」

「勿論。社会貢献に積極的な学校だからね。僕が如何こうせずとも、戦争孤児の入学補助は手厚いらしい。ただ、クランべの夢には少々レベルが合わないのが難点かな」

「私の夢?」

「高い目標を目指すには、少し物足りないかも」

 怪訝な顔をする私に向かって、先生は何でもない事のように言った。

「医者になるなら、誰かに家庭教師を頼んだ方が良さそうかな」

 思わず私は息を飲んだ。

「え、先生、どうしてそれを……」

「入学は心配無いけれど、あの学校の授業だけじゃ、その上に進む時に苦労するかもしれない。なんて、まだまだ先の話だけどね」

 先生は再度トランクに向き直り、蓋を閉め鍵を掛けた。

「はぐらかさないで下さい、先生。如何して私が医者になりたいと知っているのですか?」

「うーん、野生の勘かな」

「先生!」

 私は顔を真っ赤にした。取り合ってくれない先生への怒りと、内緒にしていたはずの大それた夢を知られていた恥ずかしさからだ。

 先生は肩を奮わせて笑っていた。

「とりあえず、僕は明後日出発するけれど、気が変わったら何時でも言ってね。四日程で帰る予定」

「いえ、私は……でも、そうですね、一つお願いを聞いて貰えますか?」

 もうこの際だと、思ったままを素直に口にした。

「お願い?」

「はい。安物で構いませんので、何か……お土産が欲しいです」

「お土産かぁ、何がいいかな。確か名産のフルーツがあったけど、長持ちしないからなぁ。あ、駅前通りに伝統焼き菓子の専門店があったか。食べた事は無いけれど、あれ美味しいのかな」

「食べ物以外というのは」

 言い掛けた私の言葉を、先生はやんわりと遮った。

「そうだね、あの辺り木製彫刻も有名だけど、趣味の悪いデザインばかりだし。ベッドサイドに置いたら毎晩悪夢を見ることになるかも」

「……矢張り、形に残る物は駄目なのですね」

 先生は思考を巡らすようにぐるりと目を回した後、笑顔で言った。

「まだ時間はあるし、ゆっくり考えよう」


 あの時、結局土産として貰ったのは、名産フルーツで拵えた瓶詰ジャムだった。私が学校の寄宿舎に入るまでの数カ月、それは私達の食卓に毎朝現れた。

 ジャムの味はとうの昔に忘れてしまったが、瓶に巻かれていた鮮やかなコバルトブルーのリボンは、随分長いこと手元にあった。寄宿舎を出る引っ越しの際に失くしてしまい、先生に泣いて訴えたのを覚えている。

 無性に込み上げて来る恥ずかしさを振り払うように、私は少し足を速めた。


 突き当たりの階段に差し掛かった時、遠くの闇からガシャンという大きな音が響いた。

「規定時間より、少し早い……」

 噛み合わせの悪い窓を強引に閉める音だった。明方の見回り時間には少し早かったが、見回りの看護婦以外にわざわざ窓を閉めて回る者はいない筈だ。

 私が開けておいたのは、中央棟と東病棟を結ぶ二階通路の窓だった。あの通路の窓は枠がほんの少し傾いており、慎重に水平を保ちながら閉めないと、左右の窓がぶつかり大袈裟な音を立てる。

 私は一つ下の階へ移動し、手近な窓を静かに開けながら三階病室前を端から端まで進んだ。その間にも、ガシャン、ガシャシャンとガラスが擦れるような高音が鳴り響いている。

 さらに東病棟二階の窓も一通り開け、脇の階段に差し掛かった時、通路に響く足音と共に女性の唸り声が聞こえた。

「だからこの病棟は、嫌いなのよ!」

 私は直ぐに手近な病室に滑り込む。

 ドアをうっすらと開け隙間から覗くと、目の前の開いた窓から身を乗り出している人影が見えた。足元に置かれたランプのオレンジ色の光の中で、年若い看護婦が繰り返し悪態を吐いている。

 この東病棟の東側の窓は下の階ほど廊下が薄暗く、例に漏れず建て付けも悪い。

 見回りの看護婦は思うように閉まらない窓に気を取られていて、真後ろの病室から覗き見る私には気付いていない様だった。

 東病棟三階の端の入院患者が疑われるだろう、と他人事のように思った。彼は元軍人で、戦時中に負った心の傷から、この病棟の古株となっていた。以前にも「少年兵が暴動を起こした!」等と騒ぎ立て、夜中に院内の窓という窓を開けて回った前科がある。

 看護婦が二階の窓を閉め終わり三階へ上がるのを待って、病室の取っ手を握り直した時だった。

「貴様、此処で何をしている」

 背後から聞こえたのは、低い男の声だった。一気に跳ね上がる心音と電気が走ったように痺れた神経が、まともな判断を鈍らせた。

「あ、あの……」

 病室内からの声なのだから、恐らくこの部屋の入院患者なのだ。私は今白衣を羽織っているのだから、見回りだの点検だのと言って、さっさと立ち去ってしまえば良いのだ。そう分かっているのに、背中に浴びる鋭い視線と威圧感で、振り返る事が出来なかった。

「さては、あいつらの仲間だな。医者の振りなぞしても、俺の目は誤魔化せんぞ」

「え……」

 その時、取っ手に掛けたままの私の手が独りでに下がった。

 誰かが向こう側から、この部屋の扉を開けたのだ。

 私は呼吸を忘れ、挟まれた、と心の中で呟いた。

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